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回帰線 その1

熱帯は英語でtropicalだが語尾のicalは接尾辞にすぎず、意味はtropにあってそれはtrophy(トロフィー:戦利品)と同根の「回転」であるという。

戦利品ないし獲物は、往って捕ってくるものである。
いずれも往復行為を前提とし、その行為の両端には身体動作としての回転が存在する。
語源は異なるが、英語のfetchという動詞もその動線をイメージさせる。

さてtropicalが「熱帯」を表すのは、傾斜した地軸による地球の公転が、見かけの上で赤道を中心とした一年を周期とする太陽の往復運動をもたらしているからである。
その往復運動の両端つまり回転の場所を「北回帰線」および「南回帰線」といい、その往復運動の範囲を熱帯という。

だから、クロード・レヴィ=ストロースがブラジルでの調査から15年を経て、1954年10月12日から書き始め翌年3月5日に擱筆した自著に Tristes Tropiquesすなわち「悲しい熱帯」と題したのは、tropiqueに持ち帰り品(民族具のみならず調査ノートも)採集者でもある民族学者(現在では文化人類学者というが)の悲傷と、新大陸原住者の広範囲な絶滅をもたらして莫大な富を持帰った感染症媒介者(白人)の裔であることのそれをも重ねてのことだった。
それはたとえば上巻「第三部 新世界」の「8 無風帯」において、「第二の罪」(第二の「原罪」?)および「人類はかつてこれほど悲痛な試練を経験をしたことがなかった」と記している(室淳介訳)ことでも明らかである。

ただし、原著作権が有効である期間内に、その作品に対して珍しく『悲しき南回帰線』(室訳)と『悲しき熱帯』(川田訳)の2種類の翻訳書が存在するにもかかわらず、原タイトルのニュアンスを日本語で表わすことはできないのである。

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読まれるべきことば

いまこの列島で読まれるべきことばとして、藤原辰史「パンデミックを生きる指針 ―歴史研究のアプローチ」以上のものを知らない。

https://www.iwanamishinsho80.com/post/pandemic

敗戦の第一は言うまでもなく、第二次世界大戦における日本である。
ただし今日ではその実像を知らない、夢・キラキラの若年層が人口の半分以上を占めている。

さて、その第二は2011年3月11日の東京電力核発電施設の電源喪失に端を発する危機とその結果(現在進行中)であり、第三は新型コロナウィルス罹患者と死者が急激に増大しつつある、今日の日本列島の現実である。

これら三つの敗戦は、すべて因子を同じくする。
それは「属人主義」である。

「属人主義」に対するのは「属事主義」である。
属事主義、属人主義という2つの用語は、岡本浩一氏の『無責任の構造』(PHP新書、2001)から借用するのだが、属事主義は、ことにあたり、ことの実際とよってくる理をつきつめ、理にしたがって対処せんとするエトスをいう。

それに反して、属人主義ではまず人、つまり空気を読むのである。
それが日本列島における世間や常識あるいは見えざる規範である以上、人は不可避的に忖度人形でなければ風見鶏、ないしはヒラメと化さざるを得ない。
属人主義の典型は、成文法なき、あるいはおのれに不都合なそれを無視・無化もしくはそれに逆行させる王政である。
お隣の20世紀民話皇帝毛氏が法を嫌い科学を無視し権力に執着した結果、中国史上最大規模の死者を出したことはよく知られている(大躍進、文化大革命)。
『貞観政要』などが「名君の手本」として喧伝されることがあるが、結局のところ専制つまり「属人主義」の一見本にすぎないのである。
一方、王の臣下にして黒子は、時に王より猛々しく毒害を流すことがある。
「首相と心中する」と公言してはばからない現列島内閣の総理大臣補佐官などは、その典型かも知れない。

しかし形式的にもまともな法が存在し機能する場合、属人主義の下では隠蔽や改竄があたりまえとなり、嘘つきが隠れたコード(法)にまで一般化する。
本音と建て前の構造はこうして成立した。
なんらかのきっかけでそれが露見し問題化された場合、自殺や刑死にまで追いつめられるのは端末であって(B・C級戦犯)、嘘つきの元凶は吊るされることがないかぎり生き延びる。
日本列島無責任の構造はこうして成立した。

しかし人が神でない以上、属人主義では結局のところ事態に対処することは不可能である。すなわち敗けを運命づけられているのである。これを悲劇や美の高揚感にすり替える(ひとりよがり=日本浪漫派)としたら、茶番(阿Q正伝)というほかない。

