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怪しい地図記号 その1

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上掲は陸地測量部の地図に実際に使用されている地図記号だが、これまで誰も触れたことがない。
「建設省国土地理院監修」と銘打った『地図記号のうつりかわり ー地形図図式・記号の変遷ー』(編集発行日本地図センター)が刊行されたのは1994年の春(年度末)で、それは旧日本陸軍(陸測)・現地理院系の地図記号を図式年度別に網羅した労作(索引がないのが残念)だが、そこにも見当たらないのである。

古い地形図の類を丹念に見ていくと、上掲にかぎらず旧陸測図にも今日知られざる地図記号が時々見つかることがある。

さてこの地図記号、上部の角が昆虫の触角めいて「仮面ライダー」の顔を想起させ怪しい雰囲気であるが、その正体や如何に。
この記号の出典は下の図であるが、どこにあるか多分すぐお分かりと思う。

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輯製二十万分一図「東京」(1906:M39修正)図の一部

「輯製二十万分一図」は旧陸軍の陸地測量部が日本列島全域をはじめて地図にしたもので正式測量以前であるからかなりラフな内容を特徴とするが、そのうち首都圏部分は二万分一の迅速測図をもととしているため例外的に描図が精細である。
この図でも細かいケバ方式により、段丘面の開析谷やその谷壁がよく示されているのを見ることができる。図の左下(南西)から図をほぼ二分するように北上し、上端で妙正寺川と合流(落合)するのは神田川である。
内藤新宿で分岐するのは甲州街道と青梅街道。甲州街道は玉川上水が沿う尾根道で、方や青梅街道からは五日市街道が分岐しているのがよくわかる。

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輯製二十万分一図「東京」(1888:M21輯製)図の一部

上図の18年前である。
五日市街道はこの図では一条線の「里道」記号で描かれているが上図では二条線の「県道」であるから、この間に「昇格」したらしい。ちなみに青梅街道も二条線の県道、それに対して甲州街道は二条線の片側が太い「国道」であるのは変わらない。
一方、鉄道は1885年に開業した日本鉄道の品川―赤羽間支線(現山手線の一部)は見えるものの、甲武鉄道(中央線)はまだ描かれない。甲武鉄道新宿―立川間の開業は1889年(M21)だから、この図の翌年である。
たとえば青梅街道北の桃園川の谷を念頭に両図を見比べると、鉄道が描かれることによって地形表現がどれほど駆逐されたかがわかるだろう。
怪しい地図記号も存在しないけれども、桃園川谷と青梅街道(尾根道)の間、「中野」の「中」の文字の右下に、下掲のような地図記号が記入されている(上図では鉄道記入のためか、この記号が存在することは確かだが一部消えかかって明瞭ではない)。

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これは怪しいと言っても正体は明示されていて、『地図記号のうつりかわり ー地形図図式・記号の変遷ー』では「郵便局」とし、その註に「郵便運送馬車や郵便収集車の旗の図案」と書いてある。しかしそうだとしても旗の図が何故このような「ひとつ串団子」なのかわからない。
ネット情報によると、この記号はそもそも白地に赤の太い横線を伴った大きな丸で、郵便配達員の制服や制帽、旗に用いられたものらしい。左右赤帯付の日の丸とは、日本列島右行き左行き(右往左往)ということなのか、結果として1884(M17)年の太政官布告により、これが正式に「郵便徽章」と定められた。
お役所徽章が地図記号と相成ったのだが、「明治24年式」からは一目で理解できる角封筒のマーク(✉)に変えられたのである。折角の改正であったものが、「明治42年式」にこれまた理解不能の〒マークに変えられて現在に至る。

「2020オリンピック」を契機に、この日本列島ひとりよがり記号〒を✉に変えようとする動きもあったが、それもうやむやとなった。現代にひきつがれたひとりよがり地図記号はこのほかにいくつも挙げらる。インターネットサイト「意味不明!覚えにくすぎる「地図記号」、どうしてこうなった!?」などで指摘されているのがその代表例だろう。
非常口マークを代表とする屋内外のサインやシンボル、ロゴマークと異なり、地図記号はかつては旧軍が、現在は役所が「告示」するものであるため合理性の検討に欠け、逆にそれを伝統として誇るような傾きをもつのである。古い地図記号のいくつかは、サインデザインの専門家や市民のパブリックコメントの点検を経て、生まれ変わる必要がある。

さて郵便がなぜ〒なのかといえば、それは1887年の逓信省告示で「本省全般の徽章」とされたからという。これまたお役所徽章であるが、その由来については逓信省の「テ」からという説ほかいくつかあって、確定していない。逓信省は郵便のみならず電信、電話ほか交通通信全般を管轄していた、いわば大お役所であった。

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麻布「がま池」の正体 補遺

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上掲は参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図」全9面のうち、「東京南西部」(1887年出版)の一部。前回掲げたのは原図でこちらはその印刷図にあたる。
モノクロ図だがスキャニングの精度を最大限としたので、細部の読取りが可能である。
「蝦池」の隅から細流が北東に下り(築堤は半ば暗渠)、水田の端から後は道路脇のドブ板下の溝あるいは暗渠とされたであろう、弓なりに古川の一之橋方面に向かうのがよくわかる。
原図に記入されていた測線と水準点および水準点の標高(数値)は払拭され、この図がいわば清描であることがわかる。それだけに原図の測線と水準点情報は重要で、原図複製の安易さが悔やまれるのである。

