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曾祖父須藤正衛を描いたとされる画像である。
5年前に88歳で亡くなった父親が、床の間の掛軸入れから出して、時々見せてくれたものだが、今回デジタル画像にする際にあらためて気づいたことがいくつかある。
まず、この肖像画は和紙ではなく、薄い絹布に描かれていた。軸装のうち絹布自体の大きさを測ってみると、横幅約41.5、縦112.5センチである。そうして、考えてみればあたりまえだが、この絵は古いものではない、つまり江戸時代や明治初期に描かれたものではないということに気がついた。絵具と色彩は日本画のものだが、陰影は西洋画の技法である。白いヒゲは、大小を差し、裃、袴、白足袋姿に相応しいが、頭はいわゆるザンギリである。右下にしたためられた描き手の名をみると「孫佐藤幽草謹写」とある。須藤正衛の孫とすると、私の父芳賀正治(ハガマサハル)の従兄弟にあたる。父は1921(大正10)年生まれだから、仮に10歳年上の従兄としても、当時16歳だったとするとこの肖像画が描かれたのは1927(昭和2)年となるが、さて。

1933(昭和8)年に刊行された『仙䑓大人名辭書』(菊田定郷著)の須藤正衛の項は、「ストー・ショーエ【須藤正衛】藩士。大正十三年六月五日没す、享年八十八、仙䑓半子町壽徳寺に葬る、其の子義衛門は獣醫學博士にして東京帝國大學名譽教授たり」とあるから、最晩年の正装姿を写生したとしても、推測より3年繰り上がって1924年である。
ちなみに、父の父親すなわち私の祖父について、同辞書は「ハガ・ケージ【芳賀敬治】獣醫學士。獣醫學博士須藤義衛門の弟、東京帝國大學獣醫學科卒業、陸軍二等獣醫、青森縣畜産學校長、宮城縣農業技師、大正十三年九月没す、享年四十二、仙䑓長町宮澤宗禪寺に葬る」と記す。宗禅寺の墓には私の父母も眠る。寺は曹洞宗である。
ところで「肝心」の「義衛門」さんについて、この「辞書」は語るところがない。wikipediaには、「須藤 義衛門(すどう ぎえもん、万延2年2月11日(1861年3月21日) - 昭和8年(1933年)2月20日)」以下妙な文章ながら、勅任官大礼服姿の写真とともに、結構長い記事がでているから、すでに「仙台人」の域を脱したということか。父親の須藤正衛について言及がないのはいたしかたないとして、「ストー」が、ここではいつの間にか「スドー」になっている。wikipediaには書いていないが、父によれば義衛門さんは、維新後の伊達家の顧問役も仰せつかっていて、東京は四谷に住んでいたという。仙台にもよく帰って来たらしく、父は幼い頃義衛門さんに連れられて、仙台の伊達家の広大な「馬場」に行ったことがあると言っていた。

さて、長男でなかった祖父は、芳賀家に婿入りして須藤姓ではなくなったが、須藤家では1924年の6月と9月に大きな弔いをもったことになる。祖父敬治は、1924年に42歳で亡くなったのだから、1924-42=1882すなわち明治15年の生まれ。義衛門さんとは21歳も年齢の離れた兄弟である。
以下はおもに、父が亡くなる何年か前に聞きとったメモを根拠に書きつけるのだが、須藤正衛さんの妻は「ゑつ」と言って仙台伊達の支藩である水沢藩の家老格の藩士の娘で、正衛さんは「養子」だった。そうして、須藤の家紋は丸に剣酢漿草(カタバミ)だという。すると、この肖像画の裃の紋が伊達家の竹に雀であるのはいいとして、着物の丸に二ツ算木はどこから来たものかわからない。正衛さんの実家の紋かも知れないが、仮にそうだとしてもその家の名は伝わっていない。私のところには、「水沢三偉人」(高野長英、後藤新平、斎藤実)の一人、斎藤実からの手紙が残っているから、水沢須藤の系列であることはたしかだろう。紋について言えば、宗禅寺の芳賀の墓の花受けには、須藤でもないのに丸に剣酢漿草を刻している。父は、「ウチの紋は剣酢漿草」とこだわっていた。考えてみれば、家紋が「採用替え」となることはいくらでもありえる。

正衛さん、ゑつさん夫婦がもうけたのは5男1女。長男は義衛門、二男が軍太夫(桜田に入婿して桜田軍太夫。この人は名の通り軍人となって陸軍中佐。東京の高円寺に住んでいた)、三男忠太夫(同大原忠太夫)、四男橋本正兵衛、そして五男が敬治さん。女の子は「ひで」といって、その長男は佐藤佐(タスク)。芸大の日本画教授となったという。そうであれば、この肖像画にある「幽草」の号は、間違いなくひでさんの長男佐のもの、画像の主は須藤正衛その人であろう。

幕末時の正衛さんの年齢を考えると、いわゆる賊軍「奥羽越列藩同盟」の「盟主」仙台藩において、それなりのはたらきをなして然るべき世代であったことも間違いない。頭をザンギリとし、齢80を越えてなお眼光鋭く、腰の大小がサマになっている。しかし、裃は左側に大分ズレた様子。そうして目から鼻、頬骨あたりを見ると、たしかに父や私にまで相伝されたかたちである。驚いたことに、昨年1月に生まれた2番目の孫の目鼻がはっきりしてくると、この「かたち」が現れ、ご先祖様ご転生かとたじろいだ。私が「掛軸」を取り出して見る気になったのは、それが一番の因子である。

当時としても早死にの部類だった祖父について、父は一言も触れなかった。もっとも祖父の死んだとき、父はまだ3歳だった。父には神童と呼ばれた兄が2人もいたというが、それぞれ早世した。従姉の一人は私が幼い頃半分ウチに居候をしていたようなところがあって、それから聞いた嫌味だか悪態だかに、「あんたのジイさんは気が違って死んだ」というのがあった(それは従姉自身への悪態にもなるのだが)。「(青森県)三本木の農学校の校長」(祖母の語り口)だった敬治さんが、何らかの病に倒れたことは間違いない。

