9月 1st, 2014
最近の書きものから
山田風太郎という作家の作品は、もう半世紀ほど前に連載されていた地方新聞の小説で接し、それが今かんがえれば「くノ一」シリーズのひとつには相違なかったものだから、思春期の少年には破天荒なインパクトを与えたのでした。「伝奇小説、推理小説、時代小説の三方で名を馳せた、戦後日本を代表する娯楽小説家の一人」という評のある山田さんですが、一方ではシリアスかつリアルな思考の記録を残してくれていて、そのひとつが『戦中派不戦日記』。
今年の8・15の「天声人語」欄でとりあげられたというので、図書館に新聞を見に行きました。その山田さんと、かつては保守系文化人の頂点に立ったイザヤ・ベンダサンこと山本七平(大平内閣の諮問機関「文化の時代」研究グループの議長をつとめる)は、いずれも1920年代のはじめに生まれた戦中世代。だから、方や肋膜炎で徴兵を免れ、他方ルソン島で捕虜となった差異はあるものの、ひとしく敗戦に至る時代の愚劣に心身をさらしてきた者なりの、リアリティに裏打ちされた発言を残している。「列外者」とでもいうべきか、同時代としては醒めた彼らの視線は、「リアリティ」からかぎりなく懸隔し、ブラジルの「勝組」神話すら髣髴とさせる昨今の「空気」感のなかでは(山本『「空気」の研究』1977)、むしろ貴重なものがあると言うべきでしょう。
このような想念のうちに脳内に浮上するのは「戦争が終わって僕らは生まれた…」「…戦争を知らない子供たちさ〽」という「フォークソング」の歌詞とメロディー。はじめて聴いたときは、極楽とんぼの極致のような歌詞の並びに虫唾が走り、言いようのない恥ずかしさを覚えものでしたが、それは現在でもまったく同様。
しらべてみると1970年大阪万博のフォークソングフェスティバルの統一テーマ曲に選ばれたものという。歌は杉田二郎と森下次郎の二人組で、ジローズ(第二次)というグループ名でした。作詞は1946年6月生まれの北山修、作曲は同年12月生まれの杉田。当時杉田は立命館、森下は同志社、北山は京都府立医科大学のそれぞれ学生だから、要はつくり手も舞台まわしも関西なのでした。ただし北山は卒業後ロンドン大学精神医学研究所を経て心理療法の北山医院を開設、その後九州大大学院教授となって同大学名誉教授および国際基督教大学客員教授という履歴。すなわち「全国区」の資格は十分にある。
「戦争を知らないから平和の徒である」という茶番めいたメッセージは、しかし戦中世代は鼻の先で嗤うしかなかったでしょうし、戦争で「進出」された側は、日本の「若者」に対しても呆れかえって侮蔑し、疎外するほかに当座の対応はありえなかったでしょう。われわれの「戦後」や「平和」の内実がこのようなものであったとしたら、「日本人」が「歴史」から学ぶことは何もなかったのです。
「淀橋病院にゆく。飯田から送った荷物は小児科室に積んであるので大童になって探したが、きくと第二回目の荷物はきょうごろ着く予定だという。まだそんなことかと失望した。/学校に顔を出すつもりで歩いてゆくと、伊勢丹裏の焼野原を、アメリカ兵が大きな車輛機械で整地していた。ブルドーザーというものだそうだ。巨大な機械が二台、それに一人づつ乗って、チューインガムをかみかみ、また煙草を横ぐわえにして、ハンドルを握っている。車の通ったあとは黒土が平坦にならされてゆく。チンチクリンの日本人たちが雲集して、口をあけて見物していた」(『戦中派不戦日記』1945年10月28日の一部)。
ここで言う「淀橋病院」とは、いま西新宿六丁目にある東京医科大学病院のこと。山田風太郎こと山田誠也さんは、新宿六丁目の東京医科大学に通う、勤労学徒でした。
4月以来、久々の更新、まだ存命であることを知って一安心です。
しかし、かつて福島原発をめぐって論陣を張っていたころと比べ、いささか記述(と言っても実際は打鍵作業か?)に不安を感じますよ。
15行目「言いようのない恥ずかしさを覚え〔「た」が欠〕ものでした」などは単純ミスで気になりません。
しかし、標題が「最近の読みものから」ならよし、「書き」ものだと言うなら発表場所なり示してくれないと困ります。『東京新聞』なのか『地理』か……。
次に、冒頭3行目の山田の紹介を「『伝奇小説、推理小説、時代小説の三方で名を馳せた、戦後日本を代表する娯楽小説家の一人』」と「 」に入れながら、出典を表示していないのは小保方博士と同じ「不正」で、片手落ち(後出!)です。やはりWikiでしたが、この「山田風太郎」の項、管理者から「複数の問題があ」ると注記されているとおり、いかがわしい解説です。「三方」などいう奇語があったり、山田あたりの作を「娯楽小説」と記すのは〔少なくとも木村にとっては〕不自然で、「大衆」小説として括られるのが普通だと思います。12行目の「(山本『「空気」の研究』1977)」という挿入も引用表示なのか何だかわかりません。
以上は、意地悪なメクジラですが、本気でコメントしたいのは、8行目末「方や」です。もう少し長くコピペすると、「方や肋膜炎で徴兵を免れ、他方ルソン島で捕虜となった」ですが、まず「方や」は「片や」でしょう。元の「片方」からは“片方↔両方”の一対と“一方↔他方”の一対を相互に交錯させた対表現が派生するのですが、芳賀さんの用法(用方とも)は、他「方」に引きずられて「方」やになったのでしょうか。蛇足ですが、引用部で「徴兵を免れ」と受動的になっているところ、したたかに仮病で「逃」れたのかもしれません。井上光晴や高橋和巳に登場する徴兵忌避者です。
さて、こういうコメントをするのは、かつて柏にいたころ解同的差別表現論絡みで、先に使った「片手落ち」が典型的な身体差別表現だと納得していたのですが、後年田中克彦の、それは「片手」落ちでなく片「手落ち」で、必ずしも身体侮蔑語ではないという説(確か、明石の『差別語からはいる言語学入門』)を読んで「言いようのない恥ずかしさを覚え」て以来「片」の用例を徹底的に調べているからです。
「片」には「両(2)」に対する「一」と「一」に対する「半」の両義性があり、単に量的な2分ノ1を表示する場合と十全性の欠如・不足を含意する場合があります。視力検査で「片目つぶって!」と言うのと身元調査の「片親」表示の別です。「片側通行」は親切中立のお巡りさん、日教組の「片寄り」は“中立”を偽称する公安警察。片思い、片肺飛行、片言ニッポン語のチョンどもとガナる片っ端ヘイトこそ片腹いたし、……。
余談の追記。木村はネット音痴でコテンコテンの古典的「広辞苑に拠れば」派ですが、なんと「かたや」が『広辞苑』(手許のは第二版第八刷、S49で、他の版は無い)に掲出されていません。「ゲタ」も「せちょう」も「せひょう」も載っていませんね。「ゲタ」はかろうじて「ふせじ」の項の末尾に「俗に」云々とあります。これらは一般大衆の決して目にしない事象だからボツにしたのでしょうか。私のような愛用者は背標から背丁まで覗くほどまで使い込んでいるのに、これが何かわからないとは! 「げた」の語釈を〓と表示して『新解』さんは丸谷才一あたりをうならせただろうに、コージ君にとって〓は生まれずして死語(死児)になってしまったようです。いや、不滅の岩波の1000年後の『古語辞典』で復活か!?