さて、「宮村町」と「宮下町」の文字の間の弓なりの道は谷道で両端は坂下、「宮村町」の下の交差部から東南東に上る直線道は「狸坂」という。
その反対側、「宮下町」の「下」の文字が掛かる道の傾斜部は今日「暗闇坂」として知られているが、この図では「於化坂」(おばけざか)の注記が見える。於化坂途中の邸宅のあるあたりは、現在ではオーストリア大使館の敷地である。
この二つの坂下は標高10メートル以下、坂上は20メートル以上であることが、等高線から明瞭に読み取れる。

図の右端「徳正寺」の文字の掛かるあたりは「大黒坂」の一部。その左下暗闇坂と狸坂の交差部は麻布の一本松として知られる名所で、そこから南西に下るのが「一本松坂」である。

さて、両端に坂下をもった弓なりの谷道であるが、以下2つの文章に目を通されたい。

 十月十二日の時雨ふる朝に、わたしたちは目白の額田方を立退いて、麻布宮村町へ引き移ることになった。日蓮宗の寺の門前で、(略)、裏は高い崖になっていて、南向きの庭には崖の裾の草堤が斜めに押寄せていた。/崖下の家はあまり嬉しくないなどと贅沢をいっている場合ではない。なにしろ大震災の後、どこにも滅多に空家のあろうはずはなく、さんざん探し抜いた挙句の果に、河野義博君の紹介でようようここに落付くことになったのは、まだしもの幸いであるといわなければなるまい。(『岡本綺堂随筆集』Ⅳ十番雑記、一 仮住居) 

 「狸坂くらやみ坂や秋の暮」 これは私がここへ移転当時の句である。わたしの門前は東西に通じる横丁の細路で、その両端には南へ登る長い坂がある。東の坂はくらやみ坂、西の坂は狸坂と呼ばれている。今でもかなり高い、薄暗いような坂路であるから、昔はさこそと推量(おしはか)られて、狸坂くらやみ坂の名も偶然でないことを思わせた。時は晩秋、今のわたしの身に取っては、この二つの坂の名が一層幽暗の感を深うしたのであった。(『岡本綺堂随筆集』Ⅳ十番雑記、二 箙の梅)

前の文の「日蓮宗の寺」とは、上掲地図上辺に見える三宇の寺(卍マーク付)のうちもっとも上端寄りの日蓮宗安全寺で、今日でも露地奥に寺堂をみることができる。
岡本綺堂は父親の仕事の関係上イギリス大使館裏、すなわち麹町台地の元園町に自宅があった。だから関東地震当日家が潰れることはなかった。三度、四度の余震の後「しかしここらは無難で仕合せでした。殆ど被害がないといってもいいくらいです」と町内で言い合っていたものの、夜になって降りかかってきた火の粉を防ぐことはかなわなかったのである。
麻布の崖下に家を見つけ仮住まいとすることができたのは、この一帯が奇跡的に被災しなかった、つまり焼けなかったからである。

そのあたりの様子を『新修港区史』(1979) では次のように記載している。 

 この大震災のため、日本橋区や本所区、浅草区、神田区は九〇%以上の焼失、京橋・深川の両区が八五%以上の焼失という火災による被害が震災を上回る被害であったにたいし、芝区は二四%の焼失、赤坂区は七%の焼失、麻布区に至ってはほとんど焼失被害は零に近かったといってよい。下町に比べて、山の手の火災被害は軽かったが、飛びぬけて、牛込・四谷とともに麻布区の被害は軽かったといえる。(第1編第6章、近代、p.580)

しかし不燃建築物が都心の大部分を占める現代では事情が異なる。
最近刊行の『港区史 自然編』(2020)が警告するように、麻布谷底低地には「湿地にみられる「泥炭層」という、未分解の植物遺体がスポンジのように水を含んだ層が堆積しており、局地的に軟弱地盤をつくっている」ため、大地震時の振動は台地上の比ではないのである。
がま池の「土手」底部は水田だったとは言え谷頭部だから滞水域とはならず、泥炭層も形成されなかったろう。しかし尾根道をはさんで反対側、笄川の開析谷壁にあたる有栖川宮記念公園の谷がそうであるように、目に見える湧水が涸れたとは言え、じわじわと浸み出す地下水は健在である。その上に形成された近世初期の盛土部つまり人工地形が、大地震にいかなる動きを見せるか、注目しどころのひとつなのである。

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写真はがま池を造成した際の土手部で、路が盛り上がっているのがわかる。写真手前ががま池の北端べりで、奥が旧水田地帯。道を下れば宮村児童公園脇を通り、その先は狸坂下につづく。

