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1920年代の精神史

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 岩波書店で『夏目漱石』全集の編集に携わった著者は、昭和十九年、高崎市の東北寄りの芝塚で平家の流れを汲む母の実家に生まれ、小学五年で上京するまで市内の東小学校に通ったというから、高崎育ちの評者にとっては、根っからの同郷人である。
 母方の秋山姓を名乗るのは、祖父の大谷蔵三が「徴兵逃れで」生家に住みながら秋山家へと養子に入り、父は父で、高崎市街から十キロほど東の八幡原で、これまた今川義元の家臣の子から数えて十二代続いた田中家に生まれ、母との縁談がにわかに起こって秋山家に婿入りした結果である。著者が会社を定年退職後、来し方を振り返って書き出したものが、いわゆる「自分史」の枠に収まりきれず、父長三郎や七歳年下の叔母ウタとその夫豊原五郎らが「生きて」いた〝一九二〇年代の精神史”にまで広がっていったのは、そもそもその辺の事情によるものらしい。
 一九二〇年代といえば、大正九年から昭和四年までの十年で、その間一九二三(大正十二)年九月一日には関東大震災が発生している。著者は『国史大辞典』はじめ各種人名辞典類やインターネットを活用して丹念に父の足跡を洗い出すうち、大震災後の混乱の中で群馬共産党事件というのが起こっていたことを初めて知るが、これは同年六月、徳田球一や堺利彦らが逮捕された第一次共産党事件の群馬版だった。四人兄弟の中一人だけ旧制藤岡中学に行かせてもらった父が、一浪して入った桐生高等工業を卒業して、粕壁(春日部)中学に赴任したのも、同年春のことである。
 父は在学中、一高から東大法学部に進んだ中学の先輩高津渡の影響で社会主義思想に目覚め、高津らと同人誌『燎原』を発行しているが、本書の表題『石や叫ばん』は、群馬共産党事件で投獄され、二十七歳の若さで病に倒れた高津が一高寮歌「ああ玉杯に花受けて」を改作した革命歌の第四番「われら青年もだすとき 石や叫ばんこの叫び…」に因んだものである。
 地震当日の集会に遅刻して逮捕は免れたものの、職を追われた父は、逮捕者の救援活動を行った後、翌年上京して社会・労働運動に身を投じ、十四年には徳田球一の秘書を務めている。一方、在京の兄から送られた雑誌等によって 「感情教育」を施された妹のウタも、昭和二年には出奔同様に上京して、工場や組合を転々としながら非合法活動に専念するが、活動の中で知り合った同志豊原五郎との結婚生活は、翌三年三月、二人で出張した小倉で全国一斉に共産党員が検挙された三・一五事件に遭遇して、四十日にも満たなかった。ウタが四年四月、三・一五に次ぐ四・一六事件で逮捕されてからは、五郎が福岡、父が市ヶ谷、ウタ
が水戸と、離ればなれの刑務所に収監され、文通を厳しく制限される中で、「命があったら又逢いましょう」と固い結束を誓い合っている。

   新婚の主義者夫婦を四十日
   捨てヽはおかじ治安維持法

 獄から獄への手紙で結ばれた三者の関係に思いがけぬ異変が訪れるのは、五年二月、父に結婚問題が浮上して、六月には保釈されていたことを、五郎がウタからの四か月ぶりの手紙で知った時である。――父の保釈は果たして「転向」と引替えだったのか――著者は執拗な疑念にとらわれるが、旧刑法下では共産党幹部にも家族の保証を条件に「責付(せきふ)出獄」という制度が適用されていたことを突き止める。
 古い風呂敷包みの中から見つかったという母の昭和二年の日記によれば、母は当時師範学校を出て駆け出しの小学校教師をしているが、一つ年下のウタと較べると、紀元節、招魂祭などの明治憲法下の学校行事になんの疑問も抱かず、読書や「活動」(映画)にわずかに息抜きを見出すほかは、学級運営や校内の人間関係に一喜一憂し、理想の結婚相手が見つからないといってこぼしてばかりいる、なんとも頼りない「皇国少女」である。ところが、昭和五年に獄中の父に宛てた十四通の「ラヴレター」の中では、「こともあろうに主義者と結ばれる」に至った経路を、ある種の雄弁をもって自ら解き明かしてくれる。
 ときに便箋十二枚にも及ぶ手紙の中で「長三郎様」と何度も呼びかける書簡体風のスタイルは、二年前に読み耽った『モンテクリスト伯』あたりに学んだものであろうか、はじめのうちこそ運動から手を引いて「立派な大和魂」に目覚めてくれと繰返し求めているが、三銭切手を三枚貼って便箋二十枚に垂(なんなん)とする父の弁証法的説得が功を奏したものか、次第に父の「理想」に寄り添うべく努めるようになってゆく。著者の知る後年の母は「額に深いしわを刻み…、いつも不機嫌だった」そうだが、若き日の母が家郷を振り捨て、後先見ずに出奔する日は、翌年三月末、ついに到来するのである。

   革命を夢見る人に焦がれゆく
   皇国少女の道に幸あれ

 (「図書新聞」2014年3月15日・第3150号/評者:井田進也・大妻女子大学名誉教授)

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