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追悼中山ラビ

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ラビさんは私より1歳くらい年長かと思っていたら同年だった。
一度だけ新宿でライブを聴いた(ブルース・ナイト)が、細い体でよくあれだけの声量があるものだと感心した。
客席の通路で遭遇して、互いにハイタッチしたとき、「結構歌うまいね」と言ったら怒られた。

高校生だったとき、最後のクラスに梅津和時君がいた。
東京で再会したときはすでに「ドクトル梅津」で、ラビさんのライブでは大概彼がサックスを担当していたようだ。
ラビさんと彼を共に舞台に見られる「ラビ組」のライブチケットを2度ほど買ったが、結局時間がなく行かずじまいだった。

私の住むマンションの1階のラビさんのお店「ほんやら洞」は、4日間臨時休業の後で再開した。
上の色紙は、ダイヤモンドヤスリで彫った我流の消しゴムハンコを押したものだが、昨日お店に持参した。
お店を継いだ、ラビさんの息子一平君宛である。

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国分寺駅南口(当時は跨線橋口)から3分のここ国分寺マンションが竣工したのは1969年7月で、その1階の東角店舗スペースに早川正洋が京都に倣って「ほんやら洞」を開業したのは1975年。外装に煉瓦とツタを配し、内装を重厚な木調とした素敵なカフェであった。
2年後の3月3日、早川に代わって中山ラビが煉瓦とツタの店のオーナーとなった。爾来44年、「国分寺文化の象徴」(2017年10月2日放映NHK BSプレミアム「Tokyoディープ」)とまで言われた店を、いや単に店舗のみならず「街の景観」そのものを、維持してきたのはシンガーソングライター中山ラビの手腕と人柄であった。
拙著にちなんだ私の仇名「ガケ博士」の名づけ親もラビさんだった。
ラビがとりわけ執心せざるを得なかったのは「ツタ」であった。マンション住人の一部から「虫が湧くからツタを伐れ」と言われつづけたのである。しかし逆にツタの這う煉瓦が身近だからこそここに住むという人も、1人や2人ではないのである。
写真は「ほんやら洞」店内から2020年8月11日撮影。向い側は「都立殿ヶ谷戸庭園」、通りは国分寺駅南口から東京経済大学に向かう坂道である。この時、ラビさんが1年たらずで亡くなるとは夢にも思っていなかった。「うたかた」である。

ところで、句会などでは「七夕」は初秋の季語だから7月7日には使えないという意見が出る場合がある。「たなばたや秋をさだむる夜のはじめ」(芭蕉)はもちろん旧暦下の話。
近代の七夕句でよく知られたものに「七夕や髪濡れしまま人に逢ふ」(多佳子)や清瀬に句碑が立つ「七夕竹借命の文字隠れなし」(波郷)があるが、前者がわざわざ旧暦をチェックして出掛けたり、結核療養所が8月に笹竹を立てたりしていたわけではないだろう。暦とそれに伴う季節感は、1872年(M5)に切り替わってすでに140年を過ぎた。わが母は七夕、1983年7月7日の誕生日に満60歳で亡くなった(「母擦サスることなく死にす七夕」『天軆地圖』)。
季語がなければ俳句でないとか、季語は旧暦に従うというのは虚構の花園ゲームに等しい。俳句が短詩として自立できなければ滅びるだけである。中山ラビが72歳で亡くなったのは7月4日、現行暦七夕の「すこし前」であった。
和歌の空間(歌枕)と時間(季節・季語)の虚構から抜け出し、短歌が俗世リアリティの世界を獲得して久しい。俳句の季語イデオロギー墨守は、気候変動以前からすでにナンセンスに転じているのである。

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