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木村信卿 その2

①の誤記の淵源は、『仙台人名大辞書』を著した菊田定郷の頭の中の「陸軍=ドイツ式」の図式であったろう。
しかし不思議なのは、宮城県図書館に架蔵された『木村家文書(木村信卿関係資料)』(電子式複写)の前文に菊田のこの文がそのまま引用され、その後には以下の文章が続くことである。

木村信卿は仙台藩出身として明治政府の官僚として、重要な地位にあり、陸軍参謀局にあって第五課長をつとめ、今の国土地理院の基礎をつくった。
しかし氏の生涯と業績は殆ど世に知られていない。それは当時の藩閥政治のなかにあって、異色の才能を発揮したため、遂に黄遵憲事件(シーボルト事件と類似)により、桂太郎等により追われ、中央から抹消された結果によるものであろう。
この資料は、海図史にうちこんでおられる斎藤敏夫氏が「参謀局地図編さんと木村信卿」の稿をまとめる際に、木村家にうけつがれたものを整理したものである。

ここで「黄遵憲事件」とされているのは、1977年に刊行された井出孫六の『明治・取材の旅』の第1章のタイトルが「黄遵憲事件覚書」(全8章237ページ中、第1章のみで75ページを領する)であったからかも知れない。この手書きの『木村家文書』に年紀はないが、表紙に捺された宮城県図書館蔵書印の下にスタンプで「S53 1593」とあるから、その受け入れは井出のその本刊行の翌1978年であった。

しかし「黄遵憲事件」なる名辞は適切ではない。
「シーボルト事件」とは異なり、清国の初の駐日公使館賛官黄遵憲は「禁」を犯して地図を手に入れたわけではない。
黄が罪に問われた事実もない。
木村信卿の遺した「口供書」が、問題の地図も既存の公刊情報を記載したのみと、陸軍裁判所(後の憲兵隊)の責めに屈せず主張する通りだからである。
黄は1877年東京に着任し、伊藤博文や榎本武揚らと交際、1882年にはサンフランシスコ総領事に任命されて離日、1885年帰国の途時に日本に立寄っている。そこには「事件」の痕跡すら存在しない(島田久美子『黄遵憲』1963年)。
桂太郎らが『東京日々新聞』等に意図的にリークした結果一般的となった「地図密売事件」は論外であるが、その称は図らずもこの「事件」がシーボルトのケースを下敷きにしたフレームアップ以外の何物でもないことを表しているのである。
木村を含め5人の犠牲者(川上冬崖ら4人が自殺)を出したこの件は、その概要があきらかとなった今日では「参謀本部内粛清事件」と呼ぶのが正しい。

ちなみに2005年に刊行された井出の『男の背中 ―転形期の思想と行動』という本には、この「黄遵憲事件覚書」がタイトルを「アトラス伝説遺文」と変えてそのまま収録された。あとがきに題を改めたと断りするものの、その理由は示していない。

さて『木村家文書』では何ゆえに大植四郎の『明治過去帳』ではなく菊田の記事が採られたのかと言えば、木村信卿の後半生の記述がきわめて対蹠的であることに拠っている、と考えられるのである。
『明治過去帳』では、入獄、閉門、官位剝奪、喉頭癌発症が羅列され、救いがないのである。
ちなみに『文書』とは言っても、中身は「一、木村大三郎宛暑中挨拶状 一通」にはじまり、「二七、川上寛海図図誌についての書状」や「三八、大嶋貞薫、高野長英等身元調査書状(明治六年)」を含み「八六、雑文書一括 一括」に終わる2段3ページの目録にすぎず、図書館は文書そのものの複写すら蔵してはいない。
しかし断簡といえども重要な近代史料である。
まして、この痕跡抹消された初期日本陸軍中枢惨劇においてをや。

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木村信卿 その1

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木村信卿は「きむらのぶあき」と読む。
上掲はその若き日の風貌。
憂いを帯びた俊秀のまなざしは、今言う「イケメン」のそれである。

以下の2つの人名辞典の記事を較べられたい。


キムラ・シンケー
木村信卿
将校。初め大三郎と称す。天籟また柳村と号す。仙台柳町通に生る。
夙に独逸学を修め、江戸に遊びて洋兵を講ず。維新後兵部省に出仕し、陸地測量官となり、陸軍歩兵少佐に任ず。
明治十四年事を以て免ぜられ、下獄二百余日にして其冤枉明白となる。
後ち復た世事に関せず、詩を賦し棋を圍み、優遊老を養ふ。
明治三十九年九月四日東京に歿す。享年六十七、東京谷中天王寺に葬る。(仙台風藻)
〔菊田定郷『仙台人名大辞書』1933年〕