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麻布「がま池」の正体

「芝道」については書かなければいけないことをまだ残しているが、忘れないうちに東京都港区元麻布二丁目の「がま池」について記しておく。

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上掲は参謀本部陸軍部測量局「東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍」および「東京府武蔵国麻布区桜田町広尾町及南豊島郡下渋谷村近傍」(いずれも1883年:明治16測図)の一部。図の下辺中央の道交差部は「仙台坂上」で坂は右(東北東)に下る。左下の三角形は現港区立有栖川宮記念公園の角地。等高線を見れば道はここではすべて尾根道で、「蝦池」は一の橋に下る古川の一支流の、W字型をした谷頭部の一つを堰き止めてつくられた人工池であったことがわかる。「蝦池」を堰き止めた土手の北には「水」とありそこは水田である。水田の東側に「蘆」(アシ)の字が記入された草色の細長い区画があるが、その一部は現「宮村児童公園」として残されている。

水田の中に破線が走り、小さな丸印が描かれているが、それは測線と水準測量点を記したものである。しかし拡大しても水準点に添えられた数字を読み取ることは不可能である。これら数字のみならず描図要素すべてが拡大に耐え得ない。デジタル化(東京時層地図)にあたって原図とした複製印刷図が高精細でなかったことに主因があるのだが、この図群は「地図の宝石」(前田愛)とまで言われた近代初期測量地図の傑作でもあり、まことに残念と言わざるを得ない。地図の複製印刷およびデジタル化の「悪例」として指摘しておく。

さて、都内の「池」について概観すると、「不忍池」は都内に存在する自然の池の代表で、縄文海進による侵食(海成段丘の形成)と堆積(侵食された土砂の砂州化)による河口(古石神井川)閉塞によって形成された(松田磐余『対話で学ぶ 江戸東京・横浜の地形』2013)。

自然の池に対して人工の池が存在するが、実は都内の公園の池の多くはそれであって、例えば東大本郷キャンパスの三四郎池や新宿御苑の玉藻池は旧大名庭園に由来し、堤を築いて谷地を閉塞するか(玉藻池)、段丘面を掘り窪めて湧水を溜めるか(三四郎池)、海面の埋立を一部残すもしくは埋立後の掘り込みで汐入の池とする(芝離宮・浜離宮)か、いずれかの方法で造成されたものである。

そうして形成時期は自然の池ほどは遡らないものの、大名庭園よりもさらに古い人工の池というものがあって、それは溜池である。
近代初期に埋め立てられ地名にのみ残る現千代田区の「溜池」は、近世初期の上水水源として鮫ヶ橋谷などの開析谷から下る水流を堰き止めてつくられたダムであった。

麻布の「がま池」も実はダムなのだが、その本来の姿は水田灌漑用の溜池である。池の造成には江戸以前および江戸初期の耕作者(百姓)の切実な願望が存在したのであって、それは例えば麻布七不思議がま池伝説の「どのような日照りでも涸れることがない」という一節に反映されている。がま池は、麻布台地を開析した谷のさらにその支谷の谷頭部に堤を築いて近世初期に造作されたのである。

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そのことを物語る近世初期図を、ひとつだけ掲げておこう。上は「寛永江戸全図」(寛永19:1642年頃)の一部である。右下に見える水流は古川の二之橋付近で、両岸部はすべて水田、支谷の谷頭まで水田である。後の仙台坂の道が破損欠落しているが、中央右下寄りに「全(善)福寺」、左手「浅野内匠頭」とあるのは後の南部藩下屋敷で現在の有栖川宮記念公園だが、それと「柳生但馬守下屋敷」との間の二又の谷(水田)のうち小さな「百姓地」の文字の足元の谷頭部が「がま池以前」の姿である。

近世初期の人工地形でかなり埋立てがすすんだとは言え、「池」は都心高級住宅密集地に遺された貴重な自然である。私有のマンション敷地として囲い込まれてしまったのは、行政の怠慢とも、なさけなさとも言える。かつては隣接した敷地の駐車場からその水面を垣間見ることができたが、いまはそれもかなわない。駐車場が敷地目一杯のコンクリート邸宅に変わったからである。

この近世のダムの土手(築堤)上には、人材派遣会社パソナの’迎賓館’と言われ、時に黒塗りの大型車が並ぶ「仁風林」が鎮座している。政財界の隠微な疑惑の場としてしばしば噂に挙がるところだが、何の因縁かその入口脇にがま池怪奇話説明板がぴったりと寄り添っている。
その説明板冒頭の「江戸時代には」というくだりだが、「江戸時代末期には」とでもしないと正しいとは言えない。江戸時代とは、蒸気鉄道の敷設(1872)から核反応施設爆発(2011)までの近・現代約140年間よりよほど長い、約260年スパンをもっていたのであって、そのなかでとりわけ江戸の市街変容は大きかったのである。

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芝 道 その2

『港区史 上巻』では「吉良氏は蒔田領主で柴村は蒔田領分であった」とする。

奥州管領として陸奥多賀城に拠り足利政権奥州統治の要を担った吉良の家系は、室町から南北朝を経て戦国時代に滅亡しかかるも、足利将軍の「御一家」として武蔵国に拠点を確保する。
そのひとつが武蔵国久良岐郡の蒔田(まいた)城(現神奈川県横浜市南区蒔田町)で、築城年代は不明も 15世紀末頃裔吉良成高あるいは吉良頼康の代には蒔田の地を領有し、「蒔田御所」と呼ばれたとする(横浜市歴史博物館 『蒔田の吉良氏-戦国まぼろしの蒔田城と姫君』2014)。