ところでこの肖像画がなぜ私のところに残ったのか。また自家について、父も祖母もほとんど語るところがなかったのも不思議である。もっとも祖母「まつへ」は芳賀の分家に婿入りした祖父の後妻である。つまり、分家の跡取り娘(名を「かつ」といった)は娘を一人残して死に、そこに祖母「まつへ」が鑓水家から入った。鑓水の本拠地は今の名取市(仙台市の南隣で仙台空港のあるところ)の中心地「増田」にあって、中地主だったと言う。
まつへは7人の子をもうけるが、そのうちダンナ(敬治)が病死してしまう。あとはいわゆる女手ひとつ、というわけだが、その長女すなわち私の伯母にあたるひとは唯一芳賀の血筋をひいたため「別格官幣大社」(父の語り口)で、一人自室をもったというから、祖母は相応に苦労したのだろう。ただし名取市にあった何箇所かの「地所」のあがりで生計をたて、子どもたちを皆学校に入れることができたし、戦後はそれを「マッカーサーにとられた」と言っていたから、中か小か、どちらにしても地主であった。

芳賀の「本家」は名取川の左岸、今の仙台市太白区の「諏訪」にあった。宗禅寺本堂の天蓋の裏に「檀家総代芳賀健治」と書いてあったのを、私は見たことがあるが、本堂は震災後大規模なものに改築したため、それも廃棄されたかも知れない。この芳賀健治さんの旧姓は鑓水で、つまりは祖母の兄弟のうちの次男。東大法学部を出て芳賀の本家に婿入りし、山形地裁の判事をつとめた。その長男の健一郎は東大理学部を出て、東北学院大学の教授となった。長女の深代は、同大学で30年間学長職にあった小田忠夫と夫婦である。その縁であろう、戦争未亡人となった父の姉の一人が大学の用務員のようなことをしていた。次女瑞(ミツ)子は、同大法学部長祖川武夫の連れ合いである。そうして、多分健一郎さんの息子だろう、また学院大の教授におさまったのがいたように思う。比較文学をやっていたような記憶があるが、名前までは聞いていないか、憶えていない。

まつへの弟、つまり父の叔父にあたる四男の鑓水祐四郎の家には、小学校低学年の頃父に連れられて何度か行ったことがある。東大法学部出で、政友会系だったか仙台では政党人として知られ、県議選にも出馬し戦後の市長選にも立候補した。木の手すりのついた細道を上った先の「山の家」は、子どもの目にも結構豪邸に見えた。戦後「民法」が変わっていかに「民主」的になったかを説明していたのはこの祐四郎さんだったか、健治さんだったか。
祐四郎さんの奥さんは仙台にはめずらしくシャキシャキもの言う人だと思ったら東京から来た人で、名を「ニネ」(表記不明)と言ったか。私はそこではじめて「チーズ」という食物の名を憶えた。その塩気とポロポロした味わい、そして匂いは、まだ口蓋のどこかにとどまっているような気がする。皮を剝いてツルツルした木の手すりの手触りも思いだす。帰り道、その手すりには一匹の青毛虫が這っていて、私は手を腫らしたのだった。
鑓水の次女だった祖母は、晩年認知症気味だったが、比較的長寿で1972年に81歳で亡くなった。もうけた子どもたちは3男6女の都合9人。「別格」の伯母も含めて、父とその姉妹つまり政代、茂代、民代、松代の4人、計5人が生き残ったが、それらもすべて世を去った。
かえりみれば伯母政代はたしかに別格であった。結婚して福島と姓を変えるが、弁護士志望で祐四郎叔父のところで働いていたこともあった福島さんは早世。伯母は高校の国語教師をして2人の娘を育て上げるも、下宿人を置いて、それも東北大学の優秀な学生を選び、器量よろしかった下の娘と結婚させる。そして婿さんは首尾よく東北学院大学の物理学の教授に納まるという次第。芳賀、鑓水、東北学院大学のトライアングルコースを、少し変型だが見事に再現した人だった。

須藤正衛が幕末の激動期をどのようにかいくぐったのかについて、私に伝わるところは何もない。そういえば幼い頃の「お彼岸」には、父母に連れられて仙台市を流れる広瀬川の右岸(南)、宗禅寺にある芳賀の墓に徒歩で参った後、バスで行ったか路面電車を使ったかは忘れたが、市内を縦断して北郊の「半子町」(はんこまち)まで足をのばすのが習いだった。現在では林子平の墓があることにちなみ子平町と名をかえたそこには、須藤の墓を擁した寿徳寺がある。伊達正宗の父輝宗開基という、曹洞宗の寿徳寺の山門が、円い形をした珍しいものだったので、よく憶えている。義衛門さんの長男は須藤明治といった。「ストー・アキハル」である。父によれば、江戸川区に住んで1978年(昭和53)に亡くなったという。
いずれにしても須藤の人々は、当時既に仙台には一人もおらず、東京に出た。そして結局、私もまた、「東京の人」になった。「東京の人」とは、ちょうど還暦となる誕生日、7月7日に亡くなった母の語り口である。

しかと憶えている人はもう誰もいなくなったろうから、肖像画に添えて書きつけておくのだが、しかし以上は私の父方の係累限定、結局は「奥州中小地主の内輪話」である。「地主」は土地が命。日大経済を出て、戦前は銀座の白木屋に勤め、戦後は仙台で一介のサラリーマンで終わった父も、生涯どこか「地主の息子」の雰囲気を残していて、宅地の広さにはこだわった。負債契約履行の苦し紛れ、父が亡くなったのをこれ幸いと実家の宅地を叩き売った私は、ご先祖様からは「タワケ者」と一喝されるだろう。しかし、私が宗禅寺の墓に入る気がないのは、それが直接の理由ではない。仙台に懐かしさはあるが、それは過去だ、という意識のほうが強いのである。

一方、母方はあきらかに「無産層」である。母の実家は仙台駅裏の東七番町にあって、われわれは「シチバンチョー」と言っていたが、そこへ行くためにくぐる東北本線のガードは、いかにも「戦後」の雰囲気だった。貧民街とは言わないまでも、いつも饐えた木材の匂いのする一角にあったその家は、「伝説」では山形(寒河江)から流れてきた中村忠次郎さんと仙台では江戸時代からつづく職工店(「田善」)のお嬢さんトクさんが駆落ち状態で一緒になった場所だと言うが、その二人が私の母方の祖父母にあたる。私が小さいとき、母の家のことを聞いたのだったか、母が笑いながら小声で「町人」と言ったことがあったような気がする。