木村 信卿
元陸軍歩兵少佐従六位。陸前仙台藩士にして通称大三郎。天保十一年生る。
明治の初め横浜太田町に至り高橋是清と同居、仏蘭西学を修め、五年、別役成義、渡辺義通、飯高平五郎等と陸軍省七等出仕を拝命。
六年四月飛鳥井雅古等と少佐に任じ、五月兵語辞書編纂を兼ね、六月従六位に叙し、八年頃参謀局第五課長たり。
十一年十二月散官と為る。十四年一月陸軍省蔵版の日本全国図を清国公使館に密売せしとかの嫌疑を蒙りて獄に下り、八月閉門、
十五年二月廿二日官位を褫奪せられ、丗九年喉頭癌に罹り九月廿四日歿す。
年六十七。配は伶人多摂津守忠善の女にして、長子を恵吉郎といふ(谷中墓地)
〔大植四郎『明治過去帳』1935年〕

①は木村に関するもっとも基本的な情報において誤っている。
その「独逸学」は、②の言うように「仏蘭西学」でなければならい。
何といっても木村は、幕末明治初期の「フランス学派の筆頭」(『NHK歴史ドキュメント⑧』1988年、p.55)だったからである。
そうでなければ、「朝敵」であった旧仙台藩士が明治政府の中枢に迎えられるはずがない。
旧陸軍はドイツ式であったとばかり思われているが、大村益次郎が率いたその初期からしばらくは、フランスに範をとって近代化を図っていたのである。
『NHK歴史ドキュメント⑧』の「地図は国家なり」の章においては、その前半生について次のように記されている。

木村信卿は天保11年(1840)に仙台に生まれた。蘭学、フランス学を修め、明治2年には大学南校(後の東京大学)の中得業生、翌年には大得業生から大学少助教に進んでいる。この年、川上冬崖も大得業生で、二人の交友はこのころからはじまったとみられる。明治6年(1873)、木村信卿は従六位陸軍少佐に補され、やがて参謀局の組織がために参画するようになる。
木村信卿が陸軍の中枢に進むことができたのは、彼のフランス学の造詣に負うところが大きい。当時陸軍はフランス式の兵制を採用していたため、幼いころより兵学を修め、フランス人直伝の語学を身につけた木村は、陸軍にとってかけがえのない人物だったに違いない。川上冬崖がフランス流の地図図式を導入したことにもうかがえるように、この時期、フランス学は学問の主流であり、フランス学派はその絶頂期にあった。かつてフランス兵制を採用していた幕府側から優秀な人材が新政府に流れていったのも、当然のなりゆきであったろう(pp.75-76)。

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年末年始

2022年末、身内の不幸につき年末年始のご挨拶をご遠慮申し上げます

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都立殿ヶ谷戸庭園で、2022年11月

今年は例年になくあっという間でしたが、身近に訃報が相次ぎました。
小社之潮は今月7日をもって株式会社を解散、同名の個人事業に切替わりました。
自身を顧みれば早稲田大学エクステンションセンターでの年4回の講座と、角川文化振興財団発行『武蔵野樹林』での連載、また『宙』誌への寄稿が形あるばかりです。
23年は自著も含め、いくつかの書籍を上梓できればと思っております。
皆様のご自愛とご健勝そして変わらぬご厚誼を念じ上げます。

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武蔵野地図学序説 その7

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角川文化振興財団発行『武蔵野樹林』Vol.11がこの14日にリリースされた。
拙文連載は2020年秋のVol.5からはじまって、2年かけて第7回目(その7)である。
上掲はその全5ページのうちはじめの2ページ。

今回は地図注記地名「殿ヶ谷戸」をめぐる章で、「その8」につづく。
叙述の眼目は、地点地名と領域地名ないし地点地図と領域地図の弁別に関連してである。
これが何を意味するかについては、直接本文をお読みいただきたい。
なお前回のブログで予告した「新年の会」は、「その7」と「その8」の内容に沿って話する予定である。

