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東京の微地形 東大島その3

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上掲は2万分1迅速図の原図のうち、「東京府武蔵国本所区深川区及南葛飾郡亀戸村近傍村落」「東京府武蔵国南葛飾郡西小松川村近傍村落」「東京府下武蔵国葛飾郡東西宇喜多両村並傍近村落図」の各一部を接合したもので、作成年代はいずれも1880年(明治13)である。
二つの赤いピンを立てたが、上のピンは現在の東大島駅小松川口で、下のピンは後に「小松川閘門」の前扉が建設された所である。
荒川放水路完成の半世紀前の様相だが、河川の状況はその完成までこの図と基本的に変わらない。

したがって、説明板の文章の「ここは、その船の通り道である荒川と旧中川の合流地点でしたが」は大きな間違いで、「ここは、その船の通り道である小名木川と新川および中川の合流地点でしたが」としなければならなかったのである。ちなみに「新川」とは上図の左から来る小名木川からつづき、右下斜め船堀村から塩田のあった行徳に向かう水路である。
「荒川と旧中川」という関係ができあがったのは、荒川放水路完成以後の話である。
念のため、放水路完成直後の同一箇所の図を以下に掲げる。
1万分1地形図「深川」(1930・昭5年)「小松川」(1937・昭12)の各一部を接合したものである。

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下掲2万5千分の1地形図「東京首部」(2015・平17年)の一部と比較してみれば、位置関係はさらに明瞭となるだろう。

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説明板の文章は、施設の管理者ないし歴史的経緯の説明者といえども脳内認知の現空間隷属状態そのままに、誤謬を公開した典型である。
「常に現在」が支配するデジタル情報空間にあっては、このような例は多発するように思われる。

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