「太田道灌状」には「吉良殿様御事、最初より江戸城に御籠城、彼下知を以て城中の者ども働数ヵ度合戦せしめ、勝利を得候」とあり、原註に「吉良三郎成高、公方一族、世田谷殿トモ蒔田殿トモ云」を加えるという(『新修世田谷区史』上巻)。吉良を「殿様」と尊称した太田道灌資長が主君扇谷上杉定正に謀殺されたのは、文明18年(1486)7月であった。
このころまで、吉良氏は確かな戦国領主の一人なのであった。

現在横浜市南区に横浜市営地下鉄ブルーライン(1号線)の蒔田(まいた)駅が存在する。
そこは大岡川の右岸で地表は標高3メートル前後だが南は標高30~35メートルの高台で、川とその沖積地を眼下にする北端、現横浜英和学院の所在地が吉良氏の蒔田城跡とされる。

そうして先の印判状にもあるように、吉良氏はいつの代からかわからないものの、芝(現港区の海岸側、JR浜松町駅から田町駅付近)にも所領を具していたのである。

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芝 道 その1

以下は『港区史 第1巻 通史編 原始・古代・中世』(2021年3月)のカラー口絵のひとつだが、本文には読みも内容もとくに触れてはいない。

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『新修港区史』(1979年)の本文にはこの文書の粗末なモノクロ写真が挿入されており、その翻字と読みは以下の通りである。

 制 札
右柴村新宿為不入立之候
間若横合非分有之ニ付而者
可遂披露由被仰出者也 仍而
如件

戊子         奉之
 七月廿四日 江戸近江守

  柴 村
    百姓中

 制 札
右、柴村新宿は不入(ふにゅう)のため之(これ)を立て候
間(あいだ)、若(もし)、横合非分(よこあいひぶん)、之(これ)あるに付而者(ついては)
披露(ひろう)を遂(と)ぐべきの由(よし)、仰せ出される者也(ものなり)、仍而(よって)
件(くだん)の如(ごと)し

狭義の古文書(一次史料)は文書に差出人と受取人が明記されているものだが、この場合の受取人は芝村の百姓、差出人は江戸近江守だがその名の脇に「奉之」(これをうけたまわる)とあり、近江守はいわば家来。
誰の家来であったかというと、それは大きな朱印が示していて、これは世田谷に城をおいていた吉良氏の印という。
その家来の江戸は、太田道灌が江戸城をつくるよりも大分以前にそこに城館をおいていた江戸氏の末で、江戸近江守こと江戸頼年。

吉良家というと上野介吉良義央(きらよしなか)のイメージが前面にでてくるので面倒だが、吉良の姓はいまの愛知県に存在した荘園吉良荘(きらのしょう)にちなむもので、足利尊氏の遠祖、鎌倉幕府の有力御家人であった足利義氏が、三河国幡豆(はず)郡吉良荘の地頭職を得たことにはじまる。
義氏の二子は吉良荘を本貫地とし、兄は三河吉良氏、弟は奥州吉良氏の祖となり、忠臣蔵で悪役をつとめるのは前者の裔、世田谷の吉良氏は後者の子孫。吉良は足利一門のなかで重きをなし、近世は高家と見做された。

『新修港区史』は、「戊子」(つちのえね、ぼし)が相当する年号は戦国時代では享禄元年(1528)か天正16年(1588)で、江戸近江守という名から後者の文書であるとする。
天正16年は、後北条氏が滅亡し家康が江戸に入る2年前である。

この文書は創建が寛弘2年(1005)と伝える芝大神宮(古くは飯倉神明宮、芝神明宮と称した伊勢神宮の地方出張所)の所蔵で、『港区史 上巻』(1960年)や『芝区史』(1938年)にも写真版付で触れられている。

文書の内容は、「柴村に新宿を設けるにあたり、もし横合非分(ほかから妨害などをしてくること)をなすものがあったら、その旨を自分のところ(吉良氏のもと)へ知らせるように命じたもの」(『新修港区史』)としているが、これでは「不入」の意味が理解できない。

ここは「みかじめ料」というやくざ用語を用いるとイメージしやすいだろう。
「新宿」とはいうものの、これはむしろ町場の謂いと思われる。
町場の本質は交易つまり商いの空間であり、それは市場と言い換えてもよい。
その場で新参者に「誰に断って商売をやってるんだ」と因縁をつけ巻き上げるカネがみかじめ料で、一種のショバ(場所)代である。それが現在のやくざであろうと、中世の何らかの権力であろうと同じである。
そこでは自由な商売は成り立たず、特権的同業者団体(座)の支配は商品経済が拡大するにつれて、その足かせと見做されるようになる。

「不入」とは国衙郡衙の介入し得ない古代の私権エリアつまり荘園に発する用語だが、中世には荘園以外さまざまな場に不入すなわちアジールが存在するようになる。
つまり一定の場所において(何らかの)権力(的観念)を無効とし、その立入りを排除すること、とくに商売自由を保障することを意味するようになる。
つまりそれは楽市の保障で、今日の世田谷ボロ市にまで至る歴史をもつものなのである。