忠次郎ジイさんは薬剤師のようなことをやっていたというが、母トヨは、5男4女をもうけた忠次郎、トクの四女である。父母はいわゆる共稼ぎで、母の勤め先が比較的近くだったものだから、私と弟はよく「シチバンチョー」の世話になった。小づくりでどこか上品な雰囲気を残していた祖母「おトクさん」のかすれ気味の声と、それこそ猫の額のような日当たりの悪い庭で、棚づくりの盆栽とサボテンをいじくっていた「ツーヅロー」ジイさんの、歯の欠けた笑顔を想い出す。私の5才年下の弟が、小学校にあがる前だったか、そのサボテンの棘を、ハサミで切ったか抜いてしまったか、みな丸坊主にしてしまうという「事件」もあった。
長男の忠蔵さんは大のタバコ好きで、青いピースの箱でつくった鍋敷きがあったのを憶えている。またその家ではいつもラジオが鳴っていて、大抵は相撲か野球だったような記憶がある。忠蔵さんが「ジャイアンツ!」という時は、東日本の人としてはおそろしくメリハリの効いた発音で、今でも耳底に残ってその言いぶりを真似できるような気がする。忠蔵さんの嫁さんは富士子さんと言ったが、ジイさんや忠蔵さんは「フツコ」と呼んでいた。大柄で色白、ゆったりした感じの、人柄のよい伯母だった。トクさんとフツコさんは、小さな縁側の近くで、よく仕立物の内職をしていたように思う。

三男の三郎さんは努力家で勉強もでき、東京に出て中島飛行機の設計部門に勤めた。南荻窪一丁目に家があり、もうすぐ100歳と言っていたがなお健在。またその縁であろう伯母の一人トキさんは、たしか時計職人だったダンナと荻窪駅前、上荻一丁目にとんでもなく狭い、しかし3階建ての所帯を構えていたが、ダンナも亡くなり、しばらくしてその伯母も、12年ほど前だったか世を去った。私が東京に出て、荻窪や西荻窪に住んだのは、その伯父、伯母のツテでもあった。

低い木造住宅が密集し、怪しげなところも何箇所かあったらしい仙台駅東側は、私が東京に出てきてからすっかり「クリアランス」されて、広い通りの両側に大規模量販店や有名予備校がひしめくエリアに変容したが、来年の地下鉄東西線開通に関連してか、さらなる「開発」の真っ最中という。

【追記・訂正】

同年齢のいとこ(漢字で書くとややこしいので、ひらがなにする。父の妹の長男である)の考古学者がいる。その父親も考古学者であった。
そのいとこがご先祖調べに親戚を訪ね歩いているという話を何回か聞いたことがある。
そのうち彼から、2、3回私のほうのご先祖調査の結果を知らせてくれた。
そのたびに簡単な礼状を出しておいたが、昨今(2016年9月)とうとう「奥州仙臺須藤家家系圖」が送られてきた。
考古学者の本領を発揮して、文献やら墓、地名を調べ上げ、これをこしらえ、その末裔の承諾を得て私のところにも複写をくだされたものと思う。
その末裔の現住所も添えてあった。

数年前、いとこは考古学者の本領を発揮して、仙台は壽徳寺にある須藤家の墓所をしらべ、決して身分の高い武士ではない、と手紙で言ってきた。
また「東京美術学校」(芸大の一源流)の資料にも「佐藤佐」なる名は見当たらないと言ってきた。
そうしてついに、今回の系図となったわけである。

その冒頭の「由緒」によると、須藤家は「仙台伊達家家中」ではあるが、家格は「平士」であり、「大番組所属」であったという。
家紋は「丸に揃い二つ引両」の由。
系図の末に掲げられている文字資料(『仙臺府諸士版籍』〈仙臺叢書所収〉ほか7点)にあたって、今回の系図をこしらえあげたのだろう。
まことにいとこは学者である。

内輪のご先祖話というのは、たしかに話半分というべきなのだ。
そうしてウチのご先祖様も、幕末は貧乏武士の手合いだったらしい。
だから、義衛門さんや祖父敬治が「帝国大学」に入りまた出ることができたのは、それなりのストーリーがあったのだろう。
丸に剣片喰の家紋のついたウチの重箱や羽織はどこへ行ったやらだが、それは須藤家のものではなく芳賀家の紋だったのだ。

まあ、これでご先祖の一端は判明した。
けれども、ご先祖様は、父方、母方それぞれにおり、またそこからさらに遡るから、「遺伝」的・生物学的には累乗的に増える。
そこから一系のみ取り出して「ウチ」と言ってみたところで、それはひとつのフィクションにすぎない。
現生人類はほぼみな親戚といっていい。
哺乳類も・・・。
そうしていま、われわれが直面しているもっとも巨大で深刻な課題は、家や地域、国家すら超えた地平に所在する。
「完新世」をも超えた「人類世」が、すなわち人類の末期であるのか否か。
いずれにしても、いまは「地学の時代」なのである。

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最近の書きものから

山田風太郎という作家の作品は、もう半世紀ほど前に連載されていた地方新聞の小説で接し、それが今かんがえれば「くノ一」シリーズのひとつには相違なかったものだから、思春期の少年には破天荒なインパクトを与えたのでした。「伝奇小説、推理小説、時代小説の三方で名を馳せた、戦後日本を代表する娯楽小説家の一人」という評のある山田さんですが、一方ではシリアスかつリアルな思考の記録を残してくれていて、そのひとつが『戦中派不戦日記』。

今年の8・15の「天声人語」欄でとりあげられたというので、図書館に新聞を見に行きました。その山田さんと、かつては保守系文化人の頂点に立ったイザヤ・ベンダサンこと山本七平(大平内閣の諮問機関「文化の時代」研究グループの議長をつとめる)は、いずれも1920年代のはじめに生まれた戦中世代。だから、方や肋膜炎で徴兵を免れ、他方ルソン島で捕虜となった差異はあるものの、ひとしく敗戦に至る時代の愚劣に心身をさらしてきた者なりの、リアリティに裏打ちされた発言を残している。「列外者」とでもいうべきか、同時代としては醒めた彼らの視線は、「リアリティ」からかぎりなく懸隔し、ブラジルの「勝組」神話すら髣髴とさせる昨今の「空気」感のなかでは(山本『「空気」の研究』1977)、むしろ貴重なものがあると言うべきでしょう。

