歌の解釈にその時代の思考枠が影響して迷妄に落ち込むのは当然というか避け難いが、この歌の解釈における「迷い込み」のもう一例を挙げておこう。
ほかでもない、一度は持ち上げた橋本治のそれである。

56番歌の「現代語訳」として、彼は「不確かなあの世に行っての思い出にもう一度だけ逢ってみたいの」としているが、それでは不十分で、「あの世はないだろう(だからこそこの世での)思い出のためにもう一度お逢いできませんか」というのが正解と思われる。

歌そのものの解釈はそうなのだが、橋本は解説を加えるなかで「和泉式部は、人妻であっても、やっぱり「恋多き女」でした」と書いている。
ヒトヅマという言葉はすでに万葉集にも登場するが、ツマ自体がペアの一方を指す語だから、男、女いずれにも使われる。そうして当時通い婚(妻問婚)の習俗は貴族社会でもなお盛行していた。通い婚は夫婦同居を必ずしも前提しない婚姻制度で、男が女の家に通う古いならわしであった。生まれた子どもは女の一家ないし一族が育て上げる。だから通い婚とは女系制(母系制)の一面である。それは嫁入りや嫁取りの逆関係にあたる、婿入りないし婿取りであった。現代では通い婚こそ一般的ではないが、家計は妻が管理し、夫が小遣い銭確保に汲々とするのは往古女系制の残照である。
さて、男と女の同居がない以上性的な「囲い込み」は不可能である。したがって一夫多妻制でもあり、同時に一妻多夫制ともなる。「通い婚を基本とする間柄では、男性にも女性にも、正式の妻、夫以外の男女の可能性はいつでも開かれている」(木村朗子『女たちの平安宮廷』2015)のであって、それが仮に一夫多妻的に見えたとしても、イスラム的な排他的、一方的所有関係とは似ても似つかぬものであった。

一方、近代頭初までのムラ社会ではさすがに通い婚(妻問婚)の制は絶え、同居が前提ではあるものの「同棲したからといって必ずしも双方が、相手を性的に独占したわけでも、できたわけでもなかった」(赤松啓介『夜這いの民俗学』1994)。
ちなみに「妻問ひ」とは、男が戸口で「呼ばふ」ないし「歌をかける」のであって、必ずしも「夜這ふ」必要はない。男の求めに女が応じれば、それで「関係」は成立する。女系制であるから、女の親が認めれば(正式な)「婚姻」が成立するが、男が女の許に通わなくなる(「床去り」「夜離れ」)、ないし女が男を忌避するようになれば「離婚」となる。それはどこにも「届出る」必要はない(「無宣告離婚」高群逸枝『日本婚姻史』1963)。つまりファジーな婚姻制度であるから、「正式」でない婚姻の可能性は常に開かれている。したがって女親は常に確実だとして、男親の不明ないし曖昧な子どもが生まれる可能性もつねに「開かれて」いる。
それに関連する『和泉式部集』806番の詞書と歌を次に掲げておこう。

   語らふ人多かりなどいはれける女の、子生みたりける、「たれか親」といひたりければ、程経て、「いかが定めたる」と人のいひければ
  此の世にはいかが定めんおのづから昔を問はん人に問へかし

これは「和泉式部が、女子を出産した時、人々の噂に反発した歌」(服藤早苗『平安朝 女の生き方』2004)で、「むかしを問はん人」とは閻魔大王とされる。このようなやり取りをしても和泉式部が「社会から抹殺」されるようなことはなかったのである。
近代以降の一夫一婦制は、儒教(貞節)とキリスト教(愛)が混交した「ロマン道徳」で、それは「赤い糸」伝説と「不倫」の語の跳梁を生み出した。しかしながら歴史的な視点からすれば、それもなお過渡的な形態と言わざるを得ない。

橋本が「人妻であっても」と書き、読者がそれを了解するのは現代の常識的な一夫一婦制の視点からであって、当時の制度のもとで、なおはみ出しを意識しながら果敢に挑んだ和泉式部の実像を少しく歪めるものと言わなければならない。
現代的迷妄と誇張がもっとも露骨にあらわれているのは、中村真一郎が和泉式部について書いた次の文章であろう。

彼女は夫ある身で、次つぎと兄弟の皇族を二人、愛人にもち、その恋を大いに顕示することで、都中をスキャンダルの坩堝と化した女英雄である。彼女には文学的天才があった。だから更に、この醜聞を『和泉式部日記』というメモワールに封じこめることで、それに永遠の生命を与えることに成功した(『日本古典にみる性と愛』1975)。

男と女は、必ずしも互いに性的に独占しあう制度的閉鎖系のなかにおかれていたわけではなかった。だから「人妻であっても」や「夫ある身で」と現代風に言うとき、それは「違う」のである。
男女とも時により思いや愛着が変容し、関係が「離(か)れる」のは自然である。だから強制力を伴わない通い婚の関係は一方ないし両方の「気分」次第の不安定さを伴っていた。しかしそれは誰にでも開かれた可能性であったから、噂の種となりはしても「都中をスキャンダルの坩堝と化した」わけではない。ただ和泉式部はわけても「ストレート」で、そのことでは知られた人であった。

『教科書でおぼえた名詩』(文春ネスコ編、1997)に掲載された和泉式部の一首は、

 物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る

である。和泉式部が「男に忘れられて侍りける頃」鞍馬の貴船に社参したときの歌で、そのイメージの鮮烈さが誰にもわかりやすいために採用されたのであろう。もちろん鮮烈さにおいて比類のない次の歌や「いまひとたびの」を、検定済み教科書に載せるわけにはいかなかったのである。

 黒髪の乱れも知らずうち臥せばまづかきやりし人ぞ恋しき

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