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傾城之墓 西国分寺

JR中央線西国分寺駅改札北北東約260メートル、開析谷壁斜面すなはち恋ヶ窪の窪地西端に、真言宗豊山派、武野山広源院、東福寺あり。

寺伝に鎌倉時代初期および享禄元年(1528)開創とあり、元和7年(1621)享保10年(1725)中興と伝ふ。
多摩八十八ヶ所霊場二十八番なりといふ。
旧鎌倉街道に面し、さらに300メートル北に熊野神社ありて東福寺その別当寺なりき。
其の鎌倉街道東200メートルほどには、並行せる古代官道東山道武蔵路の遺構あり。

東福寺境内斜面下に傾城之墓および傾城墓由来二碑あり。
以下由来碑読み下し、またその写真を添ふ。
●一字不詳なり。
教示を乞ふ。

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白泉抄13 桐一葉

桐一葉あるいは一葉、桐の秋、初秋の季語とさる。
「見一葉落、而知歳之将暮(一葉落ツルヲ見テ歳ノ将ニ暮レントスルヲ知ル)」(淮南子)に拠るといふ。

落葉広葉樹「桐」に、シソ目のキリ科のキリ(Paulownia tomentosa)とアオイ科アオギリ属のアオギリ(Firmiana simplex)の二種あり。いずれも東アジアの産なるもアオギリは南方の木なり。

北魏の『斉民要術』前者を白桐、後者を青桐また梧桐に書く。両者広卵型落葉なるも梧桐は掌状三~五に浅裂す。連歌時代は桐ならざる落葉含む例ありとしも「一葉」は次第に桐に定まると。ちなみに『日本大歳時記』(講談社、一九九六)には「柳散る」を仲秋、「銀杏散る」を晩秋に分く。

桐箪笥の桐、鳳凰の桐、紋章五三の桐、これらの桐はキリ科のキリすなはち白桐なるも、古来中国にて季節感を表現せしはアオイ科アオギリ属の梧桐にて、「秋雨梧桐葉落時」(白居易「長恨歌」)その端例なり。

如何あれども一葉は広葉なり。掌ほどに広くかつ重く、葉柄を付したるまま、ガサリ音たてて落下す。
桐一葉落ちて心に横たはる(渡邊白泉)。

昭和四〇年代の句作てふ。心底に横たはるもの、柳や柞(ははそ。コナラ・ミズナラなど)の小落葉にあらず。

「桐一葉日当りながら落ちにけり」(虚子)、「桐一葉月光噎(むせ)ぶごとくなり」(蛇笏)。この二句いづれもつくりごとの感否めず。枯広葉のガサツと落下速度を知らず、「つりがねの肩におもたき一葉かな」(蕪村)も同然也。

「螺線まいて崖落つ時の一葉疾し」(久女)よし。

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謬説wikipediaと出版文化の凋落

学生ならずとも、ほとんどの「説明」はwikipediaでこと足りるとする時代となった。
ネット時代の圧倒的な利便性の賜物である。
紙文化世代末尾としてのわれわれの役割は、せいぜいがその落とし穴への注意喚起であろう。

授業ではとりあえず日本語wikipediaの明白な誤りや矛盾、ないし根拠薄弱やその欠落を指摘したら、成績評価のポイントに加えることにしている。
履修期間、レポートのときどきで、結構反応があるから面白い。

以下は「wikipediaの誤りないし矛盾」の一例である。
昨今巷に流行の都市地形や都市地誌に関連して、ここでは「神田上水」をとりあげる。
神田上水は近世江戸草創期に創設された江戸市中の給水施設であるが、wikipediaでは以下のような定義ないし概括としている(2017年8月31日閲覧)。

「神田上水(かんだじょうすい)とは、江戸時代、江戸に設けられた上水道で、日本の都市水道における嚆矢である。江戸の六上水のひとつであり、古くは玉川上水とともに、二大上水とされた。」

