「すぐに健康に影響があるというわけではないので、冷静に行動してください」
「それは今、データがありません」「確認中です」
そして
「これまでに確認された、死者と行方不明者を合わせた数は・・・・・」

政府、NHKをはじめとして、マスコミを通じて、今膨大にまき散らされている「リフレイン」。
持ち出されるのは、「事実」と「データ」の断片、ないしは「ゼロ」記号。
その背後にあるのは、「配慮」と「隠蔽」でなければ欺瞞である。
欠落しているのは、「意味」と「本質」である。
「大本営発表」というのはそういうものであった。
そして今、NHKを筆頭とした日本のマス・ジャーナリズムにおいて、同じことがまざまざと再現されている。
死者と行方不明者の数を合わせれば、数万人から何十万人という数に近づくことは間違いない。
推定すべきである。
そして、その推定は「事実」に、より近いはずだ。
対処は、行動は、事実にもとづいておこなわなければならない。

私たちは、生きて行くうえで、「今」を「これから」に照らして判断しなければならない。
この先、何があり得るのか。
情報をあつめ、総合し、最善の場合、最悪の場合、いずれも視野に入れて、ひとつの行動を選択する。

今回、政府・県の「30キロ圏内屋内退避」指示に反して、福島県双葉郡川内村のとった「全村離脱」の行動は正しいとはすでに述べた。
避難先は川内からさらに30キロほど西の郡山市。
ただし、これもアメリカ政府が自国民避難指示した「50マイル」(80キロ)圏外にはほど遠い。
「80キロ圏」とは、東西に長い福島県の東半分がすっぽりと収まって、なお隣接する宮城県と茨城県の一部を含むエリアになる。
避難してなお、再避難の可能性に追い込まれている苦しさは察して余りある。

しかし、川内村の「独自行動」の意味は、実はきわめて大きい。
地震や津波被害を直接には受けなかったこともあるが、すくなくとも「自分の頭で考え」、「全村離脱」という「極限の行動」を、「国」や「県」に逆らって、「実行に移す」ことのできる、村の「首脳」部がいたのである。

福島原発事故に関する政府発表を見聴きしていて、誰もが思うのは「本当に大丈夫なのか」という疑問である。
さらに、その発表を「解説」するだけで、ほとんどそのまま垂れ流しているマス・ジャーナリズムの口説にも、疑問をもつ人は多いだろう。

情報源とそれに対する判断を、ほとんど「東電」に依拠し、その広報しかできない、保安院と官房長官。
独自のデータをもたず、したがって独自の対応策も採れない日本政府。
そこには、官僚と企業が一体となって推進してきた原発行政が大きく影を落としている。
そうして、情報のほとんどを政府とエスタブリッシュメント(簡単に言えばご用学者)に依拠しているマス・ジャーナリズム。
そこには、「分節された脳」がないのである。

ただただ「一縷の可能性」という希望にすがり、それに「全力をあげる」ことで面子を保ち、パニックを防ごうとしている政府。
原子炉の構造が違うから、せいぜいスリーマイル島とチェルノブイリ事故の中間などといっていたが、これは規模の全くことなる、人類史上未曽有の「同時多発進行中」原発事故。
9・11よりも意味の重いものとして、歴史に記憶される「3・11」となる可能性が大きい。

いま、人々がもっとも知りたいのは、「最悪の場合どうなるのか」ということ。
それは、直接の放射能被害というよりは、そのことによって、何が起きるのか、ということ。
そのためにはどうしたらよいかということ。
放射能被害を避けるための、防災グッズなどといった報道は愚の骨頂、気休めにすぎない。

国と県、保安院、東電、マスコミの一体化、丸抱え丸投げ構造こそ、ことの根源にあった。
もっと言えば、電気や水といった、生命の根幹を握るものを、巨大なシステムに委ねてしまった現代社会のありかたそのものがある。

私たちは、人生の過半を生きてきた、そして見てきた。
これから、日本語の文化のうえで、日本列島で生きていこうとする若い人々に、理解していただきたい。
分節こそ宝である。
国、県、ではなくて、村、町、市が、分節したそれぞれの判断力と決断力で生きのびること。
どこかの国のような、中央一極支配、集中管理とそれへの依存は愚である。
水も、電気も同様。、戸別単位のシステムが模索されなければならない。
すくなくとも、社会は、文化は、そうして生きのびることができる。
その社会的基盤の上に、国やマス・ジャーナリズムは成立すべきである。
そうすれば、わたしたちの「文化」は、一挙に消滅はしない。
日本列島上、「分節」への動きは、すでに避けられないものとなっている。

東京は疎開を余儀なくされるかもしれない。
膨大な難民が発生するかもしれない。
そのときは、もちろん東京における首都機能は途絶える。
政府も日本国の象徴も移転する。
その帰趨は「水」が決する。

つまりそれは、首都圏水源の放射能汚染が避けられなくなった時だ。
もちろん「その日」「その日」の風向きに大きく影響されるが、可能性として少ないものではない。
未曾有の事態に陥る可能性については、それが数パーセントでもあれば、全面的にそれに対処しなければならないのは、危機管理の常識である。
この場合、可能性は数パーセントではないのである。

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