福島第一原発、第二原発20キロ圏内の川内村は、地震被害もほとんどなく、水も電気もあった。
しかし、この事態で、村長は防災無線を通じ、逃げられる人は逃げて、と呼びかけたと、村を脱出してきた人からのメール。
この村長の判断は正しい。
生きのびた人が、いつの日か再建をとも。
廃村、廃町、廃市の可能性のあるエリアがじわじわと広がっていく。
日本の報道はすでに戦時下、東電大本営発表の図式。
「確認できない」を連発するか、確認した細部データを言うのみ。
それが「何を意味するか」に触れない。
海外メディアのほうがよほど事態の本質を報道している。
フランス政府はすでにエールフランスに臨時便を要請。
首都圏から、外国人の日本脱出がはじまっている。
日本人でも、金と情報を持っている者は、その動きを開始した、とは、カード会社に勤める人の情報。
東京都の府中市清水が丘3に「かなしい坂」があり、府中市の標識が建てられている。
府中市観光協会の説明は、「この坂の名の由来は、江戸時代の玉川上水の工事にかかわりがあると言われています。/玉川上水は、はじめ府中の八幡下から掘り起こし、多磨霊園駅付近を経て調布の神代辺りまで掘削して導水していました。/しかし水はこの坂あたりで地中に浸透してしまい、工事は失敗に終わってしまったとされています。/この工事の責任を問われて処刑された役人たちが、「かなしい」と嘆いたことからこの名がついたといわれています。/このときの堀は、今でも「むだ掘り」「空堀」「新堀」の名で残っています」という。
この上水工事の起点は、国分寺市の国分寺崖線下「池の坂」である、という話もある。
国内外のきわめて厳しい視線を浴びている、東京電力福島原子力発電所の、あの無様。
現状は、とても「想定外の自然災害」と言っていられる話ではない。
まったくの人災である。
近世であれば、会長・社長以下責任者並べて獄門・梟首(きょうしゅ・さらし首)は免れない。
つまり、とうてい「士」とは認められない。
巨大な、ある意味で世界中のヒト、そして生きものの「命」を担保にした仕事であるという自覚がないのだ。
ただの「会社員」意識しかないのだから、切腹は許されない。
また、東電は、当然「とりつぶし」となる。
まして「計画停電」とやらの二転三転の挙句、通告なしの急停電をして社会を大混乱に陥らせている現状を鑑みれば、なおさらである。
事故の記者会見に一度も姿をみせず、これからも「広報担当」と政府および「保安院」に投げっぱなしにするとすれば、会長と社長は歴史に卑怯者の名を残すだろう。
そうして自然は容赦なく、一月もしないうちに春となる。
「世の中は 地獄の上の 花見かな」(一茶)
とりあえず、弟夫婦は無事だった。
以下、そのブログの転載。
「電気が来ました。
みなさん御心配おかけしました。
川向こうまで水が来ており、あの、数百人の遺体があるけど回収できない地域です。
なのにかろうじて川のこちら側は助かったようなものです。
沢山のひとが家を失って、本当に心苦しいです。
我が家では長男が、気仙沼の小学校の教員で、まだ、連絡が取れません。
女房がしばしば泣いていますが「あいつのことだから、大丈夫」、と励ましている所です。
食べ物とガソリンが不足し、空いてる店には長蛇の列、我が家では買い物は控え、極力あるもので対応しているところです。
とにかく不幸中の幸い、ただし長男は・・・
状況が落ち着くのを待つばかりです。
御心配いただいているみなさん、ありがとう。」
ところで、先刻発表された首都圏停電の「輪番表」をみてみると、停電から外されている区は、私の読み違えでなければ、千代田区、中央区、新宿区、港区、文京区、墨田区、江東区、渋谷区、中野区、北区、江戸川区の11区となる。
つまり、「中央」は停電させない、ということ。
考えれば当たり前、というひとがいるかもしれないが、それなら「輪番制」ではない。
東京の「真中」を外すというなら、それをまずはっきりアナウンスして、皆が平明に納得できるよう、説明しなければならない。