このような想念のうちに脳内に浮上するのは「戦争が終わって僕らは生まれた…」「…戦争を知らない子供たちさ〽」という「フォークソング」の歌詞とメロディー。はじめて聴いたときは、極楽とんぼの極致のような歌詞の並びに虫唾が走り、言いようのない恥ずかしさを覚えものでしたが、それは現在でもまったく同様。

しらべてみると1970年大阪万博のフォークソングフェスティバルの統一テーマ曲に選ばれたものという。歌は杉田二郎と森下次郎の二人組で、ジローズ(第二次)というグループ名でした。作詞は1946年6月生まれの北山修、作曲は同年12月生まれの杉田。当時杉田は立命館、森下は同志社、北山は京都府立医科大学のそれぞれ学生だから、要はつくり手も舞台まわしも関西なのでした。ただし北山は卒業後ロンドン大学精神医学研究所を経て心理療法の北山医院を開設、その後九州大大学院教授となって同大学名誉教授および国際基督教大学客員教授という履歴。すなわち「全国区」の資格は十分にある。

「戦争を知らないから平和の徒である」という茶番めいたメッセージは、しかし戦中世代は鼻の先で嗤うしかなかったでしょうし、戦争で「進出」された側は、日本の「若者」に対しても呆れかえって侮蔑し、疎外するほかに当座の対応はありえなかったでしょう。われわれの「戦後」や「平和」の内実がこのようなものであったとしたら、「日本人」が「歴史」から学ぶことは何もなかったのです。

「淀橋病院にゆく。飯田から送った荷物は小児科室に積んであるので大童になって探したが、きくと第二回目の荷物はきょうごろ着く予定だという。まだそんなことかと失望した。/学校に顔を出すつもりで歩いてゆくと、伊勢丹裏の焼野原を、アメリカ兵が大きな車輛機械で整地していた。ブルドーザーというものだそうだ。巨大な機械が二台、それに一人づつ乗って、チューインガムをかみかみ、また煙草を横ぐわえにして、ハンドルを握っている。車の通ったあとは黒土が平坦にならされてゆく。チンチクリンの日本人たちが雲集して、口をあけて見物していた」(『戦中派不戦日記』1945年10月28日の一部)。

ここで言う「淀橋病院」とは、いま西新宿六丁目にある東京医科大学病院のこと。山田風太郎こと山田誠也さんは、新宿六丁目の東京医科大学に通う、勤労学徒でした。

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『地理』2014年5月号掲載
『地理』2014年5月号掲載
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1920年代の精神史

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 岩波書店で『夏目漱石』全集の編集に携わった著者は、昭和十九年、高崎市の東北寄りの芝塚で平家の流れを汲む母の実家に生まれ、小学五年で上京するまで市内の東小学校に通ったというから、高崎育ちの評者にとっては、根っからの同郷人である。
 母方の秋山姓を名乗るのは、祖父の大谷蔵三が「徴兵逃れで」生家に住みながら秋山家へと養子に入り、父は父で、高崎市街から十キロほど東の八幡原で、これまた今川義元の家臣の子から数えて十二代続いた田中家に生まれ、母との縁談がにわかに起こって秋山家に婿入りした結果である。著者が会社を定年退職後、来し方を振り返って書き出したものが、いわゆる「自分史」の枠に収まりきれず、父長三郎や七歳年下の叔母ウタとその夫豊原五郎らが「生きて」いた〝一九二〇年代の精神史”にまで広がっていったのは、そもそもその辺の事情によるものらしい。
 一九二〇年代といえば、大正九年から昭和四年までの十年で、その間一九二三(大正十二)年九月一日には関東大震災が発生している。著者は『国史大辞典』はじめ各種人名辞典類やインターネットを活用して丹念に父の足跡を洗い出すうち、大震災後の混乱の中で群馬共産党事件というのが起こっていたことを初めて知るが、これは同年六月、徳田球一や堺利彦らが逮捕された第一次共産党事件の群馬版だった。四人兄弟の中一人だけ旧制藤岡中学に行かせてもらった父が、一浪して入った桐生高等工業を卒業して、粕壁(春日部)中学に赴任したのも、同年春のことである。
 父は在学中、一高から東大法学部に進んだ中学の先輩高津渡の影響で社会主義思想に目覚め、高津らと同人誌『燎原』を発行しているが、本書の表題『石や叫ばん』は、群馬共産党事件で投獄され、二十七歳の若さで病に倒れた高津が一高寮歌「ああ玉杯に花受けて」を改作した革命歌の第四番「われら青年もだすとき 石や叫ばんこの叫び…」に因んだものである。
 地震当日の集会に遅刻して逮捕は免れたものの、職を追われた父は、逮捕者の救援活動を行った後、翌年上京して社会・労働運動に身を投じ、十四年には徳田球一の秘書を務めている。一方、在京の兄から送られた雑誌等によって 「感情教育」を施された妹のウタも、昭和二年には出奔同様に上京して、工場や組合を転々としながら非合法活動に専念するが、活動の中で知り合った同志豊原五郎との結婚生活は、翌三年三月、二人で出張した小倉で全国一斉に共産党員が検挙された三・一五事件に遭遇して、四十日にも満たなかった。ウタが四年四月、三・一五に次ぐ四・一六事件で逮捕されてからは、五郎が福岡、父が市ヶ谷、ウタ
が水戸と、離ればなれの刑務所に収監され、文通を厳しく制限される中で、「命があったら又逢いましょう」と固い結束を誓い合っている。