世田谷デジタルミュージアムには下の古文書の写真を掲げ、「天正6年(1578)、小田原北条氏四代の当主・氏政が、世田谷に宿場(世田谷新宿)を新設し、楽市を開いた時に発した掟書。このとき開かれた楽市は、そのかたちを変えながらも、今も「世田谷のボロ市」(東京都無形民俗文化財)として存続している」と添え書きしている。
今のボロ市とは異なりご覧のように月6日の典型的な六斎市で、経済活発を目指したものであることがわかる。
上掲制札の10年前である。

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しかし、世田谷は本来吉良氏の「城下」だったはずである。
そうしてこの「新宿」は、吉良城下の宿すなわち「元宿」に対する称である。
小田原北条は吉良氏の存在を無視したように、マチもミチ(矢倉沢往還)もあらたに設置したのである。

上掲の吉良氏印判状について『新修 世田谷区史』(上巻、1962年)に従えば、吉良氏はこの時すでに小田原北条の高位家臣の地位に甘んじており、小田原からはその家臣(陪臣=江戸頼年)に直截下命していたとみられる。つまり「新宿」を「立て」たのは小田原北条氏と考えるべきで、「その旨を自分のところ(吉良氏のもと)へ知らせるように命じたもの」という『新修港区史』の記述は当を得ないということになる。
今日のボロ市につながる楽市が世田谷「新宿」にひらかれたとき、「元宿」を足下としていた吉良氏はその「城」を去っていた可能性も否定できない。

中世の土地支配は重層性を特徴とし(職〈しき〉の体系)、その実態は流動的である。
これらの文書からは、戦国大名北条氏支配下の吉良氏所領のありようが垣間見える。

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江戸最古の坂 その3

『更級日記』は高等学校で古典として習うことが多く、その冒頭(「門出」)はよく知られている。
平安時代の中期、作者(菅原孝標女)後年の回想とはいえ、古代東国の記録としても貴重である。
冒頭ではないけれど、それにつづく「竹芝寺」の段は以下のようにはじまる。

今は武蔵のくにになりぬ。ことにをかしき所も見えず。浜も砂子白くなどもなく、泥(こひぢ)のやうにて、むらさき生ふときく野も、蘆荻のみたかく生ひて、馬にのりて弓もたるすゑ見えぬまで、高く生ひしげりて、中をわけゆくに、たけしばといふ寺あり。はるかに、ははさうなどいふ所の、らうの跡のいしずゑなどあり。いかなる所ぞととへば、これは、いにしへたけしばといふさか也。

上掲末尾に注目されたい。
作者の「ここはどこ」という問いに対する答えが、「竹芝という坂」である。
ネットの現代語訳を見ると「坂」でなく「所」としているのもあるが、はっきり「さか」と書きつけているのだからそれは曲説というものだろう。
それでも「さか」ではなく「さう」の誤写として荘園としたり(「荘」は旧仮名で「さう」)、「姓」(旧仮名では「さう」)と解いて竹芝を人名由来地名とする向きもあるらしい(『新編日本古典文学全集 26』p.283の頭註30)。
しかしそれは「さう」であれば解釈に都合がよいというだけの話。解釈はかぎりなく蜃気楼の迷路に彷徨する。
ともかくも、「竹芝の坂」である。

これは前回引用した聖坂標柱説明文の末尾「竹芝の坂と呼んだとする説もある」に対応する。
説明文は「『更級日記』の竹芝寺の段で「竹芝という坂」と言っているのはこの坂のことと考えられるか」と書きたいのだがそれでは長すぎるし、「説もある」とするのが無難で便利なのである。

「竹芝」の芝は、港区の前身のひとつ「芝区」の芝で、道興の『廻国雑記』に「芝の浦」として登場、中世末期には吉良氏(本拠地世田谷)の所領「芝村」でもあった(芝大神宮文書)。
『大日本地名辞書』(吉田東伍)は芝の生えた土地であったからとするが、海食崖下波食台上の砂堆の地であるからその説は肯んじ難い。まして『更級日記』言うように、蘆荻の高く生い茂った土地である。
古来爺さんは山に柴刈り、婆さんは川で洗濯、と言う。
ここは「柴」(低木類)と解して、塩屋の煙(『廻国雑記』)の燃料でなければ、海苔採取のため海中に立てるひびの「柴」が本字とみておきたい。さすれば「竹柴」の語も合点がいく。
聖坂は、その竹柴の浦を眼下に見下ろす古往還のサカであった。

標柱の年記は2004年12月でそう古いものでもないが、区の最新の刊行物(『港区史 第1巻 通史編 原始・古代・中世』2021年3月)ではこの坂を一部とするミチについて「古代の官道」の見出し(p.155)で次のように書いているのである。

