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短詩・川内村

みちのくの楢葉(ならは)郡(こほり)の木戸川の谷間の村に人の影絶ゆ

見えぬもの降(ふ)り来(く)全村離脱とす

この道やいつまたたどる赤い月

山里は水あまかりきニガヨモギ*

生きてまた目(ま)みゆることの青蛙**

山寺や草萌え墓を埋めんとす***

山里や文庫の池の赤い月****

山里や辛夷(こぶし)蕾のままにして

山里に人の影絶ゆ水の音

消ゆるものバビロン電飾村は人

村ひとつ地獄の上の花見かな*****

*ニガヨモギ伝説は、エデン追放の蛇、ヨハネの黙示録の隕石、ウクライナの黒い草、北欧神話の死の草など。
**日本固有種にして天然記念物のモリアオガエルは平伏沼(へぶすぬま)に棲息、雨季に樹上産卵する。
***洞秀山泰亨院長福寺には、画家・詩人の辻一(つじまこと)や、詩人の会田綱雄の墓がある。
****草野心平の蔵書寄贈を契機につくられた「天山文庫」には、「十三夜の池」がある。
*****世の中は地獄の上の花見かな(小林一茶「七番日記」)

「真理がわれらを自由にする」
という11文字が、国立国会図書館東京本館の目録カウンターの上の壁石の左上に刻まれている
日本国憲法制定時の憲法担当国務大臣でもあった初代館長金森徳次郎の筆跡。
その右下には、離れているもののこれに対応するギリシャ語
「Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ」
(ヘー アレーテイア エレウテローセイ ヒュマース、
またはイ アリシア エレフセロシィ イマス)も刻印されている。
参議院議員もつとめた歴史学者羽仁五郎が、ドイツ留学中に見た大学の銘文に由来するものという。

これはヨハネによる福音書第8章第32節の「そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(新共同訳)に対応する。
このイエスの言葉に対して、ユダヤ人たちは、自分たちが「人の奴隷になったことなどは一度もない」と反発する。
イエスの答えは、例によって「すべて罪を犯す者は罪の奴隷である」と、心理の機微を突く。

しかし、自分のおかれている現状をリアルに認識できない者は、ある種の情報の奴隷である。
いま、私たちがもっとも不安におもっていることのひとつは、東電の原発事故の帰趨である。
「福島」の原発事故とは言いたくない。
東京というバビロンの繁栄のために、そのほぼ東半分の「土」を放射能汚染されつつあり、「念のため避難」の結果、難民となって放射能汚染差別を受けつつある人々のふるさとの名は、あえて使わない。
これは「東京」電力がひきおこした、原子炉6基・使用済核燃料プール6槽を、同時に制御も冷却もできないという、人類史上空前の規模の原発事故である。
国際原子力事象評価尺度(INES)の暫定評価を、米国スリーマイル島原発事故と同等の「レベル5」(広範囲な影響を伴う事故)に引きあげる(原子力保安院、18日)、などという程度の話ではない。
「専門家」にとっても、それは「未知の領域」に突入している。
空前の「実験」といえば「実験」であって、世界が注目しているのはそのためである。

そしていま、繰り返されるのは、「ただちに健康に影響をあたえるものではない」という呪文。
原発事故の放射能汚染とは、いったいどのようなことなのかを明らかにせずに、まず大丈夫という「治者」の立場。
その治者の視線から、私たちは自由ではない。わたしたちはすでに奴隷である。

たとえば「福島市の水道水からセシウム134、137とヨウ素131検出、国の基準はクリアし健康に問題はなし」(16日8時採取水)というような情報が流れている。
セシウム134、137とヨウ素131が検出された、ということがなにを意味するのかについて、治者は触れない。明らかにしない。
しかし一方で、放射性物質が「浄水場で除去可能」という、メディア各紙が盛んに見出しに使っている言葉も、「当局」は使用しない。
よくよく見れば「かなりの部分を除去できる」という「安心安全言いまわし」を使っているだけなのだ。
「過剰な心配をする必要はない」という「結論ありき」は、人々から仕事を託されている「公務員」ではなくて、江戸時代とさして変わらない「治者」の視線がもらすことばである。
「こちらはしっかりやっているから、余計な心配はしなくていい」というわけだ。
基本的な「説明」の労を厭(いと)われ、またその要なしとされ、、データを小出しにされて、人々は不満と不安をかかえながらも、漠然と安心せざるをえない。