   新婚の主義者夫婦を四十日
   捨てヽはおかじ治安維持法

 獄から獄への手紙で結ばれた三者の関係に思いがけぬ異変が訪れるのは、五年二月、父に結婚問題が浮上して、六月には保釈されていたことを、五郎がウタからの四か月ぶりの手紙で知った時である。――父の保釈は果たして「転向」と引替えだったのか――著者は執拗な疑念にとらわれるが、旧刑法下では共産党幹部にも家族の保証を条件に「責付(せきふ)出獄」という制度が適用されていたことを突き止める。
 古い風呂敷包みの中から見つかったという母の昭和二年の日記によれば、母は当時師範学校を出て駆け出しの小学校教師をしているが、一つ年下のウタと較べると、紀元節、招魂祭などの明治憲法下の学校行事になんの疑問も抱かず、読書や「活動」(映画)にわずかに息抜きを見出すほかは、学級運営や校内の人間関係に一喜一憂し、理想の結婚相手が見つからないといってこぼしてばかりいる、なんとも頼りない「皇国少女」である。ところが、昭和五年に獄中の父に宛てた十四通の「ラヴレター」の中では、「こともあろうに主義者と結ばれる」に至った経路を、ある種の雄弁をもって自ら解き明かしてくれる。
 ときに便箋十二枚にも及ぶ手紙の中で「長三郎様」と何度も呼びかける書簡体風のスタイルは、二年前に読み耽った『モンテクリスト伯』あたりに学んだものであろうか、はじめのうちこそ運動から手を引いて「立派な大和魂」に目覚めてくれと繰返し求めているが、三銭切手を三枚貼って便箋二十枚に垂(なんなん)とする父の弁証法的説得が功を奏したものか、次第に父の「理想」に寄り添うべく努めるようになってゆく。著者の知る後年の母は「額に深いしわを刻み…、いつも不機嫌だった」そうだが、若き日の母が家郷を振り捨て、後先見ずに出奔する日は、翌年三月末、ついに到来するのである。

   革命を夢見る人に焦がれゆく
   皇国少女の道に幸あれ

 (「図書新聞」2014年3月15日・第3150号/評者:井田進也・大妻女子大学名誉教授)

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気付いている人は多数ではない。
しかし私たちの行途には、実は「3つの崖」が待ち受けている。

ひとつはもちろん「何時」かはわからないが、将来確実にやってくる巨大地震。
これは地球内部上層の物理的メカニズムであって、なんびとも否定しえない。

しかし、次の二つは「人為」現象であるけれども、どこかで「制御不能」となり、いわば本番と実験・実証が同時に進行するため、
また政治的、経済的意図から、さまざまなめくらまし「ポルノグラフィ」がまき散らされているため、大部分の人は気づかない。
日常にまぎれて、曖昧にし、あるいは高をくくっている。

そのひとつは、近い将来現実のものとなる可能性の高い、「円」と「国債」そして「株」の暴落(日本トリプル安)である。
1000兆円を超える、世界に類をみない巨額な「政府借金」(国債)。
それを次々発行し、日銀に買い込ませ、おもに土木・公共事業にカネを投下。
以前と変わらぬ土木国家に逆戻り。
しかも、以前にもまして、国家経済破綻に向け、急激なアクセルを踏んだ。
10年を経ずして、その評は「戦後最も愚かな内閣」(タロットカードの「フール」)ということになろうが、しかしその内閣を成立させ、「支持」したのは、「国民」である。
愚かなピープルが選んだ愚かなガバメントは、自らを維持するために、「国家」そのものを破綻させる。

「日本人ツーバーフォー説」というのがあって、ツーバイフォーの角材で頭を叩かれないとわからないのだといわれるが、3・11つまり「第二の敗戦」で叩かれたはずが、目覚めはごく少数で、大部分は逆に昔の「夢世界」に退行、一部には「ひとりヨガり」(ナチまがいのレイシズム)が蔓延している。
足元を見ずに。
列島における「エレミアの時代」というべきか、トーキョーは「バビロン(バベル)の都」というべきか。
いずれでもあろう。

「トリプル安」はハイパーインフレに直結する。
街では真っ先に食べ物が消える。
ガソリンが高騰し、食料品店前だけでない、ガソリンスタンドにも車の長い列が並ぶ。
「秩序ただしい国民」のはずが、あちこちで深刻な諍いと「事件」が発生し、行政や警察は無力であるか、もっぱら「中枢」に対応するものであることが明らかとなる。
そうして、年金生活者をはじめとして、何万、何十万人という自殺者あるいはアル中という緩慢な自殺者が発生するだろう。
ソ連崩壊後のロシアのような「新興国」ではないし、そもそも資源もない、食料自給率も極端に低いから、「地獄」からの脱出は容易ではない。

そうして3つ目は、次第に明らかになってきた、原発事故の結果の真の怖ろしさである。
「数年後」に、爆発的な形であらゆる疾病が発生すると言われていたが、内部・外部被曝の影響はすでに東京圏にあっても顕著になりつつある。
たとえば《http://blogs.yahoo.co.jp/ht_sue/31177432.html》を参照。

政府や医師会、そして「電通」が「安全安心講話」を投入し、「風評被害」と言い張り、統計を操作して隠そうとしても、隠しおおせるものではない。
それは大人も子どもも、皆「血液」を検査すれば明らかになることである。
白血球のなかの好中球(neutrophil)の減少。

はじめは、「なかなか風邪が抜けない」といった「現象」として。
何度確認してもしすぎることはないが、人工核分裂生成物被曝に、行政が言うような「基準値」、すなわち「これ以下だから大丈夫」という「閾値」は、実は存在しないのである。
放射線を扱う技師が注意を払うように、些細な被曝でも、避けるべきである。
われわれは、すでにそのような「世界」(「放射線管理区域」と同等の)に生きているのである。

東日本にいれば、この3番目はすでにわれわれが直面している現実である。

これら3つの崖はそれぞれ微妙にことなった構造をなしていて、第1と第3は「地域性」をもつ。
それはとりわけ第3の崖について顕著である。
だから「世界」は、この第3の崖については、「モデルケース」として注視しているだけである。

しかし第2の崖は、この列島に限った話ではない。
経済とは、ある意味で「心理学」である。
そうしていま、世界経済は「信用」という虚構のうえに成り立って、しかも通底・連動している。
トーキョーは虚構の最たる例で、まさに「バベルの塔」のごとき観があるが、もし円のトリプル安が現出すれば、それは世界中に波及するのである。
そうなったら、主要国は破綻した国の経済に介入しないわけにはいかない。
極端に言えば、政権は崩壊というよりその責を問われ、列島は「第二の占領時代」に突入するのである。

「東京オリンピック」どころではない。
しかも皮肉なことだが、もしわれわれが「第1の崖」に先に逢着して、東京をはじめとした巨大都市圏が「相応に」破壊されれば、あるいは第2の崖の現出は遠のくかも知れないのである。