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 高輪台から三田台を通り、聖坂を下り切った辺りから北上し、赤羽橋、飯倉を過ぎて虎ノ門付近に至る往還を中原道に比定する見解がある。中原道は、江戸時代に東海道が整備されるまでの東西を結ぶ主要幹線道であっただけではなく、『更級日記』の記述などから、とくに高輪台から三田台にかけては古代の官道であった可能性が指摘されている。じつはこの道筋に沿って、先述の信濃飯山藩本多家屋敷跡遺跡、港区No.123遺跡、承教寺跡・承教寺門前町屋跡遺跡、伊皿子貝塚遺跡などの古代の遺跡が数珠状に発見されているのである。なかでも信濃飯山藩本多家屋敷跡遺跡、承教寺跡・承教寺門前町屋跡遺跡で検出された、一辺が七メートルを超える竪穴建物跡は、この時期の竪穴建物跡としては大型で、これらの建物を備えた集落が官道に面して形成されていた可能性を高めている。さらに時代を遡れば、この道筋には弥生時代後期後葉から古墳時代にかけての集落が列をなし、現在の三田済海寺の隣接地には古墳と考えられる亀塚が築造されている。
 こうした考古学的事象に、三田済海寺付近が『更級日記』にみえる竹芝寺伝説の故地の一つに想定されていることを加えると、高輪台から三田台に至る尾根筋上に古来主要道が整備されていた可能性は低くないといえる。       (大西雅也・高山優)

歴史を書き換えるのは物証である。考古学の成果は著しい。
聖坂が古代にまで歴史をさかのぼり得、「江戸最古のサカ」のひとつであることは、疑いのないところと言える。
ただし、芝・高輪が「江戸」に併呑されるのは、もちろん近世以降の話である。
いずれにしても、拙著『デジタル鳥瞰 江戸の崖 東京の崖』の「コラム11 江戸最古の坂」(pp.114-115)は訂正を要するのである。 

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武蔵野シュウマイ

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拙稿連載中の『武蔵野樹林』(角川文化振興財団発行)関連で「武蔵野シュウマイ」を口走ったら、上掲のようなことに相成った。

一方、角川の拠点、東所沢の「ところざわサクラタウン」の角川食堂は、地元野菜を使った料理でしばしば行列ができると言う。
食に関する詩や小説の一文が入ったコースターも、人気に一役買っているらしい。

昨年11月6日のグランドオープンには招待されたこともあって角川武蔵野ミュージアムに足をはこび、その後編集者からの声掛けで一度訪ねたきりだが、この5月29日(土曜日)にはサクラタウンのお向いに建設中だった所沢市観光情報・物産館YOT-TOKO(よっとこ)がグランドオープンするという。YOT-TOKOはサクラタウンと連絡橋で結ばれる。

今度は家族連れで出かけてみようかと思っている。
また別の「武蔵野シュウマイ」に出逢えるかも知れない。

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江戸最古の坂 その2

古代武蔵国の『延喜式』段階における4駅家のうち、大井駅と豊島駅2駅のおおまかな位置を直線で結んだのが下の図である(タブレットアプリ「スーパー地形」から。それぞれ図をクリックすると拡大、鮮明化する)。

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その一部、品川から高輪、三田に至る経路を拡大すると次のように、海食崖と古川および目黒川の谷で狭められた高輪台地の南北延長にほぼ沿うのが確認できる。
この図で2本の赤い道、すなわち国道15号(第一京浜=旧国道1号=東海道)と国道1号(桜田通り)が細長い高輪台地を挟むように走っているのに注意されたい。

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さらに拡大すれば、台地の尾根筋を辿るミチとサカが浮かび上がってくる。
古東海道としての中原道(中原街道)の一部、二本榎通りと「聖坂」である。
中原道は、ここでは現在の2本の国道を眼下に、台地のほぼ中央すなわち尾根筋を通っているのである。

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港区立三田中学校正門前の標柱の側面には「ひじりざか 古代中世の交通路で、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所もあったためという。竹芝の坂と呼んだとする説もある。」と書いてある。

古代からのミチなのであるから、中世に出現した高野聖がこのミチを開くわけはない。古いサカの傾斜を緩めるための勧進(募金)行為くらいは行なった可能性はもちろんあるだろう。
高野聖は最下層の僧であり、そのための専用の宿というも牽強付会に思われる。
坂をのぼりきって1200メートル先の高輪二本榎には現在高野山東京別院が存在するが、これは近世の開創と移転にかかるものでここで言われる宿所とは無関係である。

しかし標柱から坂上数十メートルのところに鎮座する亀塚稲荷の猫の額ほどの境内には、5基の小さな板碑があつめられていて手に触れることもできる。
それらは港区の文化財で、境内には説明板も立っているが、狭い場所に後ろ向きでもあり気付くひとは少ないようだ。
その説明によれば、5基のうち刻文が判読できる3基の造立年は文永3年(1266)12月、正和2年(1313)8月、延文6年(1361)で、文永3年のものは港区最古の板碑であるという。文永3年は鎌倉時代中期、延文6年は室町時代のはじめにあたる(しかし2021年3月刊行の『港区史』(通史編1 原始・古代中世)では、文永3年といわれた板碑はむしろ14世紀中ごろのものという)。
この5基の板碑は、以前は当神社付近にあったものとも、上大崎付近にあったものともいわれている、と付け加える。それでも、このサカが中世に遡る歴史をもつ物証のひとつと言うことはできるだろう。
しかし「竹芝の坂」という別称が示唆するのは、時代の奥行きのさらに先なのである。