原発事故で、「大丈夫、心配ない」ばかりくりかえして、国内外の視聴者に逆に疑惑をもたせてしまう「大本営」記者会見しかできない、何とか長官や保安院、東電の担当者、NHKなどのご用学者と同じで、「触れないで済まそうとするところ」に核心がある。
そもそも、電力逼迫の元となった、東電の原発が、どうして東京ではなくて福島県の海岸縁に集中してあり、どうして何万人もの住民が、自分のところに何の恩恵もない(電源協力費とやらを東電は無理やり押しつけているのだが)危険極まりないシロモノをネジこまれ、挙句の果てに「避難」させられなければならないのか。
そうして、人口3000人の福島県双葉郡川内村が、とりあえずの被爆可能性10キロ圏内に一部引っかかりながらも、人口1万5000人を超す隣の富岡町からの避難民を預らなければならない矛盾。
停電で不便をかこつトーキョーが、自らの特権階層性を当然としている奇怪。
公害のミナマタ、基地のオキナワ・・・・、原発の××・・・(決してトーキョーではない)。
これは、「日本」というできそこない国家の構図なのだ。
結局のところ、トーキョーというピラミッドの「頂点」を繁栄させるために、周辺はそれを支えるために、存在する、奇形国家。
つまり、個人レベルで言えば、頭のいいやつは、「中央」で「身を立て」、そこに座を占めて中央権益ピラミッド維持のために腐心する。
これでは「国家」の態をなしえない。本来、「中央」などよりよほど豊かな可能性をもつ地方という樹木を喰い物にする、「トーキョー・シロアリ王国」でしかない。
つまり、常に地方反乱、分離独立の契機をはらむのであって、原理的に、お隣の共産党中央独裁国家を批判できないのです。
仙台市若林区南小泉一丁目。
若林区役所の南200メートルに、私の実家はあった。
生まれた場所は同じ南小泉でも500メートルほど西だったが、いずれにしても「南小泉」は私の生まれ育った場所。
真山青果の小説『南小泉村』の舞台でもあった。
一昨年の父の死後、無人となったその家をやむを得ず売却したのは去年の末。
長い間一人の父を気にかけていただいたご近所の方々は、いまどうしておられるか。
それよりも、名取川と広瀬川の合流地点附近、仙台市太白区郡山にある弟夫婦の家はどうなっているか。
南小泉からさらに東の遠見塚一丁目にある特別養護老人ホームにいる義母はどうしているか。
さらには、町が壊滅的打撃を受けた気仙沼市の、唐桑町にある中井小学校教諭の甥はどうしているか。
171にメッセージを入れた、twitterにも書いた、auやgoogleの伝言板にも書きこんだが安否確認できない。
NHKの安否情報をコールするも、3回線ともつながらない。
弟は仙台市役所の福祉施設の責任者を最後に退職し、地方の幼稚園の園長として勤めてもいたが、それよりも「ノーム芳賀」として、全国の保育園、幼稚園などにパフォーマンスや工作指導にかけまわる、児童福祉関係では知られた存在だ。
あの元気で心優しい弟たちが、無事で避難所にいるとは思うが、家屋はそのままでは済まなかったろう。
水も食料も不自由しているだろう。
そして、もうひとつ。
福島県双葉郡川内村は第二の故郷。
私たちの別荘というか、実態は妻と二人でやっている会社の倉庫状態だが、その村の中心附近にある建物は元来は村の保育園だった家屋。
村は、詩人の草野心平の文庫があること、天然記念物のモリアオガエルで知られる、人口3000人の自然豊かな山里。
東電の原発のある富岡は隣町。
村の東端一部は福島第一原発の10キロ圏内に含まれる。
いま、「避難所」にあてられている行政体だが、受け入れ側の遠藤雄幸村長も、状況は非常に厳しいとコメントしていた。
「別荘」は避難者に開放してよいから、と連絡しても、お隣の旅館業にして村会議員の井出さんとは連絡つかない。
少し離れた木戸川べりに陶芸の工房を構える友人夫妻とも音信普通。
その一人娘は、壊滅的被害をうけた「相馬」にある母親の実家から高校に通っているはず。