この後に「天正日記」からの引用とそれをもとにした記述が並ぶのであるが、「天正日記」自体が偽書とされていることについて、つまりその引用の当否はここでは云々しない。いま問題とするのは「日本の都市水道のおける嚆矢である」と断言している点である。

「嚆矢」は「ものごとのはじめ」であるが、「日本の都市水道」をどのように定義するかで話はまったく別になる。
すなわち古代の飛鳥、奈良の都からあたりから話をはじめなければならないかも知れないのだが、関西の話はさておいて、関東にかぎってみても都市水道のはじまりが江戸でなければならない必然性はないのである。

wikipediaの「小田原早川上水」の項を見てみよう。

「小田原早川上水(おだわらはやかわじょうすい)は、早川を水源とし、神奈川県小田原市内を流れる上水である」と概括し、その後に「正確な成立時期は不明だが、北条氏康(1515年 - 1571年)が小田原を支配した頃に小田原城下に水を引き入れるために成立したものと考えられている。1545年2月に小田原に立ち寄った連歌師の紀行文『東国紀行』中にこの上水に関する記述が見られることから、それ以前には成立していたものと推測される。それ以前にこの上水以外の上水の成立が日本国内で見られないことから、日本最古の水道とされる[1]」(同前)としている。「1 石井啓文『小田原の郷土史再発見』夢工房、2001年」の文献根拠付である。

神田上水の草創につては前述のように根拠(文献)は薄弱で一次史料としては無に近く、しかも徳川家康の江戸入府(1590年)以後であることは確実であるから、すくなくとも小田原早川上水が神田上水より半世紀近く前に設けられた小田原城下上水施設で、中世末期から近世にかけての日本都市水道の「さきがけ」であることは明らかである。

江戸言説もいい加減に道灌伝説や家康伝説から抜け出して、正当に江戸氏時代や北条氏時代をさぐるべきであろう。神田上水以前の「小石川上水」が、北条氏の江戸城下の水源であったかも知れないのである。「水道橋」がなぜあの位置、つまり神田三崎町下に存在するかについて触れたものも寡聞にしていまだ知り得ない。
いずれにしても現今のwikipediaの神田上水の記述は「正しさ」にはほど遠く、「東京一極ジャーナリズム」に影響されたひとりよがり話と笑われても致し方ないであろう。

「誤り」という範疇からは外れるが、「百科事典」記述上問題となる不適切文例もひとつ挙げておこう。これも地名がらみであるが

「お花茶屋/地名の由来[編集]/江戸時代、江戸幕府八代将軍の徳川吉宗が鷹狩りに興じていた際に、腹痛を起こした。その時、名をお花という茶屋の娘の看病により快気したとの言い伝えがある。この出来事により、現在の地名を賜ったとされている。」(同前)

この文章では、「お花」というのが「茶屋」の名なのか「娘」の名なのかが判別できない。
常識的には、「お花」という名の娘がいた茶屋であろうが、それを確たるものとするためには「その時、茶屋の娘お花の看病により快気した・・・」と書かなければならない。

wikipediaが具体的にどのようなしくみで運営されているのか承知しないが、私もその利便に与っていることは確かである。だからそのシステム維持のための寄金には僅少ながら協力している。しかしウラの取れていない謬説が大きな顔をしていたり、権力意志やおおきな金が裏で動いていると推測される姿にしばしば遭遇する。顔の見えないネット情報は、基本的に無責任であり、闇世界であり得る。

これに反して、紙の出版文化は一般的に著作者名やその略歴を記載し、場合によってはその顔写真さえ掲載される。だから「顔が見える」。一見して、責任の所在が明らかである。
ところが昨今ではテレビ・雑誌はおろか書籍においても、ウラのとれていないネット情報をもとにしながら、適当な参考文献名を並べて体裁をつくろった「本」、あるいは先行研究を切り貼りしながら、典拠を示さずカラー図版付でオリジナルを装った「駄本」のたぐいが次から次にプロダクツされている。
書店店頭は、業界諺「柳の下にドジョウ6匹」どころか1ダース以上のドジョウが常に棲息している様相である。だから書籍も「文献」ないし「根拠」たりえるものとそうではないものとに二分され、前者は圧倒的に少数で書店で見かけることもあまりない。現代日本の出版文化の「主流」は、緩慢な自殺に向かっていると言っていいのである。