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江戸最古の坂 その1

上のような標題に反応するのは、ごく一部のマニアだろう。
いわゆるサカズキ(坂好:盃)のなかには勉強家もいて、それは「九段坂」とすぐに返答するかも知れない。

なぜ九段坂かと言えば「信頼できる最古の江戸図」とされる「別本慶長江戸図」のその場所に、「登り坂 四つや道」と書きこみがあるからである(下掲図左上)。
しかしそれを「江戸最古の坂」と言ってしまっていいものかどうかは、甚だ疑問である。

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「日本最古の坂」は「黄泉津比良坂」でそれは『古事記』に登場するから、というのも同然だが、安直断定の見本のようなものである。そもそも「別本慶長江戸図」は、記録物(document)としてはこれも甚だ疑問な存在なのである(拙著『新版 古地図で読み解く 江戸東京地形の謎』p.19)。

坂は、道の傾斜部である。
しかも固有名詞のある傾斜部である。
個々の経路に名付けることなく、その傾斜部要所に称を認めるのは列島特異の習俗と言っていい。
往古時間を遡ればサカは峠の謂いで、魔物ないしは土地神のしろしめすところであった。
しかし江戸の歴史はせいぜい千年と言ってよいから、峠や神については坂考証から捨象してよい。
江戸最古のサカと最古のミチとは、同一体の部分と全体の関係である。

江戸のミチと言えば、東海道を第一とする五街道の制がすぐ念頭に浮かぶだろう。
五街道も江戸府内はおよそ平坦地を通ったとは言え、傾斜部は存在した。
四つや道つまり九段坂は五街道の一部でもなく、江戸城西側に配置された旗本屋敷に通じる道であって、江戸初期の都市開発に掛かる道筋と考えてよい。つまり江戸最古の坂ではない。

江戸最古の坂として念頭に浮かぶのは、古くは奥州に通じる岩槻道で、五街道のひとつ中山道が通る今の本郷通り(日光御成道と共通部分)の「見送り坂」「見返り坂」であろう。
この二つの坂の境界性と構造については以前に推論したことがあるからここであらためて繰り返すことはしない(前出拙著pp.213-216)が、命名由来に太田道灌伝説をもつ江戸時代以前の坂である。
ならばこれが江戸最古の坂と考えてよいかと言うと、決してそうではない。
道灌伝説のかぎりでは、中世どまりである。

古代においては当然ながら江戸の地は武蔵国の一部で、近世江戸府内と呼ばれたエリアは、豊島郡、荏原郡の一画にあたる。
ヒトもしくは情報とその到達時間が、状況を制するのは何も今日に限った話ではない。中央集権国家の常として、古代官道は「馬乗り継ぎ」のため一定距離ごとに駅家(うまや)を配し、それぞれを短時間で連絡するため可能なかぎり直線状に結んでいたのであるから、点を特定し、それを結んだ線の傾斜部を詮索するのが「最古の坂」に至る近道である。

これも以前に書いたことである(「道の権力論」『東京人』2013年8月号)が、帝国およびそれを真似たミニ帝国の特徴のひとつは直線ミチを造営することにある。
それはもちろん列島に大陸文化が及び、文字記録が残されるようになって以後のことだが、二つの時期つまり古代と現在(近・現代)にしか存在しなかった。
また直線ミチとは言っても、古代のそれは測量技術上も造営力学上も限界があった。ためにそれはところにより地形に沿うおおまかな直線ミチとならざるを得なかった。

武蔵国ははじめ東山道に属し、幹道からYの字状に分岐した支路が国府(府中)に向って武蔵野を真っ直ぐに南下していた(東山道武蔵路)。それはミヤコからみれば長い盲腸状の往復ミチであった。そのミチも国府も内陸の経路(山道)にあって、「江戸」(海の入江)にかかわるものではなかったのである。
しかし『延喜式』段階になると、武蔵国を通る古代官道のメインルートは店屋(まちや)、小高、大井、豊島の四駅名が登場する経路(古東海道)にシフトするようになる。
店屋駅は現町田市鶴間町谷、小高駅は川崎市高津区末長小高谷、大井駅は品川区大井、豊島駅は北区西ヶ原にそれぞれ比定されている。したがって後世江戸府内の「最古の坂」を考える場合、大井と西ヶ原を結ぶ線を吟味するのが王道となる。
『延喜式』段階では武蔵国府に対して店屋ないし小高から連絡支路が通じていたであろうから、その経路(盲腸支路)は武蔵野を経由するルートより大幅に短縮されたのである。しかしその経路も、もちろん「江戸」を通るものではなかった。

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上掲図は『港区史』(第1巻 通史編 原始・古代・中世、2021年3月)p.160から。

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「住み慣れた鎌倉市から南相馬市原町区に移住したのが二〇一五年四月。二〇一七年には小高区に引っ越して、今年四月九日に本屋「フルハウス」をオープンしました。駅通りの自宅兼店舗。私や知り合いの作家がセレクトした本などを置いています。」