「属事主義」は、科学と言い換えてもよい。
しかし内閣官房や厚生省おかかえの「専門家会議」は、空気を読み、議事録をつくらず、結論をやわらげ、スピードを落とし、感染症対策の検証を不可能として、学者ですらないことを暴露した。
もっともそれ以前に、わが裸の王すなわちことにあたって責任をとる覚悟も意志もなく、(改憲を)夢見るだけのお坊っちゃまの存在こそが最大の敗け因子である。

お坊っちゃまアベ某の「首相」在任時期は、日本憲政史上稀にみる属人主義つまり隠蔽と忖度が蔓延(法治否定)し、列島の未来を拘束するさまざまな毒種(法令と官僚体制)が蒔かれた時代で、「合理化」(感染症ベッド数極少化)と確信犯としての検査不作為が招いた「医療崩壊」は「政治崩壊」の結果にすぎない。

「王」も、その権力維持のため「理」ではなく、右顧左眄して「空気」を読む。
だから感染症蔓延状態においても、科学的な根拠と予測に従って、人びとの命をまもるため「説得」ようとするのではなく、一方的な「宣言」か及び腰の「発令」に終始する。
もっとも肝要な感染検査や医療従事者の防護体制も確保できないのに、マスクや現金を全国にばら撒くのは同構造による。

官と民に染みついた「属人主義」は、それ自身が滅びきるまで敗戦をくりかえすほかないのである。

そのまっすぐ水道ミチに対蹠するのが玉川上水路である。
標高約128mの羽村取水堰から同約33mの四谷大木戸まで全長43km。
こちらは武蔵野台地の微高地(尾根筋)を探しあて、そこを流下させたのであるから地形ミチにほかならない。
部分的ではあるが、そのことがよくわかる略図を下に掲げる。

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絶妙なカーブをもって、石神井川と仙川の二つの谷を避けた尾根筋を通していることがわかるだろう。
これは前近代における土木技術の高度な「水準」を示してもいるのだが、輸入一辺倒の近代測量技術と地図学は前代技術の「実際」を掬い上げる前に、それを不明の闇に葬ってしまったのである。
さて、この微妙なカーブに対してまっすぐミチの多摩湖自転車道は、以下のように石神井川谷の低地を土手(「馬の背」)とし、目的地までまっすぐ突き進むのである(以下図は「スーパー地形」から)。
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「おふろの王様花小金井店」付近から右下へつづく直線がそれである。
玉川上水と比較するために、ほぼ同範囲の地図を見てみよう。
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玉川上水は、左下「小金井サクラ」から右手に延びるゆるいカーブのブルーラインで、多摩湖自転車道は左上から右下へ走る、破線にふちどられたイエローラインである。
いずれも基本的には標高の高い台地の西側から、標高の低い東に位置する都市部に水を供給する施設であるが、地形に沿ったかたちと、それを無視あるいは局所改変したかたちの、2様の対照を見てとれるであろう。

実は、見えないけれどもこの対照はかたちだけでなく、地形の「時間」にも顕現する。
たとえば前回見た「馬の背」であるが、それは本来「馬の背のように両側が深い谷となって落ち込んでいる山の尾根伝いの道」(『大辞林』第三版)を言う。
すなわち侵食過程にありながらその過程から取り残されている、あるいはその過程が遅れているところなのであって、自然地形としては岩盤を主体とし本来強靭な部分である。神戸市須磨区のハイキングコース「馬の背」などはその典型例であろう。

石神井川谷底低地にか細く架け渡した土手は、すがたかたちとしては「馬の背」に似るがそれは速成の盛土ミチであり、降雨と地震には圧倒的に脆弱で、人間による恒常的な点検とメンテナンスが欠かせない「偽馬の背」にすぎないのである。

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拙著『古地図で読み解く 江戸東京地形の謎』(2013年初版、二見書房)が出てから6年半。
2刷の際にいろいろ訂正もしたのだが、その後の研究の進展もあって、近年この本は絶版とし自分のところではじめからつくりなおすつもりでいた。

しかし版元としては書店に置けばコンスタントに売れる本の絶版は回避したいらしく、増補改訂も可の意向を示したため、先月は何日かかけてその改定差し替え部と増補部の原稿を作成した。
それがどのようなものであるかは仕上げを御覧じろというほかないが、増補部は「ミチとサカ」「まっすぐミチ 地形ミチ」「江戸のサカイ」「ガケの構造とサカの5類型」などの私見エッセンスとし、さらに「23区微地形分類表」の付録もつけたいと思っている。

