「歩道橋」は、小学校などの近くに多い。
ホドーキョーとはそもそもが、「車優先」「人はそこのけ」社会が、「子供には配慮してます」というアリバイ施設のようなもので、鉄鋼会社とゼネコンとその下請けが多少商売になったのだろう。
子どもなら、「足腰を鍛える」効果も多少あるかも知れないが、「車が主で、人間が従」構造があたりまえ、と頭に刷り込まれるだけの話。
車にやさしく、人に情けない列島社会の典型のひとつが、世界に名高いホドーキョーである。
子どもではなく老人ないし老人予備軍にとっても歩道橋は論外だが、それでも、大きく迂回して、それを使わないことは不可能ではない。
その一方、腰痛持ちで、仕事上重いカートを押しながら歩いている身にとって、エレベーターやエスカレーターのない都心の駅ほど腹立たしいものはない。
エスカレーターがあっても上りだけ。
しかも、中途半端で、途中が階段となっている場合に出くわすと、笑うほかない。
エスカレーターも、エレベーターも付いていない都心の駅というのは論外だが、それが結構あるのだ。
先日、東京メトロ虎ノ門駅で、重いカートを押して改札口に向かっていたら、「バリアフリー」通路の入口と出口が太いクサリで「バリアー」されていて、
「お使いの方は駅員にお声をお掛け下さい」と貼紙がある。
バリアフリーにバリアーとは、と呆れるほかなかった。
要は、「健常者」以外は特別扱い、「やってやる」というおためごかしの魂胆がみえみえなのだ。
そんな都市で、「キャッシュで金がある」だから「オリンピックをトーキョーで」などと絶叫する人間がいるとすれば、これまた笑うほかない。
こころ覚えのために、つまり慌ててその駅で降りたりすることのないために、気づいた「エレベータなし駅」をとりあえず以下に掲げる。
JR環状山手線で囲まれた範囲で、エレベータもエスカレーターもなくて有名なJR線の「情けない駅」は、
【御茶ノ水駅】
【神田駅】
【新橋駅】
【代々木駅】
だが、
【新宿駅】
などの大きな駅では、連絡通路次第では階段しかなく立往生する場合が結構ある。大きな駅でも、「東京駅」はさすが「帝都中央ステーション」だけあって、にエスカレーターもエレベーターもよく設置されている。
けれども、さらに乗降客数の多い、「新宿駅」や「渋谷駅」などは、エレベーターやエスカレーターがどこにあるのかわからない、というのが普通のケースで、出掛けるには事前によほどしらべる必要がある。
インターネットは便利なメディアだが、こうした「情けある情報」は見かけない。
だから気づいた範囲で、「情けない駅」情報を、これから時々、心覚えに書きつけておくことにする。
知って驚いた。
今日午後、あるところから講演を頼まれて、出掛けて行ったのだが、その講師控室で高齢のご老人と一緒になった。
とくに紹介もいただかなかったので、地域の昔の話をなさる方だろうと思っていた。
私の講座と、そのご老人の講座の時間帯は同じだったので、参加者はいずれかを選んだわけだ。
2時間の話を終わって、控室に戻って話を聞いていて、おやどこかで聞いたお名前と思ったら、肥田舜太郎先生だった。
これには驚いた。
私の話なぞは聞かないでいいから、いまから皆でそちらの講座に行きましょうと、私は言うべきだったのだ。
御年96歳。
元軍医。
広島で、原爆症の治療に実際にあたった、最後の生き残りの方だ。
その方が、いまの日本の、3・11後の低線量被曝の現実を語ったのだ。
東京でも、足立区であきらかな被爆の症例が、すでに出ているという。
3・11の後で、仕事で雨の中、街を走り回った人がいて、その結果が「ぶらぶら病」となって表れた。
フクシマだけではない。
報道されないけれども、列島のあちらこちらで、深刻な状況が進行している。
そのなかで、生きていくには、おとなは自分自身と家族を守る、ある種の自覚と営為が不可欠であると。
それを知っていたら、私自身が聞きに走ったはずなのに。
以下は、2012年10月2日の沖縄での肥田先生の講演から。