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年始の会

芳賀ひらく 自主講座レクチャー《「殿ヶ谷戸」を探して》

日時:2023年1月2日 午後2時~3時半
場所:国分寺駅南口「カフェ6」(都立殿ヶ谷戸庭園向い)
受講料:1500円(飲食費を含まず)

*少人数限定です。
*受講者には新旧の地形図を配布し、色鉛筆で作業もしていただきます。
*天候等にもよりますが、国分寺駅周辺の巡見も予定しています。
申込は、info@collegio.jpまで。

127年前の訳を見る前に、戦前の訳文を3例紹介しておこう。
まず野尻清彦訳『寶島』(世界大衆文學全集第18巻、1928年)だが、この野尻さんは筆名の大佛次郎のほうが知られていて、また星に関する著作で知られる野尻抱影はその兄、つまり清彦は本名である。その訳は以下の通り。

死人(しびと)の箱の上に十五人ー
よいとまけほ、ラムも一本よ!
酒と悪魔が残りはやっつけたー
よいとまけほ、ラムも一本よ!

地業歌「よいとまけ」に「ほ」を付けたのは、原文「ho-」への考慮かも知れないが、滑稽味が先に立ってしまう。
次は英文学者の平田禿木訳『寶島探検物語』(日本児童文庫74、1930年)、

僅か十五人が死人島へ残った、
 や、こらさ、こらさ、それにラム酒がたった一本。
あとは皆、酒と悪魔にしてやられ、
 や、こらさ、こらさ、それにラム酒がたった一本。

こちらは「やっこらさ」の掛け声をもってき、そこだけが辛うじて「歌」の痕跡を示す。
3番手、こちらも英文学者勝田孝興訳注『寶島』(譯註英文名著全集、第1輯第6巻。1930年)は

僅か十五人「死人箱」に残るー
ヨイコラサノサ、それとラム酒一本よツ!
酒と悪魔が他(ほか)の奴あ殺したー
ヨイコラサノサ、それとラム酒一本よツ!

三例いずれも意訳というより説明訳に近い。

第十章に描かれているように、実はこの歌は出航抜錨の作業歌であって、風力のほかは人力しかなかった時代、大勢の船員が揚錨機(キャプスタン)の梃子に取り付き、最後のho-のところでそれを一斉に押すのである。
つまりアクセントは最後の「ホー」におかれるから、訳においてもその部分は分節独立していなければならない。

以上を念頭に置いた上で、さて1895年1月、『文藝倶樂部』に掲載された宮井安吉訳「新作たから島」である。
タイトルが「新作」を冠しているのは、スティーブンスンの『宝島』が書籍となって一躍彼の文名を高からしめたのは僅か12年前、伝達時間の緩やかであった当時としては「新作」にほかならないからで、また「鬼ヶ島」をはじめとして日本の昔話に「たから島」はおなじみの設定だったからと考えられる。
そして、作者R・L・スティーブンスンが南太平洋サモアの地において44歳で亡くなったのは、その前年1894年12月3日。
訳業はまだ作者存命、ないしその訃報を得たばかりのことだったのだ。なお訳者の宮井安吉は斎藤秀三郎に次ぐ独自の英文法の研究者という評価があるようで、こちらも歴とした英文学者である。その訳文は

死人(しにん)の紙箱(つヽら)の其上(そのうへ)に、
人数(にんず)合(あは)せて十五人(じうごにん)、
ヨホヽ糖酒(ラム)も一本(いつぽん)
爰(こヽ)にある。

のように、見事な七五調である。「紙箱(つヽら)」は通常「葛籠(つづら)」、つまりツヅラフジで編んだ比較的大きな衣装入れのことで、たしかに機能としてはchestに相当する。船員用のそれは通常金具留の木製だと思うが、わざわざ「紙箱」とした理由はよくわからない。
つづらは舌切り雀の昔話でおなじみだが、今の若い人には通じないだろう。しかし当時としては適訳と思われる。
ただし「ヨホヽ」では七五調にならず、アクセントもない。しかも2連目はまったく省略されている。
もっとも冒頭の訳者名に「卯の花菴主人抄譯」と書き、原文が全34章なのにこちらは30章、1章の歌の2連目省略、23章は章ごとスキップされている。
最初期の作品紹介としては抄訳でもよかったのかも知れないが、後世への影響もあることだし、ここは2連目も続けてもらいたかった。例えば