そのうち「まっすぐミチ 地形ミチ」については、『東京人』(2013・8)に「道の権力論」として活字化し、その前後からあちこちで触れてきたので繰り返すことはせず、ここでは付けたりとして「多摩湖自転車歩行者道」と「玉川上水路」の2者比較を紹介しておきたい。
両者とも巨大都市に飲料水を供給するためのインフラストラクチャーであるが、前者は近代につくられたまっすぐミチで、後者は前近代の地形ミチの典型である。

一般に「多摩湖自転車道」として知られる前者は、行政名を東京都道253号保谷狭山自然公園自転車道線といい、多摩地区は東村山市の西武多摩湖線武蔵大和駅付近(標高約84m)と同西東京市新町(同約63m)の間21.9 kmをむすぶ都内最長の直線道路である。
ちなみに国内最長の直線道路は、明治初期樺戸集治監収容政治犯を酷使して開通した札幌と旭川をむすぶ国道12号の、美唄-滝川間29.2km、世界一の直線道路はオーストラリア南岸のEyre Highway(エアー・ハイウェイ)146.6kmという。

東京の最長直線道路が自動車を通さないのは地表下に水道幹線を埋設しているからだが、世田谷区喜多見と杉並区梅里をむすぶ23区の荒玉水道道路8.979kmが同様のまっすぐ水道道路であるにもかかわらず自動車通行可(ただし重量制限などあり)としているのとは対照的である。

近代の水道道路がまっすぐであるのは、中央集権国家がその権力と資力をもって地形を無視、というよりそれを局所改変することが可能であったからである。
この多摩湖自転車道でそのことがもっとも明瞭に視認できる場所は、「馬の背」と俗称される小平市花小金井南町3丁目の石神井川谷底低地との交差部(上掲photo)である。(次回につづく)

「経済 vs 生命」の場合の「生命」は本来「人間」で、また「経済」も「利潤」ないし「資本」とするのが正確だが、理解し易いように上掲とした。

2020トーキョーオリンピックを念頭に、アベ某とその一派は新型コロナウィルス検査不作為をもっぱらとし平静を装ってきたが、世界情勢はそれを許さず、ついにオリンピックは1年先延ばしとされた。しかしその「来年」があるとは誰も確言できず、むしろ中止となる可能性が高い。
さてアベらがこだわったのは、結局のところオリンピックは「経済」だったからである。

ついで「緊急事態宣言」に至るわけだが、海外の評は「すでに(ジャパンは)手遅れ」が圧倒的である。
その「宣言」に踏み切るにあたって、アベの盟友アソーは「経済がガタガタになる」として最後まで牽制した。アベも本来見識(らしきものはもともとないが)はアソーと同然であった。
そのことは、トーキョー知事で野心家パフォーマンサー、知事再選を狙うカイロ大学卒業論文疑惑のコイケ某との「自粛要請」をめぐる攻防に端的にあらわれている。
すなわち「経済か、危機管理か」の2項対立である。
アベvsコイケの対立にかぎって言えば、決して「経済か、人の命か」ではないのである。

「経済」は資本主義勃興期の三角貿易すなわち奴隷交易を典型として文字通りヒトを喰いものにしてきた(’Amazing Grace’ !)し、近年では「貧困(者)と人間の命」こそがグローバル経済の好餌と見做されている。
それは「医療保険」であり、「水道法改正」であり、コロナどさくさ紛れに提出された「種苗法改正案」であり・・・と、直近の実例も限りない。
「経済」という、無限成長怪獣が地表においてヒトの命を喰いあらしている、というイメージが浮上するとしたら、それは正解である。

「社会距離」(Social Distance)に関連して『かくれた次元』(E・T・ホール)を読み返し、あらためてその確信を強くした。
ただしそこで言われている「社会距離」とは、「その限界をこすと動物があきらかに不安をはじめる心理的な距離のこと」で、現在の使用法とはベクトルが逆なのである。
つまり、その「間」をを維持しなければ社会そのものが崩壊する可能性のある距離、というふうに意味が逆転したといえる。
これは都市生活を基本とする文明社会史においては巨大な逆転だろう。

