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背中と腰の崖

この3月はじめ、40年ぶりに腰痛再発。
すぐ近所の診療所でレントゲンを撮って、服薬したものの、一向に好転せず、
そのうち痛みで眠ることもできない状態に。

左腰と左足が痛くてどうにもならない。
右側を下に体を丸めていると、少しは痛みが軽減するけれど、それでも眠ることは不可能。
食欲はまったくなく、排尿だけですんでいたからなんとかなったものの、脂汗を流してただ寝ているだけ。

トイレにはようやく歩いて行けたものが、腰を下ろすことができなくなり、そのうち歩けなくなった。
医院に電話して、女房に座薬をとってきてもらったが、それもまったく効かない。
「救急相談」に電話したら、119番してよろしい、とのこと。

10分ほどで運転手も含めて数人が来宅、マグロ状態で運んでくれて、生まれて初めてピーポー・ピーポーに乗りました。

若いけれど、隊長さんはさすがにプロ。
的確な判断で、整形外科医が当直、ベッドも空いてた、比較的近い総合病院に搬送。即刻入院。
その晩は、痛み止めのブロック注射と入眠剤のおかげで、久方ぶりに眠れました。
お見立ては「腰部脊柱管狭窄症」と。

服薬とリハビリ(午前PT、午後OT)、何よりも安静が効いたようで、1週間ほどで車椅子(トイレに行く場合)から解放。

セラピストたちの意見では、姿勢良すぎるというか、反っていて、脊椎と骨盤に負荷がかかりすぎているらしい。
執筆したり、エクスカーション下見などの時は、過剰に集中してしまうのが原因かとも思い当たる。
背中と腰の筋肉が板状、ということは、崖になっていたのですな。

けれどもとにかく、仰向けでも寝られるようになったし、リハビリ体操も自分なりにレシピをつくったので退院を決め、結局12日間の入院で、本日シャバに出てきました。

さすれば、もう外気は妖しげな春。

こなさなければならない仕事は山積みですが、そろりそろりと行きますので、どうかよろしく。

硬派の週刊書評紙「図書新聞」に、ようやくまともな拙著の評が出た(2013年2月2日付・写真を2段階でクリックすると読めるうように拡大されます)。

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拙著は現在4刷りだが、初刷りから数えて5ヶ月目ということになる。
『江戸の川 東京の川』以降、江戸東京の歴史・地理・地形を横断した旺盛な著作で知られる、鈴木理生さんの執筆である。

「迷著のような名著」という、過分な評価をいただき、恐縮している。
現在の「東京地形ブーム」が、その本質を「テレビ流れ」のトリビアリズムにおいていて、写真や図版をならべ、知ったかぶりをして面白がっている「景観論」の亜流にすぎないという指摘はまったく同感である。
危機意識や、倫理性がまるで欠如しているのである。

そこまでは触れていただけなかったが、拙著の献辞を「フクシマの地霊に」としたのは、「伊達」ではないことを、ふたたび強調しておきたい。
「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」(テオドール・W・アドルノ「文化批判と社会」)に倣えば、「3・11」以後、「東京」を〈味わい〉もしくは〈楽しむ〉などという心性はそもそも「阿呆」か「能天気」以外の何ものでもないのだ。
「廃〈都〉」こそ、21世紀の列島の未来図である。

その権力志向を買われて、石原ナントカに釣りあげられたイノセ某という元物書き男は、「オリンピック」を連呼するピエロにしかなりえないのだ。

私が、『江戸の崖 東京の崖』に秘めた「毒」、つまり究極のメッセージは、実は「廃〈都〉」にある。
そこまで読んでいただけた人がいたとしたら、物書き冥利に尽きる。

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崖と民主主義

ヨーロッパの最果ての国アイスランドは、数少ない海洋プレートの陸上生成現場であり、
北アメリカプレートとユーラシアプレートの狭間、つまり双璧の崖を見ることができる。

その狭間、つまり裂け目をgyao(ギャオ/ギャウ)といい、世界初の民主議会「アルシング」の舞台でもあるという。
西暦930年に、移民たちがこの裂け目の崖下に集まり、直接議論を交えたと。
つまり、その場は崖の岩壁が音響板となって、谷底を「声」が走り合ったわけだ。