飲んで悪魔の思うつぼ
残りの奴らはあの世行き
ヨーホ、ホー、糖酒(ラム)が一本
ほれ爰(こヽ)に

といった具合。これを生かして手直しすれば

死人の箱のその上は、人数かぞえりゃ十五人
ヨーホ、ホー!、ラム酒一本もう一本
飲んで悪魔の思うつぼ、残りの奴らは
あの世行き
ヨーホ、ホー!、ラム酒一本もう一本

Fifteen men- ではじまる原文の、海賊らしく叩きつけるようなリズムにはとても及ばないが、七五調四拍子は確保できた。
キャプスタンの梃子を押す、最後の「ホー」も分節できた。

歌の命はリズムである。俳句や短歌は言うに及ばず、命ある詩の根源に脈打つのは音のリズムである。
海賊歌翻訳における画竜点睛は、その工夫にあるのではなかろうか。

Fifteen men on the dead man’s chest–
Yo-ho-ho-, and a bottle of rum!
Drink and the devil had done for the rest–
Yo-ho-ho-, and a bottle of rum!

児童文学というより世界文学の古典で、近年「古典新訳文庫」の1冊にもなったスティヴンスン『宝島』の翻訳は汗牛充棟数知れずだが、第1章と23章に登場する上掲の「海賊の歌」に限ってみれば、まともな日本語として訳されたためしはないのではなかろうか。

韻文の訳は確かに難しい。
意味が通ればそれでよしとするわけにはいかないからである。

阿部知二訳岩波文庫版『宝島』(1963年初刷、1978年12刷)では、以下の通りである。

亡者の箱まで、這いのぼったる十五人—
 一杯飲もうぞ、ヨー・ホー・ホー!
あとの残りは、悪魔に食われたよ
 一杯飲もうぞ、ヨー・ホー・ホー!

原文の Yo-ho-ho- がそのまま生かされているのは好ましいが、原文の4拍子でズンズンと叩きつけるリズムはまるで消えているのである。
佐々木直次郎・稲沢秀夫訳新潮文庫版『宝島』(1951年発行、1997年改版)は

死人の箱にゃあ十五人—
 よいこらさあ、それからラムが一壜と!
残りのやつは酒と悪魔がかたづけた—
 よいこらさあ、それからラムが一壜と!

Yo-ho-ho-を「よいこらさあ」としたのは確かに工夫だが、日本昔話の滑稽味を伴ってしまい、また全体のリズムは考慮の外。
金原瑞人訳偕成社文庫版『宝島』(1994年初刷、2018年35刷)は

死人の箱に十五人—とくらあ
ほーれ、それからラム酒が一本よう!
残りを殺ったな、酒と悪魔だ—
ほーれ、それからラム酒が一本よう!

これもまったくリズム無視、雰囲気を出すための無理やり言葉が邪魔で、いずれも失格。
海保眞男訳岩波少年文庫版『宝島』(2000年1刷、2015年14刷)は

死人(しびと)の箱には十五人
ラム酒をひとびん、ヨーホーホー
酒と悪魔が残りの奴らを片づけた
ラム酒をひとびん、ヨーホーホー

としていて、1連目は「箱には」の「は」と「ラム酒を」の「を」が字余りの無意識七五調で、Yo-ho-ho-も生かされている。
しかし2連1行目はリズムが放棄され意味の流し訳である。
ちなみに講談社が創業50周年記念として1959年から62年にかけて世に送った全50巻の『少年少女世界文学全集』の7、イギリス編第4巻(1962年)に収録されている阿部知二訳の「宝島」では、

亡者のはこまで、やってきたのは十五人ー
 いっぱいのもうぜ、ヨ・ホ・ホ!
あとののこりは、あくまに食われたよー
 いっぱいのもうぜ、ヨ・ホ・ホ!

だから、岩波文庫に収録するにあたっては ‘on’ を気にして、1行目後半を「やってきたのは」から「這いのぼったる」と訂正したのである。
訳はどうしても解釈や意味が優先され、歌のリズムまでは頭がまわらないらしい。
ことのついでに紹介すると、講談社の児童文学全集企画には先蹤があって、大阪は創元社が1954年から56年の間に刊行した「世界少年少女文学全集」(第1部50巻、第2部18巻)であるが、その第5巻イギリス編3(1953年)に西村孝次訳『宝島』が収録されている。そこでは

死人の箱にゃあ、十五人ー
 よいこらさあ、おまけにラム酒が一びんよ!
酒と悪魔が、残りのやつをやっつけたー
 よいこらさあ、おまけにラム酒が一びんよ!