実は、放射能汚染時の水の安全性に対する日本国の基準というものは存在せず、WHOのガイドラインがあるだけだ。
水中で繰り返された測定値が、α線放射能で1リットルあたり0.5ベクレル以下で、かつβ線放射能で同1ベクレル以下である場合、生涯にわたってその水を飲みつづけても問題はない、というガイドライン。
ただし、これは緊急時には適用されない(それがなぜなのかは、手元に資料がないので言及不可である)。
「緊急時」には、原子力安全委員会の、「水1リットルあたり放射性ヨウ素が300ベクレル、セシウムが200ベクレルを上回った場合は飲用しない」という指標だという。
福島市の水道水の測定値は、放射性ヨウ素177ベクレル、セシウム58ベクレルまで上昇したが、その後低下したと。
そうしていま、必要なのは、被災地の水道というもっとも基本的なライフラインの復旧であると。
それは正しい。
多少汚染されても、いま、をしのぐための水は要る。
問題は、汚染がこれからどうなるかだ。
日本列島上広範囲なエリアが深刻な放射能汚染にさらされる可能性は、いま、誰も否定できない。
そうなったときに、そして長期的な汚染がつづいたときに、ひとりひとりがどうすべきか、いま何を学び、何を準備しなければならないか、という情報が要る。

しかし、「必要」と「緊急」がまかり通って、実は私たち自身が奴隷に身を落しつつある事態には目が向けられない。
たとえば、八王子市立図書館。
「電力需要ひっ迫に伴う臨時休館について
東北関東大震災に伴い電力が著しく不足する状況に陥っています。
この電力不足に対応し、被災地の一日でも早い復旧を支援するため、八王子市全図書館を臨時休館いたします。また、それに伴い図書館ホームページの全ての機能が利用できなくなります。
市民の皆様には大変ご不便をおかけしますが、ご理解ご協力をお願い申し上げます」という。
これは、図書館の自殺である。
戦時下の再来である。
公共図書館「休館」を決めたのは誰か?
インターネットに流れる、羊たちのクズのような書込みに対して疑問をもち、ひとつひとつ調べ、われとわが身を守る方法を模索する場のひとつとして図書館の使命はある。
奴隷の情報に対して、情報の奴隷とならないための砦のひとつは図書館である。

「真理」はわれらを自由にする以上に、それはわれらを生き延びさせ、「われらの明日」ために、いま、必要なのである。

「すぐに健康に影響があるというわけではないので、冷静に行動してください」
「それは今、データがありません」「確認中です」
そして
「これまでに確認された、死者と行方不明者を合わせた数は・・・・・」

政府、NHKをはじめとして、マスコミを通じて、今膨大にまき散らされている「リフレイン」。
持ち出されるのは、「事実」と「データ」の断片、ないしは「ゼロ」記号。
その背後にあるのは、「配慮」と「隠蔽」でなければ欺瞞である。
欠落しているのは、「意味」と「本質」である。
「大本営発表」というのはそういうものであった。
そして今、NHKを筆頭とした日本のマス・ジャーナリズムにおいて、同じことがまざまざと再現されている。
死者と行方不明者の数を合わせれば、数万人から何十万人という数に近づくことは間違いない。
推定すべきである。
そして、その推定は「事実」に、より近いはずだ。
対処は、行動は、事実にもとづいておこなわなければならない。

私たちは、生きて行くうえで、「今」を「これから」に照らして判断しなければならない。
この先、何があり得るのか。
情報をあつめ、総合し、最善の場合、最悪の場合、いずれも視野に入れて、ひとつの行動を選択する。

今回、政府・県の「30キロ圏内屋内退避」指示に反して、福島県双葉郡川内村のとった「全村離脱」の行動は正しいとはすでに述べた。
避難先は川内からさらに30キロほど西の郡山市。
ただし、これもアメリカ政府が自国民避難指示した「50マイル」(80キロ)圏外にはほど遠い。
「80キロ圏」とは、東西に長い福島県の東半分がすっぽりと収まって、なお隣接する宮城県と茨城県の一部を含むエリアになる。
避難してなお、再避難の可能性に追い込まれている苦しさは察して余りある。

