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『地図の事典』書評 その4

カルロ・ギンズブルグは、このたび邦訳が出た著書(『恥のきずな』)の序言で次のように書いている。

「わたしたちは現在に侵略されている。インターネットは空間的な距離だけでなく、時間的な距離をも撤廃しつつつあるという印象を与える。コンピューターのスクリーンは、イメージやテクストのもつ物質性をはじめとして、過去の厚みを空無化してしまう。こうして、歴史的記憶はますます脆弱なものになりつつある。」

ネット社会では、歴史的記憶が薄ぺらになる。
それはモノや身体性として担保されることなく、言葉(文字/音声)や画像(イメージ)の跳梁と変容、その消費と消去に終始するからである。

拙書評の冒頭近くで「紙媒体からデジタル画面への離陸において、地図はその先頭グループに属していた」と書いたが、この事典の企画編集にもその影響は多大であった、と言うよりもデジタルやネットへの「離陸」という潮流のなかで新たな「地図ジテン」が思い付かれ、話が具体化したと考えるべきであろう。
その流れの上で本書の出版は勇躍、加速した、と言いたいところであるが、上梓に「10年」を要した。
それが何故であったか知らない。
その間隙を縫って『地理情報科学事典』(2004年)が登場した。地理情報システム学会編だが、地理情報システムとは、デジタルとネット技術にもとづく地図メディアにほかならない。本書にくらべればずっと小型、モノクロ印刷の地味な本で、タイトルに「地図」をこそ謳ってはいないが、メディアとしての地図の「離陸」を直接反映したジテンである。
それに遅れること7年、本書がカラフルな衣をまとってようやくステージにあがった時、地図の時制への意識はどこかに置き忘れたらしい。
それは、「メディアの離陸」に幻惑された挙句の「現在に侵略され」た結果、と推察してもあながち的外れではないだろう。
本書にももちろん「地図の歴史」の節はあるが、それと地図の時制とは別の事柄である。

次の「問題点」に移る前に、「地図の時制」と「古地図と歴史地図の区別」について表としたので以下を参照されたい。

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江戸時代ではないがこの表の「過去」の例のひとつに、「三億円事件の地図」を挙げておこう。

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当事件は1968年12月10日発生したから、半世紀以上前のできごとではある。午前中におきたその大事件は当日の夕刊第一面トップ、現場写真と地図付きで掲載(上掲・朝日新聞)された。この場合の新聞の地図は当時の「現在地図」であるが、今となっては「古地図」である。
それと対照的に、2018年12月7日の読売新聞オンラインに掲載された「三億円事件半世紀」の記事の地図(下掲)は「歴史地図」である。

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当日の夕刊地図を「古地図」として不自然でないのは、事件から何年か後に幅30メートルの東八道路が開通し、現場付近の景観が大きく変わってしまったからである。東八道路は、下の地図(「歴史地図」)の「学園通り」の北側、「”白バイ”待機場所」の文字を左上から右下に横断するように、平行して通る。また当時の航空写真や写真、そして地図(古地図)等の、畑や原っぱ、疎林が散在し、それらが住宅等の面積より余程広いという、今日とくらべて閑寂な郊外地の様相がそれを補強するだろう。

(つづく)

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『地図の事典』書評 その3

仕事の合間、時間をひねり出して「その3」を書きつける。
『図書新聞』No.3528では、具体的に指摘する「余白」のなかった「ひとつだけ問題点」とは、以下のようなケースである。

第1章「A地図を知る」の4節「A4地図の種類」の19項(A4-19)は「利用者グループ指向地図 user oriented map」という。本書の読者はこの「利用者グループ指向地図」という項目見出し自体に、まず疑問を抱くであろう。
その概念説明もなく、いきなり「子供用地図」「女性用地図」「ユニバーサル地図」「デフォルメ地図」「風水図」「観光地図」「歴史地図」と小見出しが並び、それぞれに説明記事を付すのである。
「子供用」や「女性用」などというからには、「一定の利用者の特性に配慮して作成される地図」ということなのだろうが、そうであればその典型は盲人用の地図だろう。
しかしそれは162ページ先、第2章「B地図を作る」の4節「地図の製作・複製」の12項目「触地図 Tactual maps」に飛んでしまうのである。

