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二枚橋 その2

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図は1:10000地形図「東京6号西北部の25 多磨霊園」(1955年地理調査所発行)の一部である。
図の左下に「この図の測量は戦災及び経済復興のため貸与された下記の米国陸軍空中写真を併用」とあり、つづいて1947年10月に撮影された空中写真の番号が記載されている。つまりこの図は、大岡昇平が妻子とともに富永邸に一時寄寓(1948年1月から12月)していた時分の記録である。富永邸は図の左上「製糸工場」の崖下の「400」(地番)の数字のかかる家である。

鉄道には「西武境線」と注記があり、その「西」の字のすぐ右側の二枚橋には名前がないが、図の右上国分寺崖線を上ったところに「二枚橋上」と字名がみえる。
野川河川敷の多くは水田化されている。大岡が言うように二枚橋のところで川幅は急に狭くなり、川の左岸は広葉樹と針葉樹の記号が入り混じる。右端の朱色の四角を擁するエリアは中島飛行機の三鷹研究所跡地で、「国際キリスト教大学」と注記がなされている(図外)。右上に引き込み線がみえ「小金井砕石場」とあるのは、戦災復興特需の多摩川の砂利を適切な建築素材とすべく、ここで盛んに分別し砕石していたのである。

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こちらは1万分の1地形図「東京6-4-4 小金井」(2003年1月国土地理院発行)の一部で、上掲図とほぼ同範囲である。
橋には「二枚橋」と注記があり、その南側に巨大な「塵芥焼却場」が稼働している。「二枚橋老人福祉センター」とあるのは、焼却場の余熱を利用した浴場や温水プールの施設であろう。
しかしこの図でもっとも注目したいのは、国分寺崖線上の住宅地の拡大や都立公園、運転免許試験場などの施設の展開ではなくて、野川の流路である。
河川改修の結果その形と幅がまったく変容し、さらには常流の水深すら変化したと思われる。
その時は橋も、その構造や躯体素材そして幅も長さなども、以前とは大きく変わってしまったのである。

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