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「畸形」のトーキョー

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誤謬(Urteil)の判断は先入見(Vorurteil)である。真理と誤謬、認識と誤認、理解と誤解は、科学の器官である思惟能力の中に一緒に住んでいる。感覚的に経験された事実の一般的表現は思想一般であって、その中には誤謬も含まれている。ところで誤謬が真理から区別される所以のものはその誤謬が自らがその表現であるところの一定の事実に対して感覚的経験が教えるよりヨリ大きい、ヨリ広い、ヨリ一般的な存在を僭称するところにある。僭越が誤謬の本質である。ガラス玉は真珠であると僭称するときはじめて贋物となる。(ディーツゲン『人間の頭脳活動の本質』 他一篇。小松攝郎訳、1952年、岩波文庫。 Joseph Dietzgen: 1828-1888)

上記は「認識論」として述べられているのであるが、このなかで「僭越」と訳された部分は、往々にして「(度外れ)」と註される。
「度外れ」な認識が誤謬である。

一方、存在論ないし行動論としても、この「度外れ誤謬の法則」は貫徹される。
たとえば、あやまちが「過ち」と表記されることからも、それは推測できるだろう。

今般目出度くも「都知事」となりおおせた男が、「東京を世界一にする」と言ったようだが、実はトーキョーは、「度外れ」であることにおいて、すでに世界一なのである。
その度外れが、ほんの数センチの積雪でたちまち麻痺する交通網をつくりあげた。
それはテクノロジーの問題では決してなくて、単純に「過密」で「膨れ上がりすぎた」結果であって、分秒の間隔で発着する複雑な鉄道網の存在自体が「度外れ」であり、はっきり言えば「畸形」なのだ。
たとえば、3、4分の遅れで馬鹿丁寧な「お詫び」を繰り返す車内アナウンスも、ラッシュ時の耳を覆うばかりの高デシベルホーム放送も、「異常」以外の何物でもない。
いずれも「実効性」ないし「実質」からはほど遠い、単なる「アリバイ」づくりの「伝承所作」(=仕事)である。

メガシティという概念からいえば、世界の断トツは3470万人が蝟集し、「一つ目の巨魁」の如き奇態な存在となりおおせた、トーキョー圏である。
その「内部」に住まっていると、あるいはそこ一極に集中した「報道」に依存していると、この「異常」を認識することは難しい。

大雪と同時に大地震に見舞われたら、また箱根や富士山の噴火がトーキョーに降灰をもたらしたとしたら、電気仕掛けで、さらにコンピュータによって辛うじて制御されている都市はひとたまりもない。

地球表面の「変動帯」の、とりわけ脆弱な地盤上に建設され、ふくれるだけふくれあがった現代都市としてのトーキョーの存在自体が「崖」であると警告したのが拙著であって、一般に「東京地形本」と誤解されているようだが、そうではない。

ここでも、対応策は「分節」である。
すなわち、戦時体制の置き土産としての「都」を廃止するのである。
ついでに「国」の下請け機関にすぎない、「道府県」も廃止する。
日本列島を市町村の連合国家とするのである。

それぞれの市町村において税を徴収し、その一部をもって「国」を運営すること。
上下水道とエネルギーと食料の需給は、それぞれの政治単位(市町村)ごとに独立したものとすること。
日本列島上の「住民」が、この島に生き延び、「再生」し得るシナリオは以上のとおりである。

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岸田國士(きしだくにお・1890-1954)というひとは、岸田衿子(詩人、童話作家)、岸田今日子(女優)姉妹のお父さんで、戯曲や評論で知られ、文学座を創設した一人でもある。
軍人の家に生まれ、その名のとおり軍人になるべくして陸軍幼年学校から士官学校を卒業、めでたく将校となったのはいいけれど、勘当覚悟で辞表を提出、フランス文学と演劇を学びなおした。
そのような人が、半世紀以上前、つまり日本の敗戦から間もない頃(1947・昭和22)、標記のタイトルをもった文をしたためた(「玄想」5月号)。
以下はそのごく一部である。

「第2の敗戦」と言われる原発事故(2011・3・11)以降、2012年12月の衆議院総選挙と2014年2月の都知事選挙を経た「現在」に照らすと、まことに正鵠を射た洞察であって、この列島には100年や200年では変らない、怖ろしくも鞏固な構造が存在することを知るのである。
映画「猿の惑星」(原作ピエール・ブール)のモデル(apes)は開戦初期の調子よい時の日本人で、それはたしかに他者の眼に映された「モデル(像)」であったが、しかしそのモデル自身の内部にも、自画像視座の存在を証して貴重である。
日本列島に住まう人々に、まともな「政治」をともにする未来があるとすれば、そこに至るプロセスはこうした痛苦をともなう、しかしまっとうな視線と自覚のうえにのみ存在するのである。

「現在のこの未曾有の事態に処して、われわれはまだ政治というものを、いくぶん人ごとのように考えている。それは、普通の概念における政治と、われわれの国の政治とは、どんなに制度をかえてみても、そこに根本的な喰いちがいがあるように思われるからである。つまり、政治の概念と、実際の通念との間には、理想と現実の間におけるような距りがあることを感じているのである。「こうすればこうなる」ということは、日本の政治の場合に限って当てはまらないような気がしている。天皇も政府も議会も新聞も、なにがどうなっても、それは日本の政治をこれ以上わるくもしなければよくもしない、と高をくくっている。それはいったいなぜだろう。なぜということははっきりいえないけれども、なんだか日本という国はそういう国のような気がしているのである。こういうふうにみられている「政治」というものは、そもそもほかの国に存在するだろうか? これはしかし、日本の政治そのものの実質がそうみられるようなものであるのか、または、実質と関係なく、日本人たる国民の眼にただそう映じるだけなのであろうか? 私は、まさにその両方だといいたいのである。日本の政治は、日本人がこれに当るかぎり、たしかに畸形的な、グロテスクな相貌を呈せざるを得ぬ。しかし、国民は、それをそのとおりには見ていない。役所といえば役人だと思っているように、政治といえば政治家そのものをしか考えないから、そこには「全き人間」による「全き政治」のすがたを空想する余地がないのである。」