しかし、川内村の「独自行動」の意味は、実はきわめて大きい。
地震や津波被害を直接には受けなかったこともあるが、すくなくとも「自分の頭で考え」、「全村離脱」という「極限の行動」を、「国」や「県」に逆らって、「実行に移す」ことのできる、村の「首脳」部がいたのである。

福島原発事故に関する政府発表を見聴きしていて、誰もが思うのは「本当に大丈夫なのか」という疑問である。
さらに、その発表を「解説」するだけで、ほとんどそのまま垂れ流しているマス・ジャーナリズムの口説にも、疑問をもつ人は多いだろう。

情報源とそれに対する判断を、ほとんど「東電」に依拠し、その広報しかできない、保安院と官房長官。
独自のデータをもたず、したがって独自の対応策も採れない日本政府。
そこには、官僚と企業が一体となって推進してきた原発行政が大きく影を落としている。
そうして、情報のほとんどを政府とエスタブリッシュメント(簡単に言えばご用学者)に依拠しているマス・ジャーナリズム。
そこには、「分節された脳」がないのである。

ただただ「一縷の可能性」という希望にすがり、それに「全力をあげる」ことで面子を保ち、パニックを防ごうとしている政府。
原子炉の構造が違うから、せいぜいスリーマイル島とチェルノブイリ事故の中間などといっていたが、これは規模の全くことなる、人類史上未曽有の「同時多発進行中」原発事故。
9・11よりも意味の重いものとして、歴史に記憶される「3・11」となる可能性が大きい。

いま、人々がもっとも知りたいのは、「最悪の場合どうなるのか」ということ。
それは、直接の放射能被害というよりは、そのことによって、何が起きるのか、ということ。
そのためにはどうしたらよいかということ。
放射能被害を避けるための、防災グッズなどといった報道は愚の骨頂、気休めにすぎない。

国と県、保安院、東電、マスコミの一体化、丸抱え丸投げ構造こそ、ことの根源にあった。
もっと言えば、電気や水といった、生命の根幹を握るものを、巨大なシステムに委ねてしまった現代社会のありかたそのものがある。

私たちは、人生の過半を生きてきた、そして見てきた。
これから、日本語の文化のうえで、日本列島で生きていこうとする若い人々に、理解していただきたい。
分節こそ宝である。
国、県、ではなくて、村、町、市が、分節したそれぞれの判断力と決断力で生きのびること。
どこかの国のような、中央一極支配、集中管理とそれへの依存は愚である。
水も、電気も同様。、戸別単位のシステムが模索されなければならない。
すくなくとも、社会は、文化は、そうして生きのびることができる。
その社会的基盤の上に、国やマス・ジャーナリズムは成立すべきである。
そうすれば、わたしたちの「文化」は、一挙に消滅はしない。
日本列島上、「分節」への動きは、すでに避けられないものとなっている。

東京は疎開を余儀なくされるかもしれない。
膨大な難民が発生するかもしれない。
そのときは、もちろん東京における首都機能は途絶える。
政府も日本国の象徴も移転する。
その帰趨は「水」が決する。

つまりそれは、首都圏水源の放射能汚染が避けられなくなった時だ。
もちろん「その日」「その日」の風向きに大きく影響されるが、可能性として少ないものではない。
未曾有の事態に陥る可能性については、それが数パーセントでもあれば、全面的にそれに対処しなければならないのは、危機管理の常識である。
この場合、可能性は数パーセントではないのである。

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川内村の独自行動

「過疎の村・川内村が全村でとった行動 」と題して、
作家・作曲家の鐸木能光(たくき・よしみつ)氏が朝日新聞のサイト論座Aronzaに書いています。
国と県の、「現地」切り捨て、とくに「屋内退避」の欺瞞性を明らかにしています。
川内村の村長は、独自の判断で、全村離脱を呼びかけ、敢行しました。
国と県の指示に反するこの行動を、私は正しいものと判断し、支持します。