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農耕牧畜と国家の終焉

農耕牧畜と国家の起源は近接しているか一致している。
国家の定義によって大分異なる面が出てくるだろうが、いずれにしても農耕牧畜社会以前の狩猟採集社会に国家が存在し得なかったことは確かであろう。

農耕牧畜(業)社会から工業社会へ、そして情報業社会へと、社会変容は単純化してとらえられる。
このプロセスモデルのいずれにおいても、国家は存在している。
しかしながら、ホモサピエンスの出アフリカは約20万年前。
農耕牧畜が開始されたのは約1万2千年前とされるから、「人類史」のなかでそれは圧倒的に短い時間である。
国家も同様に、まったく最近の発生体に過ぎないのである。

そうして、農耕牧畜に基盤を置いた(今なお基本的にはそうであるが)人類史の「歴史時代」は、例外的に温暖で安定した気候の賜物だった。

この安定期が破られるとすれば、それは近年の人為がなせる「地球温暖化」の結果ではない。
自然は、いかなる人為をも凌駕する。

かつて人類史の圧倒的な時間を覆っていた氷河期。
それは激烈な寒冷と温暖が交代する「異常気象」の常態期を意味していた。
平野はたちまちのうちに海面下となり、それは幾度も繰り返される。
豪雨も旱魃も、豪雪も間断なくやってくる。
「異常気象」の常態期に、農業も牧畜も存立することはそもそもあり得ない。
生存できる人間も、多様な生物に紛れ、そのなかで許容された数でしかあり得ない。
そこでは国家はもはや意味をなし得ない。

農耕牧畜文明社会は、人類史の「発達」によって誕生したのではない。
それは、「たまたま」の条件のもとで発生した、つかの間の「繁栄」にすぎないのである。

中川毅『人類と気候の10万年史』(2017)を読んで、そう思った。

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評林 白泉抄11

「敗戦」を「終戦」、「占領」を「進駐」、果ては「事故」を「事象」と糊塗するごとき「精神勝利法」(『阿Q正伝』)の亜流に異ならず、大陸はいざ知らず斯くの如き欺瞞今日の列島に通用せること怪しき様なり。然れども当1945年(昭和20)、32歳の白泉「終戦」と前置し次の句をものしたり。

新しき猿又ほしや百日紅

此の句につき、銅版画家にして詩人なる橋本真理その著『螺旋と沈黙』(1978、大和書房)に「埒もない木登りをしては失墜する猿に天皇制を託した暗喩」の誤読を認(したた)む。而して中村裕氏「その読みも可能だ」と誤釈を肯んぜり。曰く「「猿又」は、「猿股」と「猿、又」の両様の解釈ができるようにこれをつくったのではないだろうか」と(『疾走する俳句 白泉句集を読む』2012年、70頁)。

然(さ)り乍(なが)ら此れ全くの誤読なり。敗戦当座列島世相は「神州無敗」「大日本帝国教(カルト)」崩壊に茫然自失、解離症に陥りしこと、俳壇の大ボス高浜虚子の「秋蝉も泣き蓑虫も泣くのみぞ」てふ無惨なる終戦句に明らかなり。そも「新しき猿」とは何ぞ、新種の猿人ならんか。「国体」すなはち「天皇制」護持され、退位もせず、「失墜」もとよりなし。白泉斯の如き政治少年少女の「深読み」と元来無縁なり。

「猿股」は江戸時代より列島に着用ありし男子の短ももひきにて、当句においては「娑婆」の象徴なり。その対極にありしは陸海軍入営時1人3本給さる「制服」越中褌(ふんどし)にて、当褌を含め官品紛失は営倉ものにて候ひき。「猿又」(=猿股)は、1944年6月横須賀海兵団に応召入隊、函館黒潮分遣隊にて敗戦の「玉音」を耳したる白泉の胸中に湧き上がりし「物象」に他ならず。