日本列島は、海洋プレート現象としては、アイスランドとは正反対の「沈み込み帯」に位置していて、その反動で地震がおきるとは、よく説明される事柄でもある。
この場合、日本列島は海溝という巨大な崖っぷちにあって、人間はその縁の上に起居している構図になる。

「断崖絶壁」という言葉がある。
断崖と絶壁はどう異なるか。
断崖は、崖の上から崖下を覗いた謂いで、絶壁とは崖下から見上げた場合だという人がいる。
そうかもしれない。
けれども実際の使用例は、かならずしもそうなってはいない。
しかし。

崖下に生まれた民主議会と、崖上崖っぷちの日本の政治はきわめて対照的だ。
ちなみに、ウィキペディアによれば、アイスランドはエネルギー政策の先進国で、水力と地熱発電のみだそうで(核発電=原発はもちろん、火力発電所もない)、燃料電池バスや水素燃料自動車が運行されているらしい。
また、「常備軍」を保有せず、「タラ戦争」(第一次~第三次)でイギリス軍と戦ったのは沿岸警備隊だった(アイスランドが勝利)。
米軍基地も撤収することで合意ができており、実際に米国空軍基地が閉鎖されたという。

こうなると、政治的にも日本とは、賢愚ほぼ真逆の国がアイスランドということになる。

日本のような、中途半端なスケールと、旧「帝国」の神話が、崖っぷちの危険度をますます大きくしているようだ。

政治的にも、経済的にも、「分節」すること。
日本列島上に人間が生きのこる知恵は、おそらくそこにしかないのである。
そうして、「分節」こそが、「民主主義」の本質なのだ。

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選挙と活断層

テレビと新聞・雑誌は、この何ヶ月か、極力見ないようにしてきた。
その予感はあたっていた。

「選挙」の結果である。
自民党の大勝、猪瀬の圧勝、「改憲」の現実化という結果である。

「民主主義」というものは、日本においてはかくも愚かな結果を現出する。
ペットが弱腰の主人を侮り、専制的な「飼い主」を崇める構図によく似ている。
この場合の「ペット」とは、もっとはっきりした言い方をすれば「奴隷」である。

民主党は、「オタオタした素人政治」で、閉塞のイメージしか残すことができなかったのだ。
国家官僚を中核とする、「利権共同体」の高笑いが聞こえてきそうだ。
巨大な金のもとに、とりわけテレビの裏側で、電通や博報堂が暗躍した結果でもあろう。

かつての魯迅と竹内好の指摘は、現在の日本にも、そして中国の現在にも、
それぞれ異なったニュアンスはあれ、もちろん有効なのだ。
ゆめゆめ、「あの国とはちがう」なとど言うことなかれ。
(cf.竹内好「中国の近代と日本の近代」『日本とアジア』所収)

これで「日本」の「国家」的体裁は一見強固となるだろうが、実は長い目でみれば
亀裂と解体、そして動乱のはじまりであったことが、明らかとなるだろう。
地下の、見えない活断層のズレが、一段と大きく成長したのである。

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来春の講座予定

12月2日の「坂学会」の講演とウォークは好評のうちに終了。
今年は来週土曜日の、淑徳大学公開講座(北鎌倉から鎌倉)でおしまいです。

いまのところ明確になっている、来春の予定を以下に掲げておきましょう。
ご都合のつくかたはどうぞ。

《淑徳大学公開講座「古地図と文学でめぐる 江戸・東京崖っぷち紀行」》
第63回 1月19日 明大前 水道道路を新宿まで
第64回 2月16日 東青梅 多摩川河原を青梅まで
第65回 3月16日 府中 郷土の森とビール工場
第66回 4月20日 町田 谷戸づくし
*いずれも土曜日、午後2時から4時ころまで。屋外。
 連絡は、淑徳大学池袋サテライトキャンパス 電話03-5979-7061

《NHK文化センター青山教室「古地図で都心の崖めぐり」》
第1回 1月12日 江戸・東京の崖と坂① 赤坂・溜池・愛宕方面
第2回 2月 9日 江戸・東京の崖と坂② 六本木・麻布・白金方面
第3回 3月 9日 江戸・東京の崖と坂③ 信濃町・四ツ谷・曙橋方面
*いずれも土曜日、午後1時から1時間ほど屋内講義、その後屋外へ。4時半ころ終了。
 連絡は、NHK文化センター青山教室 電話03-3475-1151