次のURLで鐸木さんの文章を、是非お読みください。
http://astand.asahi.com/magazine/wrnational/special/2011031600017.html

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廃村、廃町、廃市

福島第一原発、第二原発20キロ圏内の川内村は、地震被害もほとんどなく、水も電気もあった。
しかし、この事態で、村長は防災無線を通じ、逃げられる人は逃げて、と呼びかけたと、村を脱出してきた人からのメール。
この村長の判断は正しい。
生きのびた人が、いつの日か再建をとも。

廃村、廃町、廃市の可能性のあるエリアがじわじわと広がっていく。

日本の報道はすでに戦時下、東電大本営発表の図式。
「確認できない」を連発するか、確認した細部データを言うのみ。
それが「何を意味するか」に触れない。
海外メディアのほうがよほど事態の本質を報道している。

フランス政府はすでにエールフランスに臨時便を要請。
首都圏から、外国人の日本脱出がはじまっている。
日本人でも、金と情報を持っている者は、その動きを開始した、とは、カード会社に勤める人の情報。

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かなしい春

東京都の府中市清水が丘3に「かなしい坂」があり、府中市の標識が建てられている。
府中市観光協会の説明は、「この坂の名の由来は、江戸時代の玉川上水の工事にかかわりがあると言われています。/玉川上水は、はじめ府中の八幡下から掘り起こし、多磨霊園駅付近を経て調布の神代辺りまで掘削して導水していました。/しかし水はこの坂あたりで地中に浸透してしまい、工事は失敗に終わってしまったとされています。/この工事の責任を問われて処刑された役人たちが、「かなしい」と嘆いたことからこの名がついたといわれています。/このときの堀は、今でも「むだ掘り」「空堀」「新堀」の名で残っています」という。
この上水工事の起点は、国分寺市の国分寺崖線下「池の坂」である、という話もある。

国内外のきわめて厳しい視線を浴びている、東京電力福島原子力発電所の、あの無様。
現状は、とても「想定外の自然災害」と言っていられる話ではない。
まったくの人災である。

近世であれば、会長・社長以下責任者並べて獄門・梟首(きょうしゅ・さらし首)は免れない。
つまり、とうてい「士」とは認められない。
巨大な、ある意味で世界中のヒト、そして生きものの「命」を担保にした仕事であるという自覚がないのだ。
ただの「会社員」意識しかないのだから、切腹は許されない。
また、東電は、当然「とりつぶし」となる。
まして「計画停電」とやらの二転三転の挙句、通告なしの急停電をして社会を大混乱に陥らせている現状を鑑みれば、なおさらである。
事故の記者会見に一度も姿をみせず、これからも「広報担当」と政府および「保安院」に投げっぱなしにするとすれば、会長と社長は歴史に卑怯者の名を残すだろう。

そうして自然は容赦なく、一月もしないうちに春となる。
「世の中は 地獄の上の 花見かな」(一茶)

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トーキョー・シロアリ

とりあえず、弟夫婦は無事だった。
以下、そのブログの転載。
「電気が来ました。
みなさん御心配おかけしました。
川向こうまで水が来ており、あの、数百人の遺体があるけど回収できない地域です。
なのにかろうじて川のこちら側は助かったようなものです。
沢山のひとが家を失って、本当に心苦しいです。
我が家では長男が、気仙沼の小学校の教員で、まだ、連絡が取れません。
女房がしばしば泣いていますが「あいつのことだから、大丈夫」、と励ましている所です。
食べ物とガソリンが不足し、空いてる店には長蛇の列、我が家では買い物は控え、極力あるもので対応しているところです。
とにかく不幸中の幸い、ただし長男は・・・
状況が落ち着くのを待つばかりです。
御心配いただいているみなさん、ありがとう。」