「私は広島で助ける方法が分からない。毎日毎日死んでいく。大事な大事な命の重みに向き合いながら、何で死んでいくのか、どういう症状で何の病気なのか、まったく分らないまんま、本当に医者であることが悲しくて苦しくて、しかしやっぱり立場上私が診て、病名を付けて、死亡診断書を書くより仕方がない。その苦しみを私は30年続けました。」
「医者に頼ってもダメ、学者に頼ってもダメなんです。だから最後は命を持っている皆さん自身が、命の主人公として自分の意志で生きていく。皆さん毎日毎日目を覚まして、自分が今日こうやって生きている、これを明日から続けていこうと思えばただ漠然と生きていたんじゃダメなんです。していけないこととするべきことを自分で決めて、それを守って、どんなにつらくても健康を守って生きるということを意識的に続けなければ。自然に生きている恰好では放射線に負けます。」
漢字の道・路・途・径は、和語ではすべてミチという。ミチの「ミ」はミコ(御子・巫女)やミタ(御田)、ミホトケ(御仏)と同じく、また、オシロ(御城)やオウマ(御馬)の「オ」と同類の、接美辞ないし敬辞だから、語の本体は「チ」である。
これをトチのチと言ったらそれはもちろん誤りで、土地は漢語だから除外して考えなければならない。
語幹のチが共通するのはチマタ(巷・岐・衢)である。チマタはチが交叉したところ、すなわちツジ(辻)である。チを語幹とする言葉には、ほかにマチ(町・街・区・襠)やウチ(内)、オチコチ(遠近)、アチコチ(彼方此方)があって、すべて場所ないし空間をあらわす。
「チ」が「道」の意で用いられるのは、アヅマヂ(東路)やシナノヂ(信濃路)のような接尾辞的な例で、『古事記』(下巻・歌謡)には、タギマチ(当芸麻道)とある。
ここから推認するに、地表の交通経路をあらわす古い和語には、「チ」と「ミチ」の二種類があったようだ。
現代は、ほとんどすべての地表空間が切り分けられ、それぞれ領有ないし所有が主張されるが、二百年もさかのぼれば領域は曖昧となり、さらに古くは、むしろ地上における人の場所はごく限られたものであった。
そうして、狩猟と採集に生存を依存していた人類の長い時代、集落はひらけた場所にあったとしても、一旦その場を離れれば、周囲は原野であり、森林であって、そこは野性と霊威の支配する異界であった。だから、そのなかを通じる「チ」とは、人間の領域の属性を延長しつつも、野性や霊威とも親密な過渡的ないし曖昧なエリアであったのである。
その過渡的なエリアが人間意志の顕現のような様相に転じるのは、灌漑農耕が成立して社会が内部分化し、また征服被征服の外部的な階層性をも抱え込むようになって以降である。
すなわち、敬称を冠したミ・チが誕生する。
霊威は人間領域の外部から内部へ仮託され、やがてそれは威令にとってかわった。奴隷労働にせよ、徴用にせよ、農閑期雇用にせよ、かつては「威令」として動員された、人間の労力がつくりだした交通経路がミ・チなのである。
そうして、すべてのミ・チは、「お馬」がミヤコから走り出、またそこに向かう「軍用道路」だったのである。
最近の東京都小平市の、後出しじゃんけんそのものの住民投票条例改変例でも判るように、トーキョーの道も、一旦計画決定されたら問答無用に通すのが、「軍用」ならざる「自動車用」のミ・チだったのだ。だから、ミ・チはそこに「住む者」を無視し、むしろ「そこのけそこのけ」と排除するのである。このようなことが「あたりまえ」の列島には、いまだ「人間の道」は不在であると言わなければならない。
標記のようなタイトルの本を、以前代取をやっていた版元では看板商品のようにいくつも出していた。
この種の本の出版は一時途切れていたものを、私が復活させたのだが、それは自身が勉強したいためであった。
ただ決定版というような「くずし字」の参考書は、存在しない。
いかなる語学の世界もそうであるように、くずし字や古文書を読む「コツ」は、なんといっても慣れる以外にないからだ。
よい道具がそろっていても、それを常々使っていないかぎり、技は上達しない。