そうして、隣町では「メルトダウン」がすでにはじまっているかも知れない。
地震・津波の被災に加えて、被爆の可能性・・・
連絡がとれたとして、状況が明らかなるのが逆に恐怖でもある。
どうすべきか、いずれにしても連絡できない、身動きできない状況がもどかしい。
とりわけ仙台では停電しているから、このブログを見る人もほとんどいないだろうが、どなたか情報をおもちならご一報を。
書評その1とその2を弄(いじ)っていたら自爆。
コメントいただいたAki様には大変申し訳ございません。
日本国際地図学会のMLには「その1」をお送りしておいたので、そちらにはまだ生存していると思いますが、書評はまあ余当方の自慢になることではないので、厓追跡に戻ることにします。
上野の花と厓が途中でした。
2、3日上野周辺を歩いてきます。
年末になると、新聞や雑誌で「今年の3冊」と銘打ったページが目につくようになります。
人はそれを読んで、興味のわかない方面は度外視しつつわかる範囲で、こんな本もあったのかとか、これは読んだな、といった反応をするわけですがさて、今年はどんなモノが登場するか………。
なにせ世界中が不況で底の見えない不安を抱えるなか、出版のそれは突出して根深く前年割れを繰り返しながら部数が出ない分を出版点数で数字維持しようとするのはここ数年つづけられてきた「努力」でした。ために、納本制度によっている国立国会図書館の倉庫があと3年もたないと悲鳴をあげているという噂がまことしやかに蔓延するまでになって、今年の3冊といっても「もういいよ」ということになりかねない。
若い人は本を読まない、とはよく言われるけれども、読書好き人口数にそれほどの変動があったわけではないのです。本を買わないわけでもなく、その証拠に古書やブックオフ、そしてアマゾンあたりは結構繁盛している。つまり垂れ流しの、中身の薄い新刊書は定価で買う魅力に欠けるということなのでしょう。とくに注目されるのは、本を身近に置いておく、あるいは持っているという習慣が、若い人々にはもうないように見受けられる点です。
これは本に限ったことではなく、新しいモノに対する欲望が、旧世代とは隔絶するように希薄になっている。いやむしろこの(安)モノ溢れの時代にまともな感性をもつほどの人間であれば、それへの欲望を掻き立てられる愚かさにとうに気付いているというだけのことなのかも知れません。
気候も含めて、時代はまさしく大転換期。いつまでも「モノづくり」「モノうり」の旧モデルを追求している時代ではないのでしょう。モノでなければ「金融」というわけでもない。こちらはダーティあるいはバブル(球乗り)を覚悟で「踊りを踊る」基本資力と体力が必要なのだと思われます。
『経済は感情で動く』(紀伊國屋書店2008年4月初版)という本がありますが、実は「政治」の根底にも感情があり、とくにこの国の場合は背後の「空気」の支配力が強い。それならばむしろその感情の根源にまで立ち至って「産業」の基軸に据えるのがこの転換期になすべき業なのです。
さて、某新聞の要請により、間もなく締切の「今年の3冊」原稿を抱えています。年末掲載の予定ですが、マスプロダクツ、マスセールの世界で言えば間違いなく今年の1冊は「1Qナントカ」(この本は2冊1セットでした)でしょうが、私がそれを取り上げる必要はもちろんないのです。
書店業界でリーダー的な立場にある方の説に、本の購入動機は①実用、②見栄、③宗教にある、と言っておられましたが、(実際は「はやり」が入る)今日②は壊滅状態。③はむしろ「エコ」を含めた転換期における文明論的なものだと承っておいて、当方はむしろ、「本当の実用に供し得る本」をこそ探し、あるいは供すべきなのだろうと思っています。
時間つぶしも実用でしょうが、また流行や話題に遅れないこともそうかも知れませんが、転換期における「実用」とは、ある意味で予言なのです。無意識にでも、時間的なパースペクティヴを思考の基底にもたないかぎり、実用書は成立しないのです。