ホールはおもにヒトの住環境にかかわる「文化」を強調したが、文化というよりはさらに切迫した生物種としての生存条件と言い換えた方が適切であったろう。
「経済」はこの生存条件を餌として、さらに世界を呑み尽さんとしている。
極限まで縮められ、侵食されるのは「時間」と「距離」そしてヒトである。
ホールが著書の冒頭でレミング(の死の行進)の例を挙げているのは象徴的で、予言的である。
現在の世界お籠り状態は、「経済」による距離と時間そしてヒト侵食の一時的停止とみることができるだろう。
◆ ◆ ◆
quarantine(クアランティン、検疫)がラテン語の「40」に由来するとはよく言われる話である。
すなわち中世アドリア海交易における伝染病対策、つまり入港後40日間の離島隔離の意である。
武漢のロックダウンは、その倍の約2ヶ月半を必要とした。しかしわれわれの感染のピークはむしろこれからである。実質quarantine状態がこの先何週間、何か月間つづくか誰もわからない。
ただ市中感染が衰え隔離が一段落したとき、アメリカに重心をおいた世界のgeo-politicsの様相が、それまでとはまったく異ったものとなっていることだけは確かなのである。

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「日本」の正体

3・11でも同様であったが、日本のニュース、マスコミの論調の内部にいると、肝心のところが見えてこない。
それは自分をとりまく「世間」の姿である。
換言すれば、「日本の正体」となろうか。

「中央日報」は韓国の保守系マスコミだが、その日本語記事はたいへん参考になる。
本日の該当部分を以下に引用する。

◆ ◆ ◆

「日本もう滅茶苦茶、安倍氏の宣言は手遅れ」…「東京崩壊」警告も

日本で新型コロナウイルス感染症(新型肺炎)の感染者が急増しながら、安倍晋三首相が7日、東京都など7都府県に緊急事態を宣言したが「時すでに遅し」という懸念が出ている。

7日(現地時間)、米紙ニューヨーク・タイムズ(NYT)は「日本が新型コロナで緊急事態宣言、時すでに遅し?」というタイトルの記事を通じて「今回の措置がこれまで採択したコロナへの対応方式がこれ以上うまく回らないことを暗黙的に認めたようなもの」と伝えた。

特に同紙は渋谷健司・英キングス・カレッジ・ロンドン教授(国際保健)とのインタビューを通じて「日本はすでに滅茶苦茶だ(Japan has been screwing up)」とし「感染者はまだ氷山の一角にすぎず、患者が急増すれば東京医療システムは崩壊するおそれがある」と警告した。

日本集中治療医学会によると、日本は人口10万人当たりの集中治療室(ICU)病床は5床にすぎない。これはドイツ(30床)、イタリア(12床)に比べて非常に少ない。

日本では先月20日に感染者が初めて1000人を超えてから18日で感染者数が5倍以上に増えた。最近の新規感染者のうち感染経路が不明な人は半分以上となっている。

前日、安倍氏は緊急事態宣言を出してウイルス検査件数を一日2万件ずつに増やすと発表したが、実際そのような能力があるのか疑問視されている。厚生労働省によると、5日基準で日本国内の検査件数は計8万件余りにすぎない。

緊急事態を宣言したものの、多くの措置には強制性がなく履行効果がないという指摘もある。ほとんどが市民の自発的な外出自粛にかかっていて、これを違反した場合、処罰がないためだ。公共交通は依然として正常運行しており、保育園なども一部開いているところがある。

小池百合子東京都知事は在宅ワークを励行して夕方の外出自粛を呼びかけたが、国土交通省の調査によると、在宅ワークの割合は8人中1人だという。

北海道大学の西浦博教授は、日本経済新聞とのインタビューで「現在の東京都は爆発的で指数関数的な増殖期に入った可能性がある」とし「早急に自粛より強い外出制限をする必要がある」と話した。

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Is it too late ?