ところでそもそも地図にあっては、一般図 general map 以外は何らかの主題図である。つまり主題図はどれをとっても「特定の利用者グループ」向けに配慮して作成されると言える。だからこのような項目見出しは無意味で、分類に困った編集側がひねり出した区分用語としか考えられず、読者に対して適切とは言い難い。

以上は前置きで、本論は以下のとおりである。
「歴史地図」が問題である。
特定の「利用者グループを指向」して作られている「歴史地図」とは何だろう。
それは「歴史理解」ないし「歴史好き」のために、「その利用を念頭に」「作成された」地図と言っていいだろう。
その典型は、学習教材の「日本史地図帳」ないし「世界史地図帳」である。
だから「歴史地図」が「利用者グループ指向地図」であると言えば、そのかぎりで間違いではない。
つまりその項に従属する「歴史地図」という小見出しまでは、配列上の誤りはない。
問題は、その解説記述である。

「歴史的事件や文化財,歴史地名が印字された歴史地図は主題図の一種であり,その時代の景観も考慮された地図になっている」。
この文章も、ここまではとくに問題ない。
しかし続けて「行基図」「国絵図」「東海道分間絵図」「伊能忠敬の作成した日本地図」を持ち出し「歴史地図とは,現代から見ればいかにもその時代を彷彿とさせる古さを感じさせるものであるが,発行当時にさかのぼれば最新の情報が盛り込まれた地図であった。したがって,歴史地図はその時代の人々の地域像や世界像が表現された媒体であったに違いない」と書き、「東海道分間絵図」の一部まで挿図として掲げるに至っては、混乱から誤謬の域に足を踏み入れてしまっているのである。

「行基図」はいざ知らず、「国絵図」「東海道分間絵図」「伊能忠敬の作成した日本地図」は、「歴史理解のために」「作成」された地図ではない。
それは、同時代の一般図にほかならない。
同時代の一般図は、後世「古地図」ないし「地図史料」となり得るけれども、それは「歴史地図」ではない。

さすがに『地図学用語辞典』は「辞典」だけあってその点をはっきり区別し、「歴史地図 historical map」の項に「古地図はそれが作成された当時の状況を示すのに対し、歴史地図は、その編集者・作成者の歴史に対する解釈が反映する」と書いている。
これは1985年の初版であるが、1998年の増補改訂版においても変更はない。
また『図説 地図事典』(1984年)においても、「歴史地図」の項に「その時代にかかれた地図は古地図と現在呼んでいて、決して歴史地図という呼び方の中に入っていない」と明快である(これらに関連して、古地図類および旧版地図とデジタル社会について述べた拙著『地図・場所・記憶』〈2010年〉はいささかの参考となるはずである)。

本書の企画編集段階では、「歴史地図」は当時ではなく後世になって当時を読むためにつくられた地図であることを踏まえて、「利用者グループ指向地図」として例示し執筆依頼したのだろう。そうであるにもかかわらず、執筆者は「歴史」=「古い」という安直構図に引きずられて「古地図」(地図史料)を持ち出してしまい、自分のみならず読者を混乱させ、誤解させることになったのである。
もちろんhistorical mapで検索すれば、いわゆる「古地図」もヒットすることは確かである。しかし日本語では「歴史地図」と「歴史的地図」とは異なる。その意味差に敏感でないとしたら、日本語のジテン解説としては失格である。
権威あるべき「事典」なのだから、曖昧ないし混乱した使われ方も含めて、「歴史地図」と「古地図」との弁別を解説すべきである。

「書評」には「適切ではない」と婉曲に書いたが、これは不十分な執筆準備と認識がもたらした「誤記」と言われても弁明できない。
「事典」を名乗る限り、まして「学会監修」を謳うのであれば、単なる説明不足やミステイクと言って済まされることがらではない。
この事例は、「監修」とはいっても、実際は項目選定と執筆割り当てに終始しただけなのではないか、という疑念をも生じさせるのである。

