「真理がわれらを自由にする」
という11文字が、国立国会図書館東京本館の目録カウンターの上の壁石の左上に刻まれている
日本国憲法制定時の憲法担当国務大臣でもあった初代館長金森徳次郎の筆跡。
その右下には、離れているもののこれに対応するギリシャ語
「Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ」
(ヘー アレーテイア エレウテローセイ ヒュマース、
またはイ アリシア エレフセロシィ イマス)も刻印されている。
参議院議員もつとめた歴史学者羽仁五郎が、ドイツ留学中に見た大学の銘文に由来するものという。

これはヨハネによる福音書第8章第32節の「そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(新共同訳)に対応する。
このイエスの言葉に対して、ユダヤ人たちは、自分たちが「人の奴隷になったことなどは一度もない」と反発する。
イエスの答えは、例によって「すべて罪を犯す者は罪の奴隷である」と、心理の機微を突く。

しかし、自分のおかれている現状をリアルに認識できない者は、ある種の情報の奴隷である。
いま、私たちがもっとも不安におもっていることのひとつは、東電の原発事故の帰趨である。
「福島」の原発事故とは言いたくない。
東京というバビロンの繁栄のために、そのほぼ東半分の「土」を放射能汚染されつつあり、「念のため避難」の結果、難民となって放射能汚染差別を受けつつある人々のふるさとの名は、あえて使わない。
これは「東京」電力がひきおこした、原子炉6基・使用済核燃料プール6槽を、同時に制御も冷却もできないという、人類史上空前の規模の原発事故である。
国際原子力事象評価尺度(INES)の暫定評価を、米国スリーマイル島原発事故と同等の「レベル5」(広範囲な影響を伴う事故)に引きあげる(原子力保安院、18日)、などという程度の話ではない。
「専門家」にとっても、それは「未知の領域」に突入している。
空前の「実験」といえば「実験」であって、世界が注目しているのはそのためである。

そしていま、繰り返されるのは、「ただちに健康に影響をあたえるものではない」という呪文。
原発事故の放射能汚染とは、いったいどのようなことなのかを明らかにせずに、まず大丈夫という「治者」の立場。
その治者の視線から、私たちは自由ではない。わたしたちはすでに奴隷である。

たとえば「福島市の水道水からセシウム134、137とヨウ素131検出、国の基準はクリアし健康に問題はなし」(16日8時採取水)というような情報が流れている。
セシウム134、137とヨウ素131が検出された、ということがなにを意味するのかについて、治者は触れない。明らかにしない。
しかし一方で、放射性物質が「浄水場で除去可能」という、メディア各紙が盛んに見出しに使っている言葉も、「当局」は使用しない。
よくよく見れば「かなりの部分を除去できる」という「安心安全言いまわし」を使っているだけなのだ。
「過剰な心配をする必要はない」という「結論ありき」は、人々から仕事を託されている「公務員」ではなくて、江戸時代とさして変わらない「治者」の視線がもらすことばである。
「こちらはしっかりやっているから、余計な心配はしなくていい」というわけだ。
基本的な「説明」の労を厭(いと)われ、またその要なしとされ、、データを小出しにされて、人々は不満と不安をかかえながらも、漠然と安心せざるをえない。

実は、放射能汚染時の水の安全性に対する日本国の基準というものは存在せず、WHOのガイドラインがあるだけだ。
水中で繰り返された測定値が、α線放射能で1リットルあたり0.5ベクレル以下で、かつβ線放射能で同1ベクレル以下である場合、生涯にわたってその水を飲みつづけても問題はない、というガイドライン。
ただし、これは緊急時には適用されない(それがなぜなのかは、手元に資料がないので言及不可である)。
「緊急時」には、原子力安全委員会の、「水1リットルあたり放射性ヨウ素が300ベクレル、セシウムが200ベクレルを上回った場合は飲用しない」という指標だという。
福島市の水道水の測定値は、放射性ヨウ素177ベクレル、セシウム58ベクレルまで上昇したが、その後低下したと。
そうしていま、必要なのは、被災地の水道というもっとも基本的なライフラインの復旧であると。
それは正しい。
多少汚染されても、いま、をしのぐための水は要る。
問題は、汚染がこれからどうなるかだ。
日本列島上広範囲なエリアが深刻な放射能汚染にさらされる可能性は、いま、誰も否定できない。
そうなったときに、そして長期的な汚染がつづいたときに、ひとりひとりがどうすべきか、いま何を学び、何を準備しなければならないか、という情報が要る。

しかし、「必要」と「緊急」がまかり通って、実は私たち自身が奴隷に身を落しつつある事態には目が向けられない。
たとえば、八王子市立図書館。
「電力需要ひっ迫に伴う臨時休館について
東北関東大震災に伴い電力が著しく不足する状況に陥っています。
この電力不足に対応し、被災地の一日でも早い復旧を支援するため、八王子市全図書館を臨時休館いたします。また、それに伴い図書館ホームページの全ての機能が利用できなくなります。
市民の皆様には大変ご不便をおかけしますが、ご理解ご協力をお願い申し上げます」という。
これは、図書館の自殺である。
戦時下の再来である。
公共図書館「休館」を決めたのは誰か?
インターネットに流れる、羊たちのクズのような書込みに対して疑問をもち、ひとつひとつ調べ、われとわが身を守る方法を模索する場のひとつとして図書館の使命はある。
奴隷の情報に対して、情報の奴隷とならないための砦のひとつは図書館である。

「真理」はわれらを自由にする以上に、それはわれらを生き延びさせ、「われらの明日」ために、いま、必要なのである。

2 Responses to “奴隷の情報/情報の奴隷  「公共」図書館の「自殺」”

  1. けいon 05 4月 2011 at 18:28:59

    八王子市民です。

    水道水のこと、今日知りました。幸い私の住んでいる町ではありませんでしたが。

    図書館のこと、知りませんでした。
    すごく、困ります。

    大学生は、卒業式も入学式も自粛。
    かわいそうです。

    逃げるところが特にないので、東京で生きていきますが、
    憂鬱ですよね。

    ま、ガンになったらなったで仕方ないですか。
    でも、経産省と内閣、東京電力のことは、許せません。

    この事故をきっかけに、世界の核と原発が、
    なくなっていくと嬉しいです。

  2. collegioon 05 4月 2011 at 22:15:45

    めったにいただけない、貴重なコメントをありがとうございます。
    公共図書館の「休館」は、八王子市だけでなく、小平市でも2週間という長い期間を設定していました。
    知人が八王子市に「質問状」をメールで送り、市長名で返事をもらっています。
    休館にした理由(電力不足に対応)を述べ「ご意見ありがとうございました」という通り一編のものです。
    小平市では、私も講演の機会がありますので、この問題に触れるつもりです。
    また、東京を中心とした公共図書館の現状をできるだけまとめておきたいと思っています。
    とりいそぎお礼まで。

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