ところで、先刻発表された首都圏停電の「輪番表」をみてみると、停電から外されている区は、私の読み違えでなければ、千代田区、中央区、新宿区、港区、文京区、墨田区、江東区、渋谷区、中野区、北区、江戸川区の11区となる。
つまり、「中央」は停電させない、ということ。
考えれば当たり前、というひとがいるかもしれないが、それなら「輪番制」ではない。
東京の「真中」を外すというなら、それをまずはっきりアナウンスして、皆が平明に納得できるよう、説明しなければならない。
原発事故で、「大丈夫、心配ない」ばかりくりかえして、国内外の視聴者に逆に疑惑をもたせてしまう「大本営」記者会見しかできない、何とか長官や保安院、東電の担当者、NHKなどのご用学者と同じで、「触れないで済まそうとするところ」に核心がある。
そもそも、電力逼迫の元となった、東電の原発が、どうして東京ではなくて福島県の海岸縁に集中してあり、どうして何万人もの住民が、自分のところに何の恩恵もない(電源協力費とやらを東電は無理やり押しつけているのだが)危険極まりないシロモノをネジこまれ、挙句の果てに「避難」させられなければならないのか。
そうして、人口3000人の福島県双葉郡川内村が、とりあえずの被爆可能性10キロ圏内に一部引っかかりながらも、人口1万5000人を超す隣の富岡町からの避難民を預らなければならない矛盾。
停電で不便をかこつトーキョーが、自らの特権階層性を当然としている奇怪。
公害のミナマタ、基地のオキナワ・・・・、原発の××・・・(決してトーキョーではない)。
これは、「日本」というできそこない国家の構図なのだ。
結局のところ、トーキョーというピラミッドの「頂点」を繁栄させるために、周辺はそれを支えるために、存在する、奇形国家。
つまり、個人レベルで言えば、頭のいいやつは、「中央」で「身を立て」、そこに座を占めて中央権益ピラミッド維持のために腐心する。
これでは「国家」の態をなしえない。本来、「中央」などよりよほど豊かな可能性をもつ地方という樹木を喰い物にする、「トーキョー・シロアリ王国」でしかない。
つまり、常に地方反乱、分離独立の契機をはらむのであって、原理的に、お隣の共産党中央独裁国家を批判できないのです。

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津 波

仙台市若林区南小泉一丁目。
若林区役所の南200メートルに、私の実家はあった。
生まれた場所は同じ南小泉でも500メートルほど西だったが、いずれにしても「南小泉」は私の生まれ育った場所。
真山青果の小説『南小泉村』の舞台でもあった。

一昨年の父の死後、無人となったその家をやむを得ず売却したのは去年の末。
長い間一人の父を気にかけていただいたご近所の方々は、いまどうしておられるか。
それよりも、名取川と広瀬川の合流地点附近、仙台市太白区郡山にある弟夫婦の家はどうなっているか。
南小泉からさらに東の遠見塚一丁目にある特別養護老人ホームにいる義母はどうしているか。
さらには、町が壊滅的打撃を受けた気仙沼市の、唐桑町にある中井小学校教諭の甥はどうしているか。
171にメッセージを入れた、twitterにも書いた、auやgoogleの伝言板にも書きこんだが安否確認できない。
NHKの安否情報をコールするも、3回線ともつながらない。

弟は仙台市役所の福祉施設の責任者を最後に退職し、地方の幼稚園の園長として勤めてもいたが、それよりも「ノーム芳賀」として、全国の保育園、幼稚園などにパフォーマンスや工作指導にかけまわる、児童福祉関係では知られた存在だ。
あの元気で心優しい弟たちが、無事で避難所にいるとは思うが、家屋はそのままでは済まなかったろう。
水も食料も不自由しているだろう。

そして、もうひとつ。
福島県双葉郡川内村は第二の故郷。
私たちの別荘というか、実態は妻と二人でやっている会社の倉庫状態だが、その村の中心附近にある建物は元来は村の保育園だった家屋。
村は、詩人の草野心平の文庫があること、天然記念物のモリアオガエルで知られる、人口3000人の自然豊かな山里。
東電の原発のある富岡は隣町。
村の東端一部は福島第一原発の10キロ圏内に含まれる。
いま、「避難所」にあてられている行政体だが、受け入れ側の遠藤雄幸村長も、状況は非常に厳しいとコメントしていた。
「別荘」は避難者に開放してよいから、と連絡しても、お隣の旅館業にして村会議員の井出さんとは連絡つかない。
少し離れた木戸川べりに陶芸の工房を構える友人夫妻とも音信普通。
その一人娘は、壊滅的被害をうけた「相馬」にある母親の実家から高校に通っているはず。