そもそも「歴史地図」は、地図の本質にかかわるきわめて重要な用語である。
本書の編集にあたっては、先行の地図ジテン類の項目をすべて検討したのだろうから(そうしなかったとしたら論外である)、本書は意識的に「歴史地図」を項目立てから外し、「その他大勢」に放り込んで済まそうした、あるいは済ませられる程度の用語としか認識していなかった、ということになる。
だから誤謬は単に執筆の問題ではなく、企画編集段階において派生していたのである。

「歴史地図」は、地図作製の「時代性」というよりも、その「時制」をダイレクトに露呈する。
その究極の例は、プレートテクトニクスによる「大陸移動図」であろう。
億年を単位とする地球物理のステージで見れば、現「世界地図」も過去と未来の大陸図に挟まれた一幕図である。
つまり、地図が「表現」であるかぎり、意識するしないにかかわらずそこに「時制」はついて回るのである。
通常の「歴史地図」とは時間のベクトルが逆向きだが、地図の「時制」にかかわる身近な例として「天気(予報)図」や「ハザードマップ(浸水予測図ほか)」「都市計画(基本)図」などが挙げられる。しかし本書において地図の時制が意識された様子はなく、これらの語での立項もない。諸地図は基本的に現在の断面ないし側面と弁えられるらしい。

以下の画像は、往年の学者には「プツゲル」の名で知られた歴史地図帳の日本語版である。
昨今は英語式にプツガーと言うが、それすら知らない地理・地図関係者が多いらしい。
F・W・プツゲル(1849-1913)がFW Putzgers HistorischerSchul-Atlasをはじめてリリースしたのは1877年であった。
この「歴史地図帳」はドイツの教科書として今なお使用されていて、以下はその日本語訳である。

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英語圏の「歴史地図」としてポピュラーなのは、1979年に日本語版が出た『朝日=タイムズ世界歴史地図』である。

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(つづく)

「事典」というのは、この1月20日に掲げた書評にも書いたように、エンサイクロペディアの商品名であった。
出版の劣化に伴い、図書館購入をアテにした中身の薄い羊頭狗肉の「事典」が目白押しであるが、そうしてこの本もエンサイクロペディアというよりは一口知識のオンパレードではあるけれども、進化論を下敷きとしたフィロソフィとその中身は侮れないものがある。挿絵も地味な色使い、とぼけを加味した図の味わいはなかなかよろしい。

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続、続々、さらに、ますます、と本シリーズは5冊。
出版界の「柳の下にドジョウ6匹」定説通り、いや、これを真似た「ざんねんなクルマ事典」や「ざんねんな兵器図鑑」まで登場した。
そうして、今年はこのシリーズがアニメやテレビ番組となるらしい。

BookOffで200円で買った手持ちの古書はその第1冊目だが、発行年を確かめるために奥付を見て驚いた。
それがどこにも記されていないのである。
高橋書店という、書籍よりはスケジュール手帳で知られた版元の出版のせいでもあるのか、カバージャケットの内側に「2016年8月25日発行」とあるのをようやく見つけた。
念のためネット検索すると、初版1刷は「2016年5月21日」らしい。
だから手持ちは重版本なのだが、書誌情報に無頓着というより意図的にそれを曖昧にするやりかたは、紙の本の自殺行為であるとはかつて指摘したことである。その点では、本シリーズも「ざんねんないまどきの本」の誹りを免れない。

ただここで言いたいのは、実は「ざんねんないきもの」の頂点に立ち、進化過程としても前例のない短命を運命づけられているのは、現生人類(ホモサピエンス)に他ならないということである。
その理由は言うまでもなく、火と水を「手に入れ」て地表に殖え過ぎた挙句、「核」(爆発物・燃料)まで「手にして」しまったこと、さらに言えばなお「理性」を頼りにして憚らないことにある。
その「進化」の果ては、「温暖化」論議などとはステージの異なるプロセスなのである。

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『地図の事典』書評 その2

以下の画像は『東京経済大学報』(2017年10月号)の「教員リレーコラム」に寄せた拙文であるが、この「書評」を「予定」したものであるため再掲する。

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この中ほどに記したように、本書の原稿執筆締切は2015年9月で、刊行予定は2016年(の春?)であった。
本書の画像をメインに「企画から刊行まで10年」と書きつけた今年の年賀状を見たが、それは居直りと言うものであろう。

