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東京の微地形 東大島その2

「島」部分の市街地開発以前の様相は、以下の1万分1地形図(1958年「深川」、1960年「小松川」の各一部を接合)で見ることができる。

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図で明らかなように、このエリアには多くの化学系の工場が隣接して立地していたのである。
それはもちろん旧中川と1930年に竣工した荒川放水路にはさまれていて、原料と製品の移動(船運)および製造工程で発生する廃液の処理にうってつけの場所だったからにほかならない。

その跡地再開発にあたっては、汚染土への対応が最大の問題であったろう。
とりわけ工場内作業者の「鼻中隔穿孔」被害で知られる「六価クロム」による汚染は記憶に新しい。
マイナス地帯が最大で標高13メートルにもおよぶ盛土地帯となったのは土地の負の側面をプラスに転じた結果とも言えるが、汚染物質が雨水に溶けて漏れ出すのを完全に防ぐ手立てはないのである。

図の南部、「日本化工工場」の跡地は最大の土盛りがなされて「風の広場」と名付けられたが、その中ほどに荒川放水路と同時に竣工した「旧小松川閘門」の後扉の上部が突き出すように保存されている。

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この閘門(ロックゲート)が造営されたのは、船による水運がなお盛んであった当時、感潮域の荒川放水路と閉鎖的水域となった旧中川以下の水位調整の必要があったためだが、問題はそこに括りつけられたの説明板の説明文である。

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「旧小松川閘門 この建物は、その昔、小松川閘門と呼ばれていました。閘門とは水位の異なる二つの水面を調節して船を通行させる特殊な水門のことです。川は、現在のように車などの交通機関が普及するまでは、大量の物資(塩、米、醤油など)を効率よく運べる船の通り道として頻繁に利用されました。ここは、その船の通り道である荒川と旧中川の合流地点でしたが、たび重なる水害を防ぐために明治44年、荒川の改修工事が進められ、その結果水位差が生じて船の通行に大きな障害となりました。この水位差を解消するために昭和⊡年、小松川閘門が完成し、その後、車などの交通機関が発達して、船の需要が減少し閉鎖に至るまでの間、重要な役割を果たしました。本来、この閘門は、二つの扉の開閉によって機能を果たしていましたが、この建物はそのうちの一つで、もう一つの扉は現在ありません。また、この建物も全体の約2/3程度が土の中に埋まっていて昔の面影がないのですが、今後、この残された部分を大切に保存して周辺地域の移り変わりを伝えるのに役立てる予定です。 国土交通省 東京都」

文のなかほど「昭和⊡年」の「⊡」は文字抹消箇所だが、うっすらと「2」の数字が見える。荒川放水路の完成と同じ「5」とすべき誤植である。誤植以上に問題というより大きな間違いはそれ以前にあるのだが、どこかお判りだろうか。

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