然してサルマタよりサルスベリに直行する駄洒落諧謔、日本教(カルト)の愁嘆場を無化、脱化、茶化して余りあり。これひとり生理或は生活上の皮膚感覚を梃に「終戦」に対し得たりと言はざるべからず。「大衆の原像」(吉本隆明)なるものありとせば斯かる諧謔にこそ其の裳裾を見ん。「8・15」を率直と卑近に現前せしむ名句と存じ候。 

【関東造盆地運動 Kanto basin-forming movement】
 関東平野の中心部が第三紀末以後、とくに第四紀に盆状に沈降し、平野周辺が隆起してきた地殻運動。1925年に矢部長克は関東平野の段丘面の高度分布や平野周辺の鮮新世―更新世の地層の傾きから関東平野は一つの構造盆地と考え、関東構造盆地(Kanto tectonic basin)の名を与えた。これは日本の陸上では最大の曲降盆地であり、それを埋めた堆積物により関東平野が形成されている。
 地質学的研究によると中新世の沈降帯は関東平野の西縁を南下して三浦半島・房総半島南部に続いていたが、鮮新世には黒滝時階の変動以後沈降の中心が房総半島中東部に移り(上総層群の堆積で示される)、その後さらに北西に移動して更新世中期には東京湾の東北部に位置し、関東造盆地運動とよぶのにふさわしい形となった(下総層群の堆積で示される)。下末吉面の高度分布によると、更新世後期には沈降の中心が東京湾北部と古河付近に生じたことがわかる。どうしてここに造盆地運動が生じたのか、またどうして沈降中心が移動したのかは明らかではないが、ここが東北日本弧と伊豆―小笠原の夾角にあたることや、この地域の南のプレート境界とみられる相模トラフがあることと関係があると思われる。なお関東造盆地運動による中心部の沈降速度は、更新世を通じてほぼ1m/1000年であった。(貝塚爽平執筆項目。町田貞ほか編『地形学辞典』1981)

「盆地」ねえ。
「地形」は地表を見ていただけではわからない。
 建築系の景観論者のダメさ加減は、「見えている」「現在」への依存度に拠る。
 地形は地下にもとづき、さらに海につづく。否、海からつづく。
「関東造鉢(ぞうはつ)運動」のほうが、言葉のイメージとしては適切だ。
「基盤岩」をたどれば、関東平野全体が浅鉢のかたちを成していることがわかる。
逆に言えば、最深部で地下3キロほどにある基盤岩の層をイメージできないと、この概念は理解できないことになる。
 今日放映のテレビ番組(テレビ東京「車あるんですけど」2017年7月30日)の「絵」を見ていてそう思った。
「盆地」では、イメージは地表の「凹凸」で止まってしまって、肝心のところまで思考が及ばないのである。
 ただし「東京の地下3000メートル」は沈降の中心部の基盤岩までの深さなのであって、その上に乗る「上総層群」や「下総層群」はずっと浅いところにある。番組では説明不足でした。
 江戸・東京は沈降の中心だから岩がない。崖があるとしても窪みにたまった土の崖だから、岩に彫り付ける「磨崖仏」も存在し得ない、というメッセージは伝わったかな。

 もっとも、番組中最大の失態は「アカテガ二」のことを「ベンケイガニ」と言ってしまっていたことだが。
 彼女、あがっていたのかな。
 車のなかでは耳にタコができるほど「アカテガ二、アカテガニ」と言っていたのに、どうして間違えるかな。
 収録後の「編集」でトチッたかな。
 他のカニとくらべて標高が高いところに棲息するアカテガニこそ、「猿蟹合戦」の主役なのです(これは私の説)。