発行が遅れに遅れたのは何ゆえであったのか、締切通りに原稿を提出した執筆者に対して、いや執筆者全員に対して、途中経過報告も弁明も一切なかったのである。

すっかり忘れ去った頃に、出し抜けに校正ゲラが届き、挙句の果てに本ができたから執筆者割引で買え、という版元の通知である。
通常は執筆者印税について然るべき説明があって、それとの相殺で買えるなら買う、というのが作法であろう。
拙評に書いた通り、「監修」ないし「編集」に十分な時間がかけられた形跡も見当たらないのだから、不信感はさらに募る。

結論から言ってしまえば、この本はカラフルな見た目とはうらはらに、執筆者についても購読者ないし読者に対しても、甘えていると言うより「高を括っている」ところがあるのである。
(つづく)

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『地図の事典』書評

以下は『図書新聞』2022年1月29日号の6面に掲載された書評である。
この本について言うべきことは山ほどあるが、当面1件例示のみとした。

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年賀

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上掲写真は東京都港区の「南青山陸橋」出入口。反対側は地下の出入口で「乃木坂トンネル」という。片方が段丘開析谷に架け渡した陸橋で、台地の分水界をトンネルで潜り、赤坂通り谷の谷頭「乃木坂」(幽霊坂)に通じる。2021年12月4日撮影。

新年のご挨拶を申し上げます。
皆様には穏やかな新年をお迎えのことと拝します。
感染症蔓延の出口はまだ見えませんが、私的には半世紀以上親しんだalcoholをherbal teaに切替えてもうすぐ1年、お蔭で心身ともに大分楽になりました。
一方、昨年の之潮新刊は『せたがや中世拾い歩き』の1点のみながら、「武蔵野地図学序説」(『武蔵野樹林』角川文化振興財団)は順調に執筆連載中、それをもとに新たな著書を上梓する予定でおります。
中断していた早稲田大学エクステンションセンターの講座と、月1回の「自主講座」巡検も規模を縮小しながら再開しました。上掲写真はその再開第1回目のスタート地点下見時のスナップです。
皆様のご自愛とご清祥そして変わらぬご厚誼を念じ上げます。

2022年1月

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善意と正義の行方

The road to hell is paved with good intentions.
(地獄への道は善意で舗装されている)

これはヨーロッパの古い諺で、多くの人が天国に行くために善行を積もうと「思う」(善意)ものの実行は伴わず、ほとんどの場合地獄行きとなることを皮肉ったもの、と言われる。

K・マルクス(Karl Marx, 1818-1883)は『資本論』の第1巻「資本の生産過程」第5章(労働過程と価値増殖過程)第3編(絶対的剰余価値の生産)第2節(価値増殖過程)で「地獄への道は、種々の良き意図で舗装されている」と書きつけた(岩波文庫『資本論』第2巻31ページ)が、それは「資本家」の「悪事は善意によって隠されている」と揶揄しただけであって、それ以上の意味はない。

このフレーズを直接引用しているわけではないが、もっとも深刻な意味を含んでこの諺が適応されると思われるのは、ハイエク(Friedrich August von Hayek, 1899-1992)の著書のひとつThe Road to Serfdom(農奴国への道。1943。邦訳は『隷従への道』『隷属への道』の2種)である。
ハイエクがその著の第2章「大きなユートピア」の章扉に掲げたヘルダーリンの「常に国家をこの世の地獄たらしめたものは、まさしく人が極楽たらしめようとしたところのものである」という言葉は、そのことを端的に象徴している(一谷藤一郎訳『隷従への道』1954)。ヘルダーリン(Johann Christian Friedrich Hölderlin, 1770-1843)はフランス革命(1789-1795)の理念に感動し、その実態に絶望して狂死したドイツの詩人である。