私自身があいかわらずこの世界の初心者であるのは、継続して読むことがないためだ。
しかし、多くの人が継続できる状態ではないからこそ、初心者向けの本は、「売れる」のである。
最近、必要に追われて、遅まきながら江戸図の「祖」(おや)と言われる、「新板江戸大絵図」の「刊記」をあらためて読んでみた。

原文は上掲の通りだが、「初心者」にはところどころ読めないため、図書館で参考書を探していたら、三田村鳶魚の『未刊随筆百種』に「江戸図書目提要」というのがあって、その380ページに同図の刊記が「附言」として活字化されていた。
鳶魚の解読は以下のようなものである。

しかし、これをみて驚いたのは、あきらかな誤読があったことである。
当方の「読み下し」は以下の通りである。
一 此絵図御訴訟を以て板行致し候間、他所にて類板有まじきものなり
一 此御堀之外、東西南北も仕り候様に、仰付なされ候間、追付板行仕出し申すべく候
一 遠方之方角御覧なられ候事、じしやく(磁石)次第に此絵図御直し置きて御覧なされ候はば、相違有まじく候
一 間積リ壱分にて五間のつもりに仕り候、ただし六尺五寸之間なり
一 ■ かくのごとく仕り候は、辻番所なり
一 《 かくのごとく仕り候は、坂なり
一 □ かくのごとく仕り候は、御屋敷之境目なり
一 此絵図此前より世間に御座候へども、相違のみ多し。今度板行仕り候は道筋一つもちがひなく方角間積り迄こまかに仕り候
一 御屋敷の名付相違仕り候ところ御座候はば、御知せ下さるべく候、随分あらため申すべく候
右此外、東は本庄(所)、西はよつや、南は大仏、北は浅草、残らず板行仕り出し申すべく候
さて、どこが違うか、較べてご覧ください。
旧知の今尾恵介さんから話があって、平凡社の標記のシリーズの『5mメッシュ・デジタル標高地形図で歩く 東京凸凹地形案内 2』(今尾監修)で、今尾さんとの対談を交えて、都内の3ヶ所の崖を案内した。
冒頭6ページは、その写真と対談内容である。
それだけでは意味も通じないだろうからと、1ページは書き下ろした。
題して、「崖が坂をつくり、坂が崖をつくる」という。
奥付は今月末になっているが、店頭にはもう出ている。
とりあえず書き下ろしの部分だけ、以下に掲げる。
(画像を2段階クリックすると、読めるように拡大)

書評紙から依頼があった本を、入院先で読んで、退院してから認めた文が掲載されました。
1週間先付の本日発売号ですが、私のところだけ、以下に掲げます。
画像をクリックして、拡大された画像をさらにクリックすると、読める状態になります。
言いたいことは、最後の2パラグラフですので、どうかそこまでお付き合いを。
退院後の体調は、歩けるけれども、あちこちが痛み、疲れやすくなりました。
一旦都心に出掛けると、次の日は家で休むという状態。
人の多いところは嫌ですね。
とくに、エレベータのない駅。
手押し車に依存しているものだから、階段はだめ。
まして、歩道橋なぞ。
エスカレータが中途半端な駅にも、どこぞの国の「情けなさ」が溢れている。
禁欲的に、一日でできることは限られているのを自覚しながらいくしかありませんね。

この3月はじめ、40年ぶりに腰痛再発。
すぐ近所の診療所でレントゲンを撮って、服薬したものの、一向に好転せず、
そのうち痛みで眠ることもできない状態に。
左腰と左足が痛くてどうにもならない。
右側を下に体を丸めていると、少しは痛みが軽減するけれど、それでも眠ることは不可能。
食欲はまったくなく、排尿だけですんでいたからなんとかなったものの、脂汗を流してただ寝ているだけ。
トイレにはようやく歩いて行けたものが、腰を下ろすことができなくなり、そのうち歩けなくなった。
医院に電話して、女房に座薬をとってきてもらったが、それもまったく効かない。
「救急相談」に電話したら、119番してよろしい、とのこと。
10分ほどで運転手も含めて数人が来宅、マグロ状態で運んでくれて、生まれて初めてピーポー・ピーポーに乗りました。
