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「畸形」のトーキョー

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誤謬(Urteil)の判断は先入見(Vorurteil)である。真理と誤謬、認識と誤認、理解と誤解は、科学の器官である思惟能力の中に一緒に住んでいる。感覚的に経験された事実の一般的表現は思想一般であって、その中には誤謬も含まれている。ところで誤謬が真理から区別される所以のものはその誤謬が自らがその表現であるところの一定の事実に対して感覚的経験が教えるよりヨリ大きい、ヨリ広い、ヨリ一般的な存在を僭称するところにある。僭越が誤謬の本質である。ガラス玉は真珠であると僭称するときはじめて贋物となる。(ディーツゲン『人間の頭脳活動の本質』 他一篇。小松攝郎訳、1952年、岩波文庫。 Joseph Dietzgen: 1828-1888)

上記は「認識論」として述べられているのであるが、このなかで「僭越」と訳された部分は、往々にして「(度外れ)」と註される。
「度外れ」な認識が誤謬である。

一方、存在論ないし行動論としても、この「度外れ誤謬の法則」は貫徹される。
たとえば、あやまちが「過ち」と表記されることからも、それは推測できるだろう。

今般目出度くも「都知事」となりおおせた男が、「東京を世界一にする」と言ったようだが、実はトーキョーは、「度外れ」であることにおいて、すでに世界一なのである。
その度外れが、ほんの数センチの積雪でたちまち麻痺する交通網をつくりあげた。
それはテクノロジーの問題では決してなくて、単純に「過密」で「膨れ上がりすぎた」結果であって、分秒の間隔で発着する複雑な鉄道網の存在自体が「度外れ」であり、はっきり言えば「畸形」なのだ。
たとえば、3、4分の遅れで馬鹿丁寧な「お詫び」を繰り返す車内アナウンスも、ラッシュ時の耳を覆うばかりの高デシベルホーム放送も、「異常」以外の何物でもない。
いずれも「実効性」ないし「実質」からはほど遠い、単なる「アリバイ」づくりの「伝承所作」(=仕事)である。

メガシティという概念からいえば、世界の断トツは3470万人が蝟集し、「一つ目の巨魁」の如き奇態な存在となりおおせた、トーキョー圏である。
その「内部」に住まっていると、あるいはそこ一極に集中した「報道」に依存していると、この「異常」を認識することは難しい。

大雪と同時に大地震に見舞われたら、また箱根や富士山の噴火がトーキョーに降灰をもたらしたとしたら、電気仕掛けで、さらにコンピュータによって辛うじて制御されている都市はひとたまりもない。

地球表面の「変動帯」の、とりわけ脆弱な地盤上に建設され、ふくれるだけふくれあがった現代都市としてのトーキョーの存在自体が「崖」であると警告したのが拙著であって、一般に「東京地形本」と誤解されているようだが、そうではない。

ここでも、対応策は「分節」である。
すなわち、戦時体制の置き土産としての「都」を廃止するのである。
ついでに「国」の下請け機関にすぎない、「道府県」も廃止する。
日本列島を市町村の連合国家とするのである。

それぞれの市町村において税を徴収し、その一部をもって「国」を運営すること。
上下水道とエネルギーと食料の需給は、それぞれの政治単位(市町村)ごとに独立したものとすること。
日本列島上の「住民」が、この島に生き延び、「再生」し得るシナリオは以上のとおりである。

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