「さて、われわれは、いくら畸形的なものの価値と美を強調するにしても、畸形はすなわち畸形であって、「満足なもの」ではないのであるから、そこには必ず不自然、不自由が伴う。目ざわり、調子はずれ、ぎごちなさ、不安定、うっとうしいもの、いらだたしさ、がある。そして、それはまた常に宿命的な「ひけめ」を背負うものである。
われわれ自身がめいめいに、それらの不快感の原因を作り、そして互いに、結末を分ち合っているのである。誰もどうすることもできない。なかには、これが「世の中」だと思い、「ままならぬ」ゆえんだとあきらめているものもある。鼻歌であしらうもの、やけくそであたりちらすもの、黙って溜息をつくものはあっても、むきになって、それがために人間改造を叫ぶものはない。革命家はひとり、労働賃金を引上げることによってすべては解決すると信じている。しかし、その革命家なるものが、最も「畸形的」である場合、革命は何処へ行くであろう。」

最初の引用は比較的文末に近い部分だが、二番目のはまったくの文末。
ここで述べられている「畸形的な革命」とは、近隣の国々の畸形というより奇怪な「政治」(スターリンの「粛清政治」、毛沢東の「文革政治」、金日成・正日親子の「主体政治」)が、文字通り天文学的な数の死者と被虐待者を生み出したことで、その結果が証された。

そうして数十年前までの「日本」は、これら畸形国家の「兄弟」であった。
すなわち、畸形軍人と畸形官僚らの掛け声を背に、レミングの行進よろしく悲惨な泥沼の戦いに「動員」され、壊滅の淵に臨んだ「帝国政治」国家だったのである。
現在、列島の政治中枢(トーキョー)で策動しているアベなんとかなどが「とりもど」したい「美しい日本」とは、モスクワやベイジン(ペキン)、そしてピョンヤンで行われているものと結局は同レベルの「伝統」、すなわち「命の値段」の安く、かつ「盆栽」のようにひねこびた畸形人が主体をなす「景観」なのである。

自尊心とは、無前提に尊重されるものではない。
夜郎自大こそ醜く、畸形である。
リアルな認識と、それによる苦痛から逃れず、しかも生をいつくしむ存在であること。
これ以外に、私たちの生きる道はないのである。

collegio

書評「みんなの空想地図」 

メディアの大変動期に出現した、真摯な求道地図

今和泉隆行著、白水社刊
今和泉隆行著、白水社刊

発売から三ヶ月、都内の公共図書館はどこも「貸出中」で、予約も目白押し。書店店頭でもあちこちで品切れ。テレビ番組で紹介された影響も大きく、本書は売れているようです。 
ワールド・ワイドな知名度をもつ「空想地図」は、R・S・スティーヴンスンの『宝島』をもって第一としますが、本書には「リベルタリア」や「ユートピア」のような「空想」が介入した形跡はまったく存在しません。そのようなワールド・ワイドな「空想の伝統」と隔絶したところに誕生したことが、この「空想地図」の特徴でもあり、新鮮味でしょう。  

著者紹介に「地理人」とありますが、読後感は「地理」というよりも、幼児の一人遊びから発して「都市計画」に至った印象。だから「空想」もきわめて「実際的」で、版元が「都市のコミュニティデザインの魅力」と喧伝する所以でしょう。だから、ここで強調しておかなければならないことは、開陳されているのは、「地」図ではなくて、「都市」図であり、その「図」と著者自身との「成長の記録」にほかならない、ということです。しかし、この書籍の最大の特徴ないし魅力とは、書籍の中身もさることながら、むしろその本体をくるんでいる、カバージャケットなのです。

薄い透明「プラ」カバーを外し、厚手用紙に印刷されたカラフルな折りたたみジャケットを広げれば、天地380ミリ左右460ミリほどの大きさ。縮尺1:10000の「中村市詳細道路地図」が翼をひろげる。その出来栄えは市販の「道路地図」と寸分たがわない。
そこで判然とするのは、「空想の都市」の図が人を魅惑するとすれば、それは「現実の都市」の図(道路地図)に「見紛う」という一点に懸っている、ということでした。それは一種の「眩暈」感覚、換言すれば「トリッキー」な面白さなのであって、テレビ番組はその「マニアックな魅力」を摘まんで、拡散させたといえるでしょう。

しかしながら、著者のスタンスはトリッキーどころか、描図および都市の「リアル」を求めるにおいてきわめて真摯であって、「架空の土地を設定」するも、その「言語化できない空気感を、主観を抜いて、いかに地図や統計で示すか」と腐心する様や、一旦できた図に対しても「自分の所感を検証することによって、今度は自分を俯瞰するポジションに立」つと述べ、さらに「フラット」な「俯瞰の境地」を繰り返し述べていることからもわかるように、求道者の営為に近いものがあるのでした。

「中村市」が「なかむらし」でなく、「なごむるし」であるのは、「小学五年生の一月」に転校してきて、空想地図を一緒に描いてくれた友人の姓に由来し、彼の「読み方だけは変えてほしい」という要望によってそうなったのだといいます。その「中村市」も、本文中のカラーページで紹介されているように、第1訂(1997)から第8-3訂(2011)まである「中村市地図」が、その手描きの第8-1訂(2001-2003)どまりであったとしたら、決して人を振り向かせることはなかったのです。

著者が受験と大学入学端境期に、自らの手描き図をパソコンソフトでトレースするところから「デジタル地図」の世界に入り込んだのは必然でもあり、決定的でした。

かつてきわめて狭い範囲に限られていた地図製作の「職能」世界は、今日では意志すれば個人が趣味で描いたものが立派に「通用」するまでに拡張されたのであって、われわれが巨大な地すべりのごときメディア変容に立ちあっている、という事実も本書が明らかにしたこと。タイトルの「みんな」はそれを暗示しています。

残念なのは、著者の「フィールドワーク」が、地表上、時間的にも空間的にもまことに特異な、しかしわれわれが親しんで怪しまない、日本列島都市生活圏の「内部」にほぼ限られていることです。「3・11以後」のわれわれに必要なのは、「外部」の視座であることは、言うまでもないのですが。
(芳賀ひらく「図書新聞」第3144号・2014年2月1日)