 番組の最初のほうで私が言った「崖は動く」というテーマは、日暮里と銚子屛風ヶ浦で説明する仕掛けを考えていたのだけれど、屛風ヶ浦に車が着いたときはすでに日が暮れていた。
 投光器を使って撮影はされたが、結局カットされてしまった。
 まあいいか、そこまで言うと私だけが「立ちすぎる」からな。

 今度は単独でアカテガニに会いに鵜原まで、またちょっと足をのばして、崖地形の名勝「おせんころがし」まで行ってみよう。安房勝浦はおもしろいな。隆起と侵食でできた「風隙」(wind gap)もたくさん見られるようだし。

JR東日本は国分寺市の要請を受けて、2017年3月4日から国分寺駅と西国分寺駅の発車メロディーを変更した。
国分寺市のサイトでは以下のように説明する。

JR国分寺駅・西国分寺駅を発車する「中央線」・「武蔵野線」の発車メロディを、JR東日本八王子支社のご協力を得て、国分寺市ゆかりの曲にしました。
国分寺市は日本を代表する作曲家である信時潔(のぶとききよし)氏が半生を過ごした地です。その間、現在も歌われている数多くの曲を創作する傍ら、地域に根差した活動も行っていました。その一つに、国分寺市立小中学校の校歌作曲があります。15校中6校(第一~第四小学校、第一・第二中学校)の校歌が、信時氏により作曲されました。約6万人の子どもたちがこの校歌を胸に刻んで卒業しています。
この度、信時潔氏の功績を称えるとともに、地域活性化も図るため、地元商店会等の要望を受け、代表曲である「電車ごっこ」と「一番星みつけた」を中央線の発車メロディとして選定しました。

「電車ごっこ」は1932年(昭和7)に「文部省唱歌」として登場し、戦後しばらくも口ずさまれた、「運転手は君だ、車掌は僕だ、あとの四人は電車のお客・・・」というあの歌である。
作詞は文部官僚の井上赴(いのうえたけし)。
なぜ運転手が僕でなく君なのか、疑問を起こさせるところが面白いといえば面白い。

しかしながら信時の代表曲といえば、文句なく「海ゆかば」である。
この曲はいわゆる戦後世代はほとんど知ることがないが、戦時中このメロディーはラジオで頻繁に流され、それは「玉砕」報道にはつきものの軍歌、否、戦時歌謡だったのである。

しかしながら最近では、インターネットのyoutubeなどを見ると少なくないサイトにこの曲がオンされ、「第二国歌」「準国歌」などという惹句が付されて、一部の(若い?)人々の間でもてはやされている、らしくもある。

「海ゆかば」の歌詞は、奈良にあった山戸(ヤマト)部族政権の軍事担当家系に生まれた大伴家持がつくった「陸奥国に金を出す詔書を賀す歌一首」(『万葉集』巻18)の一部で、以下の末尾「と異立て」を省略した部分である。

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(む)す屍
  大王(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ かへり見は せじと異立(ことだ)て

凄惨な敵味方死体散乱の光景を、奴(ヤツコ=ドレイ)のマゾヒズムに転嫁させた詞と言っていい。

信時が作曲したのは、日本政府が1937年(昭和12)に国民精神総動員強調週間を制定した際のテーマ曲で、NHKの嘱託を受けたためという。
指定された歌詞を相手に、信時はたじろぎ苦心しつつ曲をひねり出したと思われる。
それならば「死屍累々だが、死ぬは本望」などという、顚倒しグロテスクでさえあるこれらのことばを「国民精神総動員」歌詞としてもち出した者は誰か。

勇壮な出だしと高揚のあと、曲はあっけなく尻切れトンボに終わる。感動が尾を曳く前にぽきりと折れ、音はさっと切り上げられるのである。もちろん指定された音数の規定性によるのだが、東アジア太平洋戦争における二ホン軍緒戦の勢いとその後の急速な敗退を象徴した観がある。

坂口安吾が言うごとく、戦後特攻隊の生き残りは「闇屋」になった者もすくなくなかったろう。
死ぬためにではなくて、生きるためにである。
大城立裕の短編「夏草」にみるように、死への誘惑を棄て、実際にカバネ累々の地上戦を生き延びた沖縄の人たちもいるだろう。
それまでの「当為としての死」は否定され、戦後の価値は「生きる」ことそれ自体に存在した。