そうして、隣町では「メルトダウン」がすでにはじまっているかも知れない。
地震・津波の被災に加えて、被爆の可能性・・・
連絡がとれたとして、状況が明らかなるのが逆に恐怖でもある。
どうすべきか、いずれにしても連絡できない、身動きできない状況がもどかしい。

とりわけ仙台では停電しているから、このブログを見る人もほとんどいないだろうが、どなたか情報をおもちならご一報を。

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自爆

書評その1とその2を弄(いじ)っていたら自爆。
コメントいただいたAki様には大変申し訳ございません。
日本国際地図学会のMLには「その1」をお送りしておいたので、そちらにはまだ生存していると思いますが、書評はまあ余当方の自慢になることではないので、厓追跡に戻ることにします。
上野の花と厓が途中でした。
2、3日上野周辺を歩いてきます。

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地図の本 その1

年末になると、新聞や雑誌で「今年の3冊」と銘打ったページが目につくようになります。
人はそれを読んで、興味のわかない方面は度外視しつつわかる範囲で、こんな本もあったのかとか、これは読んだな、といった反応をするわけですがさて、今年はどんなモノが登場するか………。
 なにせ世界中が不況で底の見えない不安を抱えるなか、出版のそれは突出して根深く前年割れを繰り返しながら部数が出ない分を出版点数で数字維持しようとするのはここ数年つづけられてきた「努力」でした。ために、納本制度によっている国立国会図書館の倉庫があと3年もたないと悲鳴をあげているという噂がまことしやかに蔓延するまでになって、今年の3冊といっても「もういいよ」ということになりかねない。
 若い人は本を読まない、とはよく言われるけれども、読書好き人口数にそれほどの変動があったわけではないのです。本を買わないわけでもなく、その証拠に古書やブックオフ、そしてアマゾンあたりは結構繁盛している。つまり垂れ流しの、中身の薄い新刊書は定価で買う魅力に欠けるということなのでしょう。とくに注目されるのは、本を身近に置いておく、あるいは持っているという習慣が、若い人々にはもうないように見受けられる点です。
 これは本に限ったことではなく、新しいモノに対する欲望が、旧世代とは隔絶するように希薄になっている。いやむしろこの(安)モノ溢れの時代にまともな感性をもつほどの人間であれば、それへの欲望を掻き立てられる愚かさにとうに気付いているというだけのことなのかも知れません。
 
気候も含めて、時代はまさしく大転換期。いつまでも「モノづくり」「モノうり」の旧モデルを追求している時代ではないのでしょう。モノでなければ「金融」というわけでもない。こちらはダーティあるいはバブル(球乗り)を覚悟で「踊りを踊る」基本資力と体力が必要なのだと思われます。
『経済は感情で動く』(紀伊國屋書店2008年4月初版)という本がありますが、実は「政治」の根底にも感情があり、とくにこの国の場合は背後の「空気」の支配力が強い。それならばむしろその感情の根源にまで立ち至って「産業」の基軸に据えるのがこの転換期になすべき業なのです。
 さて、某新聞の要請により、間もなく締切の「今年の3冊」原稿を抱えています。年末掲載の予定ですが、マスプロダクツ、マスセールの世界で言えば間違いなく今年の1冊は「1Qナントカ」(この本は2冊1セットでした)でしょうが、私がそれを取り上げる必要はもちろんないのです。
 書店業界でリーダー的な立場にある方の説に、本の購入動機は①実用、②見栄、③宗教にある、と言っておられましたが、(実際は「はやり」が入る)今日②は壊滅状態。③はむしろ「エコ」を含めた転換期における文明論的なものだと承っておいて、当方はむしろ、「本当の実用に供し得る本」をこそ探し、あるいは供すべきなのだろうと思っています。
時間つぶしも実用でしょうが、また流行や話題に遅れないこともそうかも知れませんが、転換期における「実用」とは、ある意味で予言なのです。無意識にでも、時間的なパースペクティヴを思考の基底にもたないかぎり、実用書は成立しないのです。

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