「平等」や「正義」といった善意ないし理想は、フランス革命以降「社会主義」(「共産主義」)に誘引された。その影響力はいまなおひとつの潮流をなすが、実は社会主義は決してファッシズムと別物ではなく、「個」を無化する権力意思においてむしろ同根であって、とりわけ「計画経済」(統制経済)は必然的に全体主義国家(地獄)へ至らざるを得ない。ハイエクのThe Road to Serfdomはそれを論証した書物として知られる。

しかし「計画経済」の本家であったロシアのソビエト連邦はすでに解体し、反対にチャイナは毛沢東(Mao Zedong,1893-1976)という巨大な失敗の教訓から「平等」の神話を捨てて「先富」を採用し、一定の成功をおさめた。だからインドやベトナムの政権も、それに倣ったのである。
ただコリアの北側はいまだ統制経済の魔力に囚われ、専制と個人崇拝、闇経済の泥沼であがきつづける。そこにおいて典型のように意思は「上部」が独占しており、陰惨にして悲惨な力学は末端まで貫徹される(『わが朝鮮総連の罪と罰』韓光煕、2002。ほか)。「日本帝国主義」という「悪」に対して民族的抵抗戦をたたかった「正義」の一部が政権樹立後に現出したのは、貧寒獄舎のごときhell国家だったのである。

ただし経済はともかく、この専制力学の構図は「改革開放」を経たチャイナにおいても同然である。そこにあっては組織(党)がすべてを支配し、多くの場合そのトップが神のごとくに擬制される。「三権分立」はありえず、原理的にも「法の支配」は機能しない。アジア的despotismにおいてはすべては属人化するから、忖度ヒラメと賄賂が一般的となる。事物は理に即するのではなく、政治(ヒト)に従属するのである。

しかしながら「改革開放」を経た「中国」はいまや世界的覇権をうかがうまでにその存在感を増大した。だからハイエクの「論証」は、現チャイナにおいてそのまま適応されるわけにはいかない。チャイナの過去と現在の専制そして1945年までの極東帝国の専制については、別途の考察が必要である。
アジアにおいてハイエクの警告がもっとも典型的にあてはまるのは、カンボジアの例であろう。歴史的な大量虐殺の例に挙げられる、クメール・ルージュ政権(1975-1998)は「毛沢東思想のもっとも忠実な実践者」(康生)として知られるが、その指導者「ポル・ポト」(サロット・サル)たちはそもそもフランスに留学して「社会主義」の理想の洗礼を受けていた。密告を奨励し、家族を解体して、個人を直接支配(「少年兵」の創出)したポル・ポトの死後(1998)、その後妻と娘が「世間が何と言おうと、わたしたちにとっては優しい夫であり、父でした」と言ったのは最大のアイロニーである。

どのような「社会主義政権」においても、選挙や議会は政権に対する善意と賛意を前提とし、ためにそこは単なる儀礼ないしアリバイのマツリ場と化す。そうして専制(一党独裁)の実態は、「敵」の出現ないしは創出、遮断と洗脳、監視と摘発、諜報と密告に満ち、その一方で権力中枢の暗部では熾烈な権力闘争が渦を巻く。『レーニンから疑え』(三浦つとむ、1964)は不徹底で、むしろ「フランス革命から疑」われてしかるべきであった。いずれにしても「集中」ないし「独裁」のもとで「個」と「言葉」は狩り込まれた挙句に扼殺されるのである(『「言葉が殺される国」で起きている残酷な真実 』楊逸・劉燕子、2021)。
楊逸は書いている。「1957年7月7日、上海中ソ友好大厦で文化教育及び商工各界の代表と接見した毛沢東は、「もし魯迅が今も生きているのならどうなっているでしょう?」という質問に対し、「牢屋のなかで書き続けているか、黙って何もしゃべらなくなっているかだ」と答えた。居合わせた代表一同は唖然として言葉を失ったという」。

チャイナ専制触手が「国恥地図」を片手にすでに香港を握り、台湾にその先を延ばしつつあるのは今日万人が目にするところである。
社会主義体制から解放されたはずのロシアでも、権威主義が返り咲き対外膨張をはじめた。