《「国立市」まちの歴史を探る・辿る くにたちの崖線・古道の今昔》
〈第1回〉 1月26日(土)午前10時~12時
「国立周辺の坂と崖線をめぐって」
*連絡は、国立市公民館 電話042-572-5141

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「国策」は「利権」の謂い 

原発稼働は「国策」だという。

「国策」というからには、パブリックな意思決定があるはずであるが、それが何であるかは誰も知らない。
どこで、誰が、どのような理由によって、「国策」と決めたのか。
国会という機関があるが、それは関与しない。
「国策」と言うならば、全国民の直接意思を問うべきである。

ただ、「国策」だからという。
そうして、最近はその裏の意図が露骨に語られるようになってきた。

すなわち、「国防」のための「抑止力」だという。
つまり、いつでも原爆ぐらいつくれるのだ、ということを示威しているのだという。

これでは、旧軍部の亡霊がそのまま生き残って機能していることと変わりはない。
誰が、そんなことを認めたのか。
自爆基地、あるいは恰好の国土破壊目標を54基も全国にばらまいて、抑止力もなにもあるものではない。

「国策」というのは、実質霞が関の一部官僚が決めているのである。
そうして、「国策」の結果について、「国」は責任をもたない。
一企業の責任だという。

「国策」である所以の「流出金」にたかる天下り機関や企業やら学会、ジャーナリズムが「国家」を牛耳る、日本列島の奇怪な「シロアリ国家構造」は、2012年3月11日以降、満天下全世界にあきらかとなった。
「国策」は「利権」の美称であり、仮面である。

「亡国」というのは、まさにこのようなことを言うのだ。
記憶力と理解力そして判断力の複合、つまりは「うわべの要領の良さ」だけで、一生涯自分とその家族が身分保障される官僚機構が、シロアリの巣そのものである。

「国策」は、「投票」で決定すべきものである。

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百年、千年、万年

というと、松竹梅か鶴亀にまつわるお目出度話のように思われるかも知れないが、
実は思考のパースペクティヴの話。

最近、また書評をたのまれて書いたのだが(掲載紙発行後当ブログでも発表予定)、
レトロや懐かしのイメージのある「昭和」は、
実は、「明治維新」以来進行した「破壊」が、頂点をきわめた時代だった。

何の破壊かというと、「地方」ないし「地域」の、自立と自尊の破壊。
「3・11」はその破壊の舞台裏が、あからさまに露出した事態にほかならなかった。

百年単位、でみるとそういう「透し図柄」が浮上してくる。
これを、千年の視点に転換してみると、現在はその最大破壊を経て、中央集権の「解体過程」に入りつつあることがわかる。

つまり、沖縄は離反し、東北そのほかの地方は、それぞれ「中央」に懐疑と不信をつのらせ、自立に向わざるをえない。
それゆえに、「中央政府官僚」とその提灯持ちは、ナショナリズムに訴えて、中国や韓国と反目の演出をすることに躍起となる。

これを「万年」単位でみれば、結局人間というのはかくも愚かである、という話になる。
あと1万年後に、そもそも「日本」や「日本語」、「中国」や「中国語」、「英語」自体も存在しているとも思えないのだが。

天皇皇后は、本日2012年10月13日、東京電力福島第一原子力発電所から30キロ圏内にある、福島県双葉郡川内村を訪れるという。

総理大臣野田佳彦が10月7日におこなった同発電所の不自然にして唐突な「視察」は、まったくの「露払い」だったわけだ。

事故収束、安全宣言の最大の「カード」として、天皇皇后の現地訪問は、原子力ムラ中枢によって、大分以前から企まれていた。

その候補地が、「奇跡的に汚染線量の低かった」川内村であって、帰村宣言や小学校入学式、運動会の折ごとに、パスチャーターによる巨大な報道イベントが組まれ、大々的に全国報道されたことは、記憶に新しい。その最後最大の山場が、この日なわけだ。

大山鳴動ネズミ一匹、結局のところ原発体制を維持することだけに腐心する、官僚と政府そして産業界の一部等等が存在する以上、
天皇皇后は川内村に慰問に行くべきではない。

