12月 2nd, 2017
1953年(昭和28)頃の国分寺駅周辺と東京経済大学 その3
この図を点検するには、まず墨でインキングされている1953年図と、薄藍で印刷されたその下図(1943年頃:大戦末期の図)とを意識して分別し、後者から前者へ、そしてその対比へと分析を進めるのが順序だろうが、話の都合上必ずしもこの順序を踏めるとは限らない。
まずは図の左上(北西)部、大学の正門付近から見ていこう。
正門位置は現在と同じである。
門は斜線を伴った細い袋状の線の開口部として描かれている。
この線は1942年(昭和17)図式では「石、混凝土(コンクリート)、煉瓦壁」の記号であり、コンクリート塀で囲まれていたと判断される。
注意したいのは、正門から入ってすぐ左手の建物の裏に、もうひとつの門(コンクリート塀の開口部。仮に「北門」と言うことにする)が存在することである。薄藍の下図では、この北門の前(北側)に三叉路が描かれている。この三叉路道は敗戦8年目の1953年にはすでに廃されていたが、かつては門から正面の一本はそのまま中央線を横断して北にぬけ、左に行けば塀にそって曲がり正門に至り、右へ行く道は東南東からほぼ直角の南に折れ、戦後東京経済大学のキャンパスとなったエリアを突き抜けて国分寺崖線下、野川方向に下る道であった。
この野川に向かう道は急坂道であるが、現在その一部がキャンパスの外、南側の住宅街に残されている。
段丘崖に直交するかたちで、上位段丘面と下位段丘面とを連絡する道である。
図の左半分(西側)で中央線は盛土の記号で囲まれているが、現地へ行ってみればすぐ了解できるように、このあたりはほとんど「地上」と変わらず、線路と並行する道の間に高低差はない。
したがって、薄青で描かれている北上する道は、警報機があったかどうかは別として、敗戦までは「北門」からまっすぐ踏切で線路を横断していたのである。(つづく)