戦後70年を経たいま、高齢化社会、高福祉社会への疑念と否定的情念が、戦後的価値を揺るがせているようだ。
死そしてそれに伴う暴力ないし殺戮へのひそかな欲望が、若い人々の意識の基底を浸潤している様子もうかがえる。
この短絡を、時の政府がまた利用せんとネット上の情報操作や印象操作に莫大なカネを投下しているフシもある。

しかしながら現政権とそのお友達グループが称揚する「美し(い・かった)日本」の正体は、この戦時歌謡が明示しているように、奇怪な死のドレイ・カルト(教団信仰)であって、ドレイたちが立たされたのは自滅への道に他ならなかった。
カルトとは結局のところ閉鎖、排他集団である。
「鎖国性が日本文化の主要な傾向であるあいだは、それによって日本は今日日本のもっている問題と効果的に取り組むことはできないでしょう」(鶴見俊輔「鎖国」1979『戦時期日本の精神史』所収)。

「日本」文化の鎖国性つまり夜郎自大は、江戸時代ではなく先の大戦時(つまり「昭和」期)に最も典型的に顕現した。
それは「万邦無比」であり、「国体」であり、「皇軍」であり、果ては「神兵」という言葉に象徴された。
これらは、劣等意識が転じた奇形な島国ナルシズムと言うことができる。
言い換えれば一億総カルト化(「転向」)であるが、その「空気」による強制力は、危機や衰亡の兆しに比例するのである。

1995年に「国民の祝日」となった「海の日」は、1876年の明治天皇の海路「東北」巡幸つまりは薩長による奥州制圧の完成を継承する。「海ゆかば」はその「制圧」の延長としての自滅(玉砕)歌謡であった。
ニッポン・カルト(抑圧された劣等意識)の根源にある島国性、つまり「普遍:外来×特殊:内在」の構図は、万年を単位とする地学的時間によってのみ無化されるのかも知れぬ。

声大き人は恐ろし夏の月

掲句は2017年7月9日(日曜日)の「東京新聞」1面左上の「平和の俳句」欄に掲載されたもの。
津市の田中亜希紀子さんの作。

季語「夏の月」は、日中の暑さをようやく逃れたシンボル的な扱いであるから、東京で言えば先週のうるさい選挙期間が終わってほっとした様子を想起しても見当はずれではない。

しかし、ラウドスピーカーでの絶叫連呼が象徴するのが「選挙戦」で、それがこの列島の「民主主義」の根幹に設定されているとすれば、あまりに素寒貧、というよりこれ以上の反語はない。

なぜならば、大きい声は、反デモクラシー(反民主主義)のエートス(習俗)にほかならないからである。
そうして、「論破」という行為も同じく、デモクラシーの破壊習俗である。

19世紀頃まで日本列島に遍在していたデモクラシーの根幹は村の自治であり、「寄合」であった。
それは人々が膝を交え、声高を抑え、事実と論拠を持ち寄り、何日もかけて合意を形成する、おそらくは縄文のムラからつづく「習俗」であった。

ネットによく見かける《論破する技術》などという手合いは、最初から聞く耳をもたないのであって、結局は相手を「言い倒す」暴力の謂いなのである。
このようなギャングは初手から相手にしないのが、「オトナの社会」である。

だから、いまだ見たこともなく、これから見る気もないが、「朝まで生テレビ」のような声高論破の見世物が受けるとすれば、それは檻の内と外が逆転している芝居のような書割社会にならず、見物人が座っているのは檻の中に設えられた衆愚桟敷なのである。