である。1950年代は Yo-ho-ho- を「よいこらさあ」として怪しまなかったようだ。

Fifteen men on the dead man’s chest–
Yo-ho-ho-, and a bottle of rum!
Drink and the devil had done for the rest–
Yo-ho-ho-, and a bottle of rum!

原文を舌頭二三十転もしてみれば、1行が「強弱/強弱/強弱/強」で、英詩のリズムは「強弱4歩(ぶ)格」と判るだろう。
つまりYo-ho-ho-の部分は、片仮名にするなら「ヨーホ、ホー」でなければならないのである。
その点、村上博基訳新訳古典文庫『宝島』(2008年初版、2019年3刷)は

死人箱島に流れ着いたは十五人
ヨー、ホッ、ホー、酒はラムがただ一本
あとは皆 酒に飲まれ悪魔に食われ
ヨー、ホッ、ホー、酒はラムがただ一本

としているから、ことYo-ho-ho-に関してのみだが比較的マシな訳と言えるかもしれない。

しかしこの海賊歌を日本語にするには、全体を五七ないし七五調のリズムに乗せて然るべき、と敢えて主張したい。
そうなると初期の訳ではどうしていたか知りたくなる。
そこで1895年の宮井安吉訳「新作たから島」(雑誌記事復刻集「明治翻訳文学全集」第7巻 スティーブンソン集)を瞥見してみたい。

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google mapの穴 西大輪砂丘

現代人はスマホ依存と言ってもいい状態に落ち込んでいる。
電車に乗ってもバスの座席に座っていても、大概は窓外よりも手許の液晶画面に目をやり、あるいはせわしなく指を動かしている。
歩く時さえ前を見ない「スマホ歩き」や「ひとり喋り歩き」の手合いは少なくない。
それなしでは済まされない状態は、依存症というより中毒症に似る。
しかしながらこと空間や場所に関して、無頓着にスマホ情報に頼りきっていると「素寒貧」の穴に嵌る。

画面に何の記載もなければそこには何もないと思わされてしまうわけだが、基本地図以外はおもに利用者などがデータをアップすることによって成り立っているから、利用者が気付かないもの、あるいは利用者自体が少ないエリアは、それを見ている者にとって重要なことも”穴あき状態”になっているのである。

逆に言えば、郊外地などで皆が車で通り過ぎてしまうようなところでは、実際に地面を歩いてみること、そして画面ではなく実景に注意を凝らすと、デジタル情報ヌケが発見できるのである。
最近必要があって出かけ、スマホすなわちグーグルマップで目的地を検索せず、地形図を拡大したコピーをもって至近駅ではない駅から長歩きしたために、逆に思わぬ収穫を得た。これはひとつの経験であった。

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上のgoogle mapは埼玉県久喜市の宇都宮線東鷲宮駅北北西の一画だが、左手南北に通じる自動車道路の左右には広い空き地で何もないと思わされる。
スマホ画面をいくら拡大しても、これ以上の情報は得られない。

実際、建物は少ないのだが、周囲に目をやりながら歩いていると道路の向こう側に気になる木造建築が目に入った。
目的地までまだかなり歩かなければならないため躊躇したものの、車の走行が途切れた際道を横断し、それを見に行った。
思わぬ収穫とはそこにあった下の解説板である。

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「埼玉県指定天然記念物 西大輪砂丘」。
本来は長さ1キロ半に及ぶ、内陸性の大砂丘である。

この解説板は砂丘の頂点付近の神社前に建てられているが、google mapでは前述のようにいくら拡大してもは神社名はおろか天然記念物のキの字も出てこない。スマホ画面は「ここには何もない」というメッセージを発していて、道路の東側に「東大輪神社」名がみえるのとは対照的である。
ただし検索で説明板のある神社の名「西大輪神社」と入力すれば、その地点は示す。
しかし「砂丘」についてはノーコメントである。
以下の写真は砂丘説明板とその奥の西大輪神社だが、社殿が砂丘の高みに設営されたことがよくわかるだろう。

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社殿は、上のgoogle mapでは左下、「さんげつ ラーメン・安価」の「ラー」にかかる四角の図形で表わされているだけである。
スマホ地図には穴があると思うべし。
これが教訓である。