善意と正義、言い換えれば「人の好さ」と「真摯さ」こそ、専制と隷属の根源なのである。

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自主講座再開第2回

自主講座再開第2回は、2022年1月20日木曜日。
概要を右の「お知らせ」(自主講座・古地図であるく)でご覧の上、お申込みください。

下の写真は、手記にある「家の裏手の小高くなっている所の崖」である。

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それは馬場下の小倉屋から夏目坂を100mほど上がった左手奥にある。
300余人が一挙に亡くなるほど収容能力のある壕といえば、理工学部が関係した施設と考えるのが妥当だろう。
それが感通寺碑文にあるL字型だったか、手記に書くU字型なのか、いずれかを確認する材料はいまのところないが、爆撃火災の煙を吸い込む煙突の役目をしたというのだから前者の可能性が高い。

この崖は、地形形成史の観点からみると、夏目坂の緩斜面造成のための切通し工事とそれに沿う家屋、店舗の敷地確保ないし拡幅のために人工的に作り出された高低差4メートルほどの急斜面であって、自然の作用にかかるものではない。

国家が開始した戦争であるにもかかわらず、ひとりひとりの人命を守るべき防空壕の造成責任は、概ね「末端」に投げ渡されていた。
タヌキ穴のような、哀れな防空壕が各家庭の庭に無数につくられ、その大方は何の役にも立たなかったのである。
何万人という人々が地下鉄(ロンドン)を避難所としそれを援助した政府と、地下鉄への避難を禁止した政府。
この列島の「民人(たみひと)」は、何と情けない「政府」しか持てなかったのかとあらためて思う。

それに較べ、低いとはいえ至近の崖を利用した例外的に大規模ないし集中数多の壕が、おそらくは大学の関与をもって用意されたのである。
その設計が、逆に避難者全滅ともいえる惨状をつくりだした。

『土地の記憶から読み解く早稲田』の著者や大学史編纂関係者に問い合わせるすべを知らないが、これだけ重要な歴史的事実がいまなお上に挙げただけの記録にとどまりその解明がなされていないとすれば、これまたまことに情けない「ブラックホール」状態と言うほかないのである。

先に『土地の記憶から読み解く早稲田 ―江戸・東京のなかの小宇宙』(ローザ・カーロリ著、2021)なる新刊本の基本的な問題点を指摘したが、その例として「土地の記憶」上欠落許されざることがらのひとつを以下紹介しておこう。

早稲田大学喜久井町キャンパスの一画に、それはひっそりとたたずんでいる。

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写真の右下に見える碑文は以下の通りである。

  戦没者供養観音像建立の由来
 第二次世界大戦の終局も近い昭和二十年五月
 二十五日(一九四五年)米空軍の東京空襲は山手
 地区の多くを焦土と化した。
 理工学研究所も建物のほとんどが焼失し、
 とりわけ研究所敷地地下に作られた防空壕
 に避難した学生数名と、近隣の人々あわせて
 三百余名が火炎と煙に包まれて、悲しくも尊い
 犠牲となった。
 昭和三十年五月、罹災十周年を迎えるにあたり
 これらの人々の霊を慰め、永遠の平和を祈願
 するため本観音像を建立した。
  昭和五十八年三月
   観音像製作者 二紀会 永野隆業氏
    早稲田大学理工学研究所

馬場下で早稲田通りから牛込柳町を目指して分岐する坂道を、喜久井町の名主であった夏目家の名をとって夏目坂という。
夏目坂を上る右手、西側には寺がいくつも並んでいる。
そのうちもっとも坂上にある感通寺の境内には、もうひとつの観音碑を目にすることができる。

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縁起碑の全文(漢字は新字に、仮名遣いは原文まま)を以下に掲げる。