“ブラタモリ”や『アースダイバー』から近刊本まで、
《素人地形談義》の誤りを具体的に指摘。
自然地理学・地形学の営みを平易に語る、待望の書!
口絵カラー8ページ、
「おもな駅名」を記載した、東京・横浜デジタル地形段彩陰影図付。

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対話で学ぶ 江戸東京・横浜の地形
松田磐余/著
A5判 カラー口絵8ページ+本文256ページ
本体価格1800円+税
ISBN978-4-902695-21-2

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(口絵の一部)

目次
まえがき
第1章 都心部の地形 ―日本橋台地・江戸前島・日比谷入江
 1 銀座の尾根・新橋の谷
    伏在する尾根と谷/海面変動/台地と波食台
2 日比谷入江
    日比谷公園の珪藻化石/最近1万年の海面変動
 3 中世以降の変化
    鍛冶橋の骨/都立産業会館の骨/地下鉄丸の内線の工事現場
    運輸省ビル/二重橋際/坂下門/東京駅八重洲北口遺跡
    丸の内線東京駅付近の地質断面図/3つの内容を関連付けてみる/まとめ    
徳川家康入府後/江戸前島と周辺の地形/『水の都市 江戸・東京』
第2章 山の手台地を開析する谷の地形と地盤
  1 NHKの番組「ブラタモリ」の間違い
           侵食と堆積―藍染川と石神井川
  2 下末吉海進と縄文海進の混同
            新聞と学会誌/『アースダイバー』の誤り
 3 山の手台地を開析する河川
            3区分される河川縦断形
 4 どこまで海(入り江)だったか ―目黒川    
            東山貝塚/目黒川低地の傾斜/地質断面図による考察
 5 どこまで海(入り江)だったか ―渋谷川・古川    
            谷底低地と豊沢貝塚/地質断面図による考察
 6 どこまで海(入り江)だったか ―神田川    
            神田川沿いの地形と地質断面図
 7 どこまで海(入り江)だったか ―藍染川(石神井川
            埋積されて出来た藍染川低地
第3章 横浜市中心部の地形
 1 横浜市中心部の地形発達史
    河岸段丘を欠く横浜市中心部/最終間氷期最盛期(下末吉海進最盛期)
    最終氷期極相期/後氷期(縄文海進)/縄文海進以降
 2 埋没谷底と埋没波食谷
    沖積層基底
 3 台地と低地が存在する理由
    隆起と関東ローム層の堆積
第4章 横浜市金沢低地の地形
 1 名勝「金沢八景」の誕生
    平潟湾と金沢砂州/夏島貝塚と野島貝塚
 2 金沢低地の沖積層
           海岸沿いの地質断面図/古宮川沿いの地質断面図/沖積層基底
 3 金沢低地の地形発達史
    最終氷期から金沢砂州の形成まで/人工改変
第5章 山の手台地東北部(赤羽付近)の地形
 1 成因の異なる地形
    成増台と本郷台/多摩川の名残川である石神井川/赤羽台地の谷/地下に埋もれて
いる地形/ボーリング柱状図に現れている地史
 2 現地に行ってみる
    地形図をたどりながら
第6章 多摩川低地の形成
 1 多摩川低地の地形と堆積物
    多摩川低地と周辺の地形/多摩川低地の堆積物
  2 多摩川低地の地形発達史
    沖積層発達史/沖積層基底/多摩川と鶴見川の関係
第7章 東京23区と周辺の地形発達史
  1 台地と低地
    地形発達史の重要性/関東平野における東京23区の位置/東京23区の地形の概要
  2 山の手台地と下町低地の形成
  下末吉海進時の海岸線/S面の対比について/亜氷期・亜間氷期
    /離水時期/火山灰編年学
 3 東京低地の地盤
    地質断面図に現れている氷河性海面変動/ブロック図による説明    
  /沖積層の分布
 4 東京低地の形成
    東京低地の陸化過程
 5 最終間氷期以降の海面高度の変化と地形発達史
    山の手台地の地形発達史/地質断面図による説明
第8章 東京・横浜の地形を理解するための基礎
 1 関東地方の地形
    新しい低地、古い山地/下末吉面と地殻変動
  2 沖積低地の地形
    土石流と低地の形成/自然堤防、後背湿地、三日月湖
  3 氷河性海面変動と地形
    氷河性海面変動とは/気候変動の歴史/最終間氷期から現在までの歴史
  4 氷河性海面変動による地形の変化
    侵食基準面の変化と段丘化/気候変動と地形形成モデル/海食崖、波食台、
    砂州、磯、浜/地殻変動の影響
 あとがき
 おもな参考文献
 索 引

著者紹介
松田磐余(まつだ・いわれ)
1939年、東京都品川生まれ。東京都立大学大学院修了、同大学理学部教授、関東学院大学教授を経て、
現在関東学院大学名誉教授。理学博士。著書に『江戸・東京地形学散歩』(之潮)ほかがある。

父と母の死後、残された手紙や日記類をひもといて、はじめて知る、その若き日の実像。
画期的「漱石全集」を編集し、戦後出版史上に屹立する金字塔を打ち立てた秋山豊が描く、「苛酷な時代」の群像。
一世代前の人々の軌跡が、リアリティをもってよみがえる。

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石や叫ばん -1920年代の精神史
秋山 豊 著
四六判 458ページ 本体2800円+税
ISBN978-4-902695-20-5  C0021

目 次
第一章  祖父から父へ
第二章  群馬共産党事件
第三章  田中ウタ
第四章  建設者同盟
第五章  総同盟の方向転換
第六章  田中ウタ、ふたたび
第七章  豊原五郎
第八章  三・一五事件
第九章  母の家
第十章  母の日記
第十一章 切り離されて
第十二章 獄から獄への手紙
第十三章 母の手紙
第十四章 関根悦郎と西村桜東洋
第十五章 その後のウタ、父と母
第十六章 母の上京
あとがき
人名索引

著者紹介
秋山 豊(あきやま・ゆたか)
1944年生まれ。東京工業大学卒業後、同大学助手をへて、岩波書店に入社。
講座・辞典の編集から、1993年に刊行開始された『漱石全集』の編集に従事。
2004年、同社退職。
著書に『漱石という生き方』『漱石の森を歩く』(いずれもトランスビュー刊)ほか。

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