藤原定家(1162-1241)が撰した小倉百人一首の、1番(天智天皇〈626-672〉)から100番(順徳院〈1197-1242〉)までの歌の作者の生没年をみると、約6世紀の幅がある。その頭初は天皇専制体制確立期で、末尾が東国武士の覇権確立期である。一方、その中ほどは摂関政治と古代荘園制の絶頂期で、これらを日本列島の「中央」と「地方」の視点から、時間幅を圧縮して俯瞰(時間の「地図化」)すれば、権力の頂点にあった「中央」が足元を空洞化させ、坂を転がり落ちる図柄が浮上する。

順徳院こと先の順徳天皇は、99番に撰された父親の後鳥羽院(1180-1239)とともに挙兵大敗(1221年。承久の乱)し、それぞれ佐渡と隠岐に島流しとなりその地で崩じた。順徳院の場合は鎌倉への抗議絶食の末に、ともいう。
100番「ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり」は建保3(1216)年3月頃の詠。内裏の屋根に繁るシダ植物の景は「忍ぶに忍びきれない」無念の歌である。99番「人も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑにもの思ふ身は」は建暦2(1212)年の作というが、中世屈指の歌人と言われた後鳥羽院の歌としては、説明を要しないほど悲しくストレートな愚痴である。

承久の乱に与せず権中納言にまでのぼりつめた藤原定家だが、鎌倉を憚ることなく両者の歌をもって百首撰を閉じることができたのは、嵯峨野の小倉山荘襖というプライベート空間に貼り付ける色紙揮毫だったからである。ちなみに定家自身の歌は、97番「来ぬ人をまつほの浦の夕凪に焼くや藻塩の身もこがれつつ」である。小倉百人一首の基層は「中央」貴族文化をその終末期から600年間回顧した定家のパースペクティブだが、「来ぬ人」とは約200年前の王朝文化最盛期だったのかも知れない。

ところで100番と99番の直截な傾頽怨恨歌に対し、逆に「中央」で絶頂期を謳歌したと思われる代表作は「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」(藤原道長〈966-1028〉)であろう。しかしこれはもちろん百人一首の選外というより対象外である。
ところが、と言うか、当然と言うべきか、小倉百人一首中の絶唱とも言える作は、この道長体制下に誕生しているのである。それだけではない、日本古典文学のピークに位置する『源氏物語』誕生のパトロンも道長であったし、紫式部を含む小倉百人一首女性作者21人のうち7人までが道長と同時代を生きた(ちなみにもっとも初期の女性作者は1番歌天智天皇の娘である2番の持統天皇、つづくは9番の小野小町である)。
その7人は単に同時代というだけでなく、それぞれが京を中心とした貴族社会の濃密な空間、つまり彼我指呼の間でかつ近接した血縁と政治およびセクシュアリティの渦中にあった。紫式部はその日記のなかで道長を「殿」と書きながら、夜通し戸を叩かれても開けなかった、つまり関係を拒否したとわざわざ披露しているのはひとつの例である。

道長と同時代の百人一首女性作者を順に挙げれば、56番和泉式部、57番紫式部、58番大弐三位(紫式部の娘)、59番赤染衛門、60番小式部内侍(和泉式部の娘)、61番伊勢大輔、62番清少納言となる。つまりその時代は、日本古典文学の絶頂期であった。その絶頂期の絶唱歌とは、よく知られた和泉式部の次の歌である。

「あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな」

歌人の吉井勇(1886-1960)はこの歌について「百人一首中の白眉である」と賛仰した(『百人一首物語』1969年)。吉井はその根拠は示さなかったが、一般的には「情熱的」とか「ひたむきさを越えた激情」などの讃評が呈される。それを否むわけではないが、渡辺白泉(1913-1969)の顰(「俳句の音韻」『沼津高等学校論叢』第一集、1966年)に倣い、まずはこの歌の「音」を開析してみたい。

音韻の根幹をなす母音を取り出すと、次のようになる。

アラザラン コノヨノホカノ オモイデニ イマヒトタビノ オーコトモガナ
aaaa-     oooooao      ooiei     iaioaio     ooooaa

ご覧のように、見事なa母音とo母音の連弾である。すなわち母音はおもにa9、o14をもって構成され、それにi母音5とe母音1を挟むのである。音表性最強のa母音の押し出しと、圧倒的なo母音のとどろきは、タナトスとエロスが捩れるように体内を駆けめぐっている様を表象して余りある。のみならず、a母音の連続する最初の5音の只中に濁音を用い、すぐに異化作用の強い子音rを配しつつ促音で推量断言する初句は打撃力そのものである。さらに、この歌の句ごとのアクセント配置をみてみよう。

アラザン コノヨノホノ オイデニ イマヒタビノ オーコトモガナ

太字の部分がアクセントだが、これらがみな等しい音の強さ、高さをもつわけではない。1句目のは、2句目との間(拍)も相俟って打撃力として存在感を示すものの、音調は高くない。音の高低で言えば、2句目のと4句目のが高いのであるが、絶頂は4句目に置かれていて、それが最強音でもあり、1拍を置いて結句の5句目の頭のの長音に雪崩れ込む。つまり序の打撃波が3つの振幅をつくりだし、掉尾の最高潮がどっと崩れて、その残響が「闇に消えるような」大きくも複雑なひとつの波長なのである。
さらに細かく見れば、1句目の2つのと2句目の3つのは、それぞれ韻を踏み小さな振幅をなしている。波が低く散開してゆく最後の姿は、内側に閉じる母音の5連続から、外に開くa母音2つに転じることに表われている。

フランス文学者の寺田透はこの歌について「僅々三十一音のうちにおける音楽的生動の大きさ強さのほとんど最高の実現例」で、「和泉式部はそういうことのできたひとである」と嘆じた(『和泉式部』1971)。敢えて付け加えれば、「そういうこと」とは歌の技巧などとは別の次元で、魂を揺り動かす音とことばを自然に紡ぎ出す、ということであろう。作者と作品についてはそれでよいとして、問題はこの歌をどう解するかである。

(つづく)

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