  造立縁起
 昭和二十年五月二十五日当町ヲ含メテ山手地区ハ米空軍ノ空襲ヲ蒙リ悉皆灰塵ニ帰セリ酸鼻ノ状タル死屍
 累々トシテ巷ニ倒レ残月白骨ヲ照シ遂ニ惨害ヲシテ異物ト為スノ観ナリキ。殊ニ夏目坂台地ヨリ早稲田通リ向ケL字型ニ
 構築セル地下壕ノ中ニ避難ノ人々ハ爆撃炎上ノ焔ト瓦斯ノタメ犠牲者参百有余名ヲコエタリト。親ハ愛児ヲ抱キ、若キハ
 老タルヲ庇イ、夫ハ妻ヲ助ケント為シタル等、或ハ全身大火傷炭化シ、或ハ生ケルガ如ク直立シ、或ハ両手ヲ虚空ニシテ落命
 セル等、目ヲ蔽イ言ヲ失フ恐怖地獄ノ惨状ナリキ。惨害無残非命ニ倒レシ犠牲ヲ念フトキ人皆歔欷シ或ハ慟哭シ
 心折レテ生事ヲ悲シムノミナリ。屍ヲ積ンデ草木腥ク流血ハ瓦礫ヲ染メテ声ナシ、マコトニ国破レテ山河アリ、魂魄招
 ケドモ再ビ来タラズノ感慨ヲ深カラシム、ココニ春風秋雨メグリテ三十三年ノ歳月ヲ閲ミシ漸クニシテ観世音菩薩一体ヲ造
 立シ奉ルコトヲ得タリ、願クバ日米彼我戦没之諸英霊、町内戦災殉難之諸精霊、当寺戦死病没之諸英霊
 鎮魂供養ノタメナリ。今ヤ一会ノ大衆トニ梵唄誦経修スル所ノ秘妙五段ノ加持ヲ以テ観世音菩薩御尊像
 開眼供養ノ法儀ヲ営ナミ、仰而喜久井町観音ト名ケ奉ル者也、造立シ奉ル喜久井町観音、ソノ妙智之
 力ハ能ク群生ノ苦厄ヲ救イ、十万諸々ノ国土ニ於テ身ヲ現ゼザルナク、克ク生老病死ノ苦ヲ減ジ常ニ苦悩諸厄ニ於テ依怙
 トナラセ給ハン事ヲ。
   昭和五十二年五月二十五日 造立願主感通寺 二十世伝灯 新間日恵(花押)

また隣接の「町慰霊園」碑には次のようにある。
 「苦しいのは息が止まるまでよ。もう少し我慢するのよ!!と子供を抱えて震
 える私の手も肉もやけどでじんじん落ちていきます。」成願寺報五五号抜粋
 昭和二十年五月二十五日米軍山之手地区空襲の一般庶民の惨状だった。
 五十八年余を経て今日それでも忘却のかなたに去ろうとしている。後の私達は
 歴史として伝え継いでいかなければならない務めがあると痛感し平成十六年
 五月二十五日、當山に於て前大戦で亡くなられた人々の供養の為に慰霊園を
 作庭し名を刻し永遠に町会員と共に現在も生きて在しますことを顕すもので
 ある。         伝燈二十一世日良記す

 以下、犠牲者89人の氏名(一部法名付。氏名不明「長男」などもあり)

この防空壕での犠牲者に関するもうひとつの記録は、『東京大空襲・戦災誌』第2巻(1975年)の733ページから736ページにかけての手記「ひとり消火に残った兄」という文章にある。筆者は当時牛込区喜久井町の高等女学校2年生(14歳)、長谷川佳通子氏である。
そのごく一部を次に抄出する。
  
  高松へ行ってから一週間ぐらいたって、ふたたび上京していた姉
 が、兄の遺体が見つかったことを知らせてきた。それによると、家
 の裏手の小高くなっている所に早大の理工学部がある。その崖の部
 分に、U字型横穴が掘ってあり、そこへ兄は避難したらしい。ところ
 がこれがU字型であったためか、ちょうど煙突のようになって煙が
 すいこまれ、中にいた人達は身体の損傷はないのに、ちっ息し皆死
 んだという。私が見た崖の中ほどに手をのばしたまま死んでいた人
 は、多分その入口近くにいたものの苦しくてはい出した所で気を失
 い、そのままあの世へ行ったものだろう。兄はポケットから出た早
 大の学生証で身元がわかり、知らされたようで、遺体はまとめて池
 袋の戦没者墓地に埋葬されていた。こうして焼夷弾が落ちたら消火
 せよ、万一の場合は防空壕へと、政府の指導通り実行した兄は無惨
 な死に方をした。(略)

 

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