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東京の微地形 東大島その3

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上掲は2万分1迅速図の原図のうち、「東京府武蔵国本所区深川区及南葛飾郡亀戸村近傍村落」「東京府武蔵国南葛飾郡西小松川村近傍村落」「東京府下武蔵国葛飾郡東西宇喜多両村並傍近村落図」の各一部を接合したもので、作成年代はいずれも1880年(明治13)である。
二つの赤いピンを立てたが、上のピンは現在の東大島駅小松川口で、下のピンは後に「小松川閘門」の前扉が建設された所である。
荒川放水路完成の半世紀前の様相だが、河川の状況はその完成までこの図と基本的に変わらない。

したがって、説明板の文章の「ここは、その船の通り道である荒川と旧中川の合流地点でしたが」は大きな間違いで、「ここは、その船の通り道である小名木川と新川および中川の合流地点でしたが」としなければならなかったのである。ちなみに「新川」とは上図の左から来る小名木川からつづき、右下斜め船堀村から塩田のあった行徳に向かう水路である。
「荒川と旧中川」という関係ができあがったのは、荒川放水路完成以後の話である。
念のため、放水路完成直後の同一箇所の図を以下に掲げる。
1万分1地形図「深川」(1930・昭5年)「小松川」(1937・昭12)の各一部を接合したものである。

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下掲2万5千分の1地形図「東京首部」(2015・平17年)の一部と比較してみれば、位置関係はさらに明瞭となるだろう。

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説明板の文章は、施設の管理者ないし歴史的経緯の説明者といえども脳内認知の現空間隷属状態そのままに、誤謬を公開した典型である。
「常に現在」が支配するデジタル情報空間にあっては、このような例は多発するように思われる。

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東京の微地形 東大島その2

「島」部分の市街地開発以前の様相は、以下の1万分1地形図(1958年「深川」、1960年「小松川」の各一部を接合)で見ることができる。

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図で明らかなように、このエリアには多くの化学系の工場が隣接して立地していたのである。
それはもちろん旧中川と1930年に竣工した荒川放水路にはさまれていて、原料と製品の移動(船運)および製造工程で発生する廃液の処理にうってつけの場所だったからにほかならない。

その跡地再開発にあたっては、汚染土への対応が最大の問題であったろう。
とりわけ工場内作業者の「鼻中隔穿孔」被害で知られる「六価クロム」による汚染は記憶に新しい。
マイナス地帯が最大で標高13メートルにもおよぶ盛土地帯となったのは土地の負の側面をプラスに転じた結果とも言えるが、汚染物質が雨水に溶けて漏れ出すのを完全に防ぐ手立てはないのである。

図の南部、「日本化工工場」の跡地は最大の土盛りがなされて「風の広場」と名付けられたが、その中ほどに荒川放水路と同時に竣工した「旧小松川閘門」の後扉の上部が突き出すように保存されている。

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この閘門(ロックゲート)が造営されたのは、船による水運がなお盛んであった当時、感潮域の荒川放水路と閉鎖的水域となった旧中川以下の水位調整の必要があったためだが、問題はそこに括りつけられたの説明板の説明文である。

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「旧小松川閘門 この建物は、その昔、小松川閘門と呼ばれていました。閘門とは水位の異なる二つの水面を調節して船を通行させる特殊な水門のことです。川は、現在のように車などの交通機関が普及するまでは、大量の物資(塩、米、醤油など)を効率よく運べる船の通り道として頻繁に利用されました。ここは、その船の通り道である荒川と旧中川の合流地点でしたが、たび重なる水害を防ぐために明治44年、荒川の改修工事が進められ、その結果水位差が生じて船の通行に大きな障害となりました。この水位差を解消するために昭和⊡年、小松川閘門が完成し、その後、車などの交通機関が発達して、船の需要が減少し閉鎖に至るまでの間、重要な役割を果たしました。本来、この閘門は、二つの扉の開閉によって機能を果たしていましたが、この建物はそのうちの一つで、もう一つの扉は現在ありません。また、この建物も全体の約2/3程度が土の中に埋まっていて昔の面影がないのですが、今後、この残された部分を大切に保存して周辺地域の移り変わりを伝えるのに役立てる予定です。 国土交通省 東京都」

文のなかほど「昭和⊡年」の「⊡」は文字抹消箇所だが、うっすらと「2」の数字が見える。荒川放水路の完成と同じ「5」とすべき誤植である。誤植以上に問題というより大きな間違いはそれ以前にあるのだが、どこかお判りだろうか。

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