ついでに言えば、JR山手線ラッシュ時ホームの耳を覆うような拡声は、「東京コドモ国家」の象徴である。

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評 林 ・ 白 泉 抄 10

資 料 在 処 に 赴 け る 折 な き た め 、 以下暫く は 中 村 裕 氏 『 疾 走 す る 俳 句 白 泉 句 集 を 読 む 』 の み に 依拠 し て 概 述 せ ん 。
や は ら か き 海 の か ら だ はみ だ ら な る
中 村 氏 句 尾 に「 昭 和 一 〇 年二 十 二 歳」と 付 記 す 。 無 季 17 文 字 に La Mer の 官 能 如 述 し て 余 り あり 。

こ の 歳「二 ・ 二 六 事」前 年 、 明 後1937 年7月7日 盧 溝 橋 、12 月8 日 南 京 と「皇 軍」遮 二 無 二 大 陸 に 侵攻 し つ つ 翌38 年4 月1 日 国 家 総 動 員 法 を 公 布 す 。 列 島 根こ そ ぎ 駆 り 立 つ「空 気」横 溢せり 。

日 の 丸 の は た を 一枚 海 に や る は1936 年 の 作 に て 、「海」卒 歳 の うち に そ の 官 能 を 蔽 ひ 隠 し 、 つ い と「は た」一 枚 を 呑下す るの み 。 そ れ 試 み に「や ( 遣)」り し 者 は 白 泉 な り 。

此「日 の丸」句 、「 太 郎 さ ん が ゐ る 世 界」てふ連句なり。 前 に は 折 る ふ ね は 白 い 大 き な 紙 の ふね 、 つ づ く は 兵 隊 が 七 人 海 に 行 進 す と 。

太郎 と は 西 東三鬼 の 長 男 な り 。 然 し 乍 ら三句 並 べ ば 次 第 に 近づ く も の を 見 る 。 柿 と 書 籍 戦 場 ま ぼ ろ し に青 き38 年 の 句 作 に て 、 こ の 年 ま で 戦 火 対 岸 の観 あ り し か 。 然 し て 無 際 限 に 広 が る 青鈍色 の 水 塊 夥 し き 鉄塊 と 人 肉 骨 を「藻 屑」に す る ま で 幾 何 も な き。

前項について知人から投稿があって、カリーズではなくて「カレーズ」と習ったとのこと。
ウィキペディアをみると、カナートはカーリーズ、カナーともいい、北アフリカではフォガラ、ハッターラ、カタラと称し、ウイグル語で カリズ、中国語では 坎児井(カンアルジン、甘粛省等)となる、らしい。
呼称の地域変化について、理解するのは結構難しい。

ところでカフェ・カリーズの床窓から覗くと、地下のスペースに1メートル弱四方の木の井戸枠が設置されていて、その中に塩化ビニールのパイプが突っ込んである。小型の電動ポンプで汲み上げ、「御茶の水」としているらしい。被圧地下水が湧き上がってくるわけではなく、あくまで汲み上げる水である。震災による停電でポンプが機能しなくなった時は、ロープ付バケツでも放り込んで地表まで水を引き上げるほかに方法はないだろう。そのバケツの水は、脇に置いてある脚立兼用のアルミ梯子を使って1階まで持ち上げられて、ようやく使える水となるのである。「サライ南麻布」はたしかに井戸付マンションだが、手動ポンプ付でないところが泣き所だ。

「井戸水」には、重労働がついてまわる。昔は「水」を使える状態にする作業が日常生活で大きなファクターを占めていた。水汲みと水運びにどのような労度が費やされたかは、現存する「まいまいず井戸」に行き(青梅線羽村駅の近くにある)、石ころだらけの渦巻き路をたどって底に降り立ち、また地表に上ってみてようやく予想がつくのである。

「阪神大震災」以降、大都市のライフライン破断は回復までに最低1月を要すると考えるのは常識となった。電気、水道、ガス、下水のうち、比較的早く復旧されるのは電気である。これは長くて1週間から10日。上水道は2週間から1カ月以上。都市ガスは1カ月から2カ月をみておくべきだろう。下水施設は、地盤が液状化すれば完全復旧までにどれだけかかるか予測がつかない。