引用は仙台の4版元(荒蝦夷、河北新報出版センター、東北大学出版会、プレスアート)のPR冊子『せんだーどの本棚』vol.4, 2018年の10月号)の巻頭インタビュー冒頭で、見出しには「芥川賞作家・柳美里、/本屋「フルハウス」と/演劇ユニット「青春五月党」/始動」とある。この冊子は仙台の書店で昨今手にしたばかりだから、vol.5以降が出たのかどうかは知らない。

若林区の一隅に独居して昨年末80歳になった認知症の従姉のケアのため、度々仙台に出かけるが、先般大先輩の編集者と電話で話していて小高(おだか。福島県南相馬市)の埴谷・島尾記念文学資料館が急に気になり、常磐線の小高駅に途中下車して訪れることを思い立った。
新幹線だと自宅から仙台までは3時間だが、常磐線は特急でも5時間以上かかる。
小高に途中下車すれば、最低8時間はみておかないといけない。
しかし3・11から10年目ということもあって、「復興した」と言われる富岡駅や夜ノ森駅もこの目で見ておきたいため、先日久しぶりに早起きして上野駅から常磐線に乗った。

上野駅公園口は、2020年の全米図書賞(National Book Awards, 翻訳部門)を受賞した柳美里の『JR上野駅公園口』(翻訳タイトルはTokyo Ueno Station)の舞台である。柳美里は芥川賞作家というよりいまや全米図書賞受賞作家。行けば小高区の区役所には「祝 全米図書賞受賞 柳美里さん」の垂れ幕が掛かる。

ということで小高では泉下の戦後文学の巨匠たち(埴谷雄高、島尾敏雄。「雄高」は小高に由来)については写真やレプリカ原稿などを見るにとどめ、ライブ柳美里の書店「フルハウス」訪問がメインとなった。
上掲写真がその本屋というよりブックカフェの内部と本棚の一画で、東浩紀の選んだ25冊の一部が写っている。他にも井上荒野や原武史、上田洋子、村山由佳、小手毬るい、古川日出男、山下澄人、豊崎由美、岩井俊二、城戸朱理、平田オリザ、青山七恵、若松英輔、角田光代、佐伯一麦、小山田浩子、山崎ナオコーラ、和合亮一らの20冊、25冊選が並ぶ。

私はと言えば先月、2年と少しの間会員だった日本文藝家協会を、新理事長林真理子の書きものにはじめて接してその低劣度に驚愕、事務局に通告して退会した。
以下は、今日で人生を6巡した「2年文藝家」の私のセレクト、20冊+α。

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わたし(たち)はいま、どこにいるのか?
“EVERYONE ABLE TO READ SHOULD READ IT.”(Saturday Review of Literature for Hiroshima)
時間と空間を認知し、記憶し、伝達するための《地図》

芳賀ひらくが選ぶ 20冊+α (2021/04)

1 ヒロシマ 〔増補版〕 ジョン・ハーシー 2003年 法政大学出版局 1500円
2 土の文明史    デイビッド・モントゴメリー 2010年 築地書館 3080円
3 土と内臓    D・モントゴメリー+A・ビクレー 2016年 築地書館 2970円
4 ウォークス 歩くことの精神史 レベッカ・ソルニット 2017年 左右社 4500円
5 サピエンス全史 上 ユヴァル・ノア・ハラリ 2016年 河出書房新社 1900円
6 サピエンス全史 下 ユヴァル・ノア・ハラリ 2016年 河出書房新社 1900円
7 弱者のための「エントロピー経済学」入門  槌田 敦 2007年 ほたる出版 1500円
8 大地の五億年 せめぎあう土と生き物たち 藤井一至 2015年 ヤマケイ新書 900円
9 鳥! 驚異の知能    ジェファニー・アッカーマン 2018年 講談社BLUE BACKS 1300円
10 地学ノススメ 鎌田浩毅 2017年 講談社BLUE BACKS 980円
11 人類と気候の10万年史 中川 毅 2017年 講談社BLUE BACKS 920円
12 文豪たちの関東大震災体験記 石井正己 2013年 小学館101新書 740円
13 戦争をよむ 70冊の小説案内 中川成美 2017年 岩波新書 760円
14 3・11以後を生きるきみたちへ たくきよしみつ 2012年 岩波ジュニア新書 820円
15 在日外国人 第三版 ―法の壁、心の溝 田中 宏 2013年 岩波新書 880円
16 生物から見た世界    ユクスキュル、クリサート 2005年 岩波文庫 792円
17 ガリヴァー旅行記    ジョナサン・スウィフト 1980年 岩波文庫 1177円
18 死都日本    石黒 耀 2008年 講談社文庫 1210円
19 女たちの避難所 垣谷美雨 2017年 新潮文庫 590円
20 倭人・倭国伝全釈    鳥越憲三郎 2020年 角川ソフィア文庫 900円

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デジタル鳥瞰 江戸の崖 東京の崖 芳賀ひらく 2012年 講談社 1800円
新版 古地図で読み解く 江戸東京地形の謎 芳賀ひらく 2020年 二見書房 1900円
(「地図・場所・記憶」―地域資料としての地図をめぐって 芳賀 啓 2010年 けやき出版 600円)
(短詩計畫 身軆地圖 芳賀 啓 2000年 深夜叢書社 2400円)
(短詩計畫 天軆地圖 芳賀ひらく 2020年 之潮 2800円)

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