川内村は30キロ圏内であるのに福島市よりも郡山市よりも汚染度の低い、いわば「例外中の例外」であって、そこは原子力ムラにとっては
してもいない「収束」の格好の宣伝場である。

天皇皇后が、「除染視察」という「安全ショー」に駆り出される。
天皇皇后も不幸だし、それ以上に日本列島に住む人々、まして汚染された土地から追い立てられた、何万人という人々はもっと不幸である。

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cliff of ethics

どこぞの国の、暗愚な首相が、サッカー国際試合の最中に、核発電プラントの再稼働を言いたてた。

その再稼働を阻止するため、首相官邸付近に夕刻から続々と人が詰めかけていた。
その数、4000人以上にのぼるという。

大分遅れてだが、私も駈けつけて、若い人が多いのに驚いた。

恥ずかしいことである。
私もそれに入る団塊の世代は、ぽろぽろと数える位しかいない。

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私が撮ったブレボケ写真だが、「恥を知れ」というプラカードは、国家官僚と政治家たちに向けられただけではない、50歳以上の「枢軸世代」に向けられたことばであるとも受取らざるを得なかった。

核発電プラント(原発)とその生成物(放射性廃棄物)は、その存在自体が人類のcliff edge ないし cliff of ethics を越えているのである。

そうして、どこぞの国の暗愚なマスコミは、この抗議行動を、ほとんどが黙殺したのだ。

もうひとつの私の写真は、同8日午後7時半頃の経済産業省前の抗議テントの様子。
ここは比較的高齢の女性たちが中心になって維持されている。
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人間の、人間たる理性と倫理をみる思いがする。

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天生峠

「参謀本部編纂の地図をまた繰開(くりひら)いて見るでもなかろう、と思ったけれども、余りの道じゃから、手を触(さわ)るさえ暑くるしい、旅の法衣(ころも)の袖をかかげて、表紙を附けた折本になってるのを引張り出した。
飛騨から信州へ越える深山(みやま)の間道で、ちょうど立休らおうという一本の樹立(こだち)も無い、右も左も山ばかりじゃ、手を伸ばすと達(とど)きそうな峰があると、その峰へ峰が乗り、巓(いただき)が被(かぶ)さって、飛ぶ鳥も見えず、雲の形も見えぬ。
道と空との間にただ一人我ばかり、およそ正午と覚しい極熱の太陽の色も白いほどに冴え返った光線を、深々と戴いた一重の檜笠に凌いで、こう図面を見た。」・・・

冒頭から「参謀本部の地図」が登場する近代日本文学の名品は、ご存知、泉鏡花の『高野聖』。

「さあ、これからが名代(なだい)の天生(あもう)峠と心得たから、こっちもその気になって、何しろ暑いので、喘(あえ)ぎながらまず草鞋(わらじ)の紐(ひも)を緊直(しめなお)した。」

旅の高僧が同宿の若者に、おのれの若き折の体験を物語るという形式をとった、おどろおどろしいストーリーのはじめの方、魔境の女性と出逢う直前に、主人公が山蛭に襲われるのは岐阜県北部の「天生峠」(あもうとうげ)。
大野郡白川村と飛騨市との境にあるその峠の標高は1280m。庄川支流の白川と、神通川(岐阜県内では宮川みやがわという)の支流小鳥(おどり)川の分水界に相当する。

この作品は明治33年(1900)に『新小説』に発表されたのですが、「参謀本部編纂の地図」とあれば、まずは日本陸軍「誉(ほまれ)の五万分一図」、つまり明治23年(1890)から作製が開始され大正5年(1916)に全国整備が完了した列島1000枚以上におよぶ、一群の地形図のことを指しているのではないかと、誰しも考えるでしょう。

もしそうだとすると、該当する地形図は金沢3号の「白川村」のはず。しかし、図歴によれば、この図の初測は明治43年(1910)で、発行が大正2年(1913)3月だから、作中の地図が5万分の1の地形図であった可能性はにわかに消失してしまう。

〔以上は、日本地図センター発行『地図中心』に連載の「江戸東京水際遡行」の6月号掲載予定拙稿「峠と分水界」の冒頭部分〕

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