現存しかつ稼働中の手動式の井戸ポンプは、大地震から10日ほどは「お宝」以上の存在となるのである。

ところでカフェから仙台坂を麻布十番側に渡れば、すぐそこは名刹麻布山善福寺の参道。左右に塔頭が並ぶなか、右手中ほどに柳の木が立ち、その足元に伝説の「柳の井戸」はある。

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井戸とは言うものの自然の湧水で、しかも都心にはまことに稀な現役の湧き水。チロチロとではあるが、絶え間なく水は流れ出している。
参道正面、段丘崖の斜面を開削して境内とした善福寺の背後の台地上には、巨大キノコに似た「元麻布ヒルズフォレストタワー」(地上29階地下3階、2002年竣工)がそびえるが、湧水は辛うじて命脈を保つ。
95年前(震災)や72年前(戦災)は、トウトウ(滔々)に近い水量だったはずだ。
少なくない数の人が、この水で命をつなぐことができたという(傍に立つ港区教育委員会の標識による)。

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地元「山元町会」の「かわら版」(2017/6/8)によれば、「柳の井戸」は現在10秒間に約1.5リットルの湧水量があるという。こうした地元市民による測定、計量はまことに重要にして貴重である。
一方、日本地下水学会のウェブサイト「都内湧水めぐり」は、柳の井戸の湧水量は降雨条件(季節)によって変化するが、2011年4月13日の測定では1分間に5リットルとしている(http://www.jagh.jp/content/shimin/images/wakimizu/20111002/arisugawamiya.pdf)。この数字は10秒では0.83リットルに相当する。
両者を勘案して、仮に10秒1リットルの値とすると、1分で6リットル、1時間では360リットル、1日で8,640リットルの水がひとりでに地表に噴き出しているのである。
国連は「人間らしい生活」のために必要な最低限の上水量(1人1日あたりの飲用を含む生活用水の量)を50リットルとしているというが、その数字を用いれば、柳の井戸の湧水量は約173人分に相当する。

けれども現在、行政が災害断水時に配給を予定しているのはとりあえず「飲料水」のみで、それも1人1日あたり3リットルなのである。それも基本的には区、市にそれぞれ2、3ヶ所ほどしか存在しない「災害時給水ステーション」に足を運び、何時間も並んでようやく手に入れられる(かどうか)という水である。
トイレ用水を筆頭とする生活上の雑用水の対応については、区や市それぞればらばらの対応で、実質用意なきに等しいかきわめてプア―な面が見受けられる。各地から給水車が駆け付けたとしても、巨大な首都圏人口に対しては「焼石に水」に近い状態となろう。
これに反して、都の水道局が発表している、都民1人あたりの、現今の水道水消費量は、1日平均約219リットル(トイレや風呂、洗濯、調理、洗車、ガーデニング用の水を含む。一般的なバスタブは約200リットル)と莫大である。
3リットルと219リットルの間にある目の眩むような落差、そして「その時」の対応を日常感覚の延長(normalcy bias)と個々の備蓄や自助に委ねる構図の背後には、戦前戦中、敗戦直後の日本の亡霊が透けて見える。

人、いや生きものすべての存在の根幹にかかわる「水」に関して、実態はかくの如しである。仮に「避難所」に頼るとしても、自分や家族の生病老死が懸かる(「分配」などをめぐっての)トラブルや諍い、心身の動揺や疲弊に無縁であることはできないだろう。その時まかせ、あるいは行政や役人の想定や対策・計画に任じたままでは、生存すら危ういと肝に銘じるべきだ。
「首都圏」では、「そのとき」に220リットルの10分の1、つまり1人1日22リットル(大きなペットボトル11本分)でも確保できれば不幸中の幸いと言うべきだろう。しかしこの水量では、悪くすれば死に至る「トイレ我慢」が伴うのである。

とまれ、マンションに地下水を利用できる「井戸」が備えられているとしたら、それも手動のシリンダーポンプ付深井戸だとしたら、お宝以上の「まことの幸い」なのである。

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