今朝のCNNニュースのトップヘッドラインは
’’Is Tokyo next the New York ?”
とし、つづけて
’’There are fears a coronavirus crisis looms in Tokyo. Is it too late to change course?’’
と述べていた。
アメリカ大使館は、日本の感染統計はあてにならないとして、在日アメリカ人に帰国を促している。
危機管理センサー欠如脳の帰結というべきか。

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井戸底の裸王子

「日本の闇」は春の朧に似、能天気な未成年者の脳にも似る。
今朝の新聞は以下のように報じた。

≪「感染者統計にゆがみ」 シカゴ大・山口一男教授 日本の少数検査に苦言≫

「実際には感染しているのに把握されない『暗数』の割合が大きく、統計がゆがんでいる」
「各国の状況との比較や政策の判断には使えない」

日本では感染者数の公表値が最近増えているが、世界各国と比べて圧倒的に少なく、海外メディアなどから「不可思議」とみなされている。欧米など各国は世界保健機関(WHO)が呼び掛けた検査の徹底を進めた結果、感染者の把握が急増しているからだ。

「検査数を絞ったことで感染者を把握できていないからで、この結果(水面下の)感染を拡大させた」
「検査数を制限することでどの程度感染者数が少なく出るかの情報がなく、他国との比較もできない」

この問題について安倍晋三首相は三月二十八日の記者会見で「水面下で実際は感染が広がっているのではないか」と問われ、「日本が感染者数を隠しているという議論は違う。死者の数は多くない」などと説明。現状の感染状況には「ぎりぎり持ちこたえている」と従来の見解を繰り返した。

以上、東京新聞記事から。

山口氏は総理府(現内閣府)統計局勤務を経て、コロンビア大公共衛生大学院助教授などを歴任、シカゴ大社会学科長を務め、現在経済産業研究所客員研究員としてEBPM(証拠に基づく政策立案)研究プロジェクト主査、社会疫学の研究経験を持つ統計学の専門家である。

日本という井戸の底、サクラの花びらを着けて「持ちこたえ」ふんぞりカエルは裸の王子、シンゾー・アベなのであった。

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恐るべき隠蔽

コロナウィルス対応で、休校による混乱ばかりが話題となっているが、実はそれは大した問題ではない。
現政府がいま力を注いでいるのは、感染者の把握ではなく、その真逆の隠蔽にほかならないからだ。

中国から提供された検査キットも活用せず、検査体制を国立感染症研究所に限定化し、韓国より1桁以上少ない1日1000人未満の検査体制にして感染者数値の上昇を妨げている。

不作為(意図的なサボタージュ)手法による、情報操作である。
2日、WHOからその積極的な対応が評価された韓国からは、大統領のウィルス対応協力の呼びかけがあったのだが、もちろんアベとそのお友達および子分たちは馬耳東風をきめ込んだのである。

このような小手先技は、国際的な信用失墜に直結する。
信用失墜はしかしクルーズ船の例ですでにはじまっていた(「日本政府の対応は、公衆衛生危機の際に行ってはいけない対応の見本」ニューヨーク・タイムス)。
情報操作と隠蔽はそもそもこの連中の十八番、「政治家」としてもっとも腐心するところなのである。

もしいままともな検査体制が敷かれ稼働していれば、初期対応失敗の結果として日本列島の感染者数は間違いなく桁外れに上る。
隠れ感染者や公表されざる感染スポットは、すでに身近に存在するかも知れないという疑心は当然である。

極東の列島の愚かな政策と対照的に、同極東の島台湾では、真摯にして迅速、賢明な感染症対策が功を奏し、支持率をも飛躍的に上昇させた。

中国は多大な犠牲をはらい、ウィルスの蔓延をほぼ湖北省内に封じ込めつつある。

列島におけるの感染者捕捉のサボタージュ状態がつづくならば、オリンピックどころの騒ぎではない。
「コロナ」と指さされ、軽侮されつつ隔離ないし排除されるのが日の丸国とその住人となる可能性はきわめて高く、それはすでに始まっているのである。

公衆衛生上の対応策は、結局のところ感染源(感染者)を発見(特定)し、それを公表周知させ、ゾーニング(隔離・封じ込め)することに尽きる(『感染地図―歴史を変えた未知の病原体』) 。繰り返すが、隠蔽はその真逆である。
「行ってはいけない対応」は、この愚かな政権を許すかぎりつづくのである。

【追記】
マスコミも隠蔽の実態にようやく触れるようになった。
以下は朝日新聞デジタル版2020年3月4日22時22分の記事の一部である。

「新型コロナウイルスの感染を判定するPCR検査をめぐり、日本医師会は4日の記者会見で、医師が必要と判断しても保健所が認めずに検査を実施できなかった例が全国で30件あまり確認されたと明らかにした。(略)新型コロナウイルスのPCR検査は現在、感染症法に基づく「行政検査」とされ、保健所が認めないと実施できない。日本医師会によると、保健所が認めなかった理由は「重症ではない」が5件、「濃厚接触者ではない」が1件などで、大半は理由が不明という。」

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