若いけれど、隊長さんはさすがにプロ。
的確な判断で、整形外科医が当直、ベッドも空いてた、比較的近い総合病院に搬送。即刻入院。
その晩は、痛み止めのブロック注射と入眠剤のおかげで、久方ぶりに眠れました。
お見立ては「腰部脊柱管狭窄症」と。
服薬とリハビリ(午前PT、午後OT)、何よりも安静が効いたようで、1週間ほどで車椅子(トイレに行く場合)から解放。
セラピストたちの意見では、姿勢良すぎるというか、反っていて、脊椎と骨盤に負荷がかかりすぎているらしい。
執筆したり、エクスカーション下見などの時は、過剰に集中してしまうのが原因かとも思い当たる。
背中と腰の筋肉が板状、ということは、崖になっていたのですな。
けれどもとにかく、仰向けでも寝られるようになったし、リハビリ体操も自分なりにレシピをつくったので退院を決め、結局12日間の入院で、本日シャバに出てきました。
さすれば、もう外気は妖しげな春。
こなさなければならない仕事は山積みですが、そろりそろりと行きますので、どうかよろしく。
硬派の週刊書評紙「図書新聞」に、ようやくまともな拙著の評が出た(2013年2月2日付・写真を2段階でクリックすると読めるうように拡大されます)。

拙著は現在4刷りだが、初刷りから数えて5ヶ月目ということになる。
『江戸の川 東京の川』以降、江戸東京の歴史・地理・地形を横断した旺盛な著作で知られる、鈴木理生さんの執筆である。
「迷著のような名著」という、過分な評価をいただき、恐縮している。
現在の「東京地形ブーム」が、その本質を「テレビ流れ」のトリビアリズムにおいていて、写真や図版をならべ、知ったかぶりをして面白がっている「景観論」の亜流にすぎないという指摘はまったく同感である。
危機意識や、倫理性がまるで欠如しているのである。
そこまでは触れていただけなかったが、拙著の献辞を「フクシマの地霊に」としたのは、「伊達」ではないことを、ふたたび強調しておきたい。
「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」(テオドール・W・アドルノ「文化批判と社会」)に倣えば、「3・11」以後、「東京」を〈味わい〉もしくは〈楽しむ〉などという心性はそもそも「阿呆」か「能天気」以外の何ものでもないのだ。
「廃〈都〉」こそ、21世紀の列島の未来図である。
その権力志向を買われて、石原ナントカに釣りあげられたイノセ某という元物書き男は、「オリンピック」を連呼するピエロにしかなりえないのだ。
私が、『江戸の崖 東京の崖』に秘めた「毒」、つまり究極のメッセージは、実は「廃〈都〉」にある。
そこまで読んでいただけた人がいたとしたら、物書き冥利に尽きる。
ヨーロッパの最果ての国アイスランドは、数少ない海洋プレートの陸上生成現場であり、
北アメリカプレートとユーラシアプレートの狭間、つまり双璧の崖を見ることができる。
その狭間、つまり裂け目をgyao(ギャオ/ギャウ)といい、世界初の民主議会「アルシング」の舞台でもあるという。
西暦930年に、移民たちがこの裂け目の崖下に集まり、直接議論を交えたと。
つまり、その場は崖の岩壁が音響板となって、谷底を「声」が走り合ったわけだ。
日本列島は、海洋プレート現象としては、アイスランドとは正反対の「沈み込み帯」に位置していて、その反動で地震がおきるとは、よく説明される事柄でもある。
この場合、日本列島は海溝という巨大な崖っぷちにあって、人間はその縁の上に起居している構図になる。
「断崖絶壁」という言葉がある。
断崖と絶壁はどう異なるか。
断崖は、崖の上から崖下を覗いた謂いで、絶壁とは崖下から見上げた場合だという人がいる。
そうかもしれない。
けれども実際の使用例は、かならずしもそうなってはいない。
しかし。
崖下に生まれた民主議会と、崖上崖っぷちの日本の政治はきわめて対照的だ。
ちなみに、ウィキペディアによれば、アイスランドはエネルギー政策の先進国で、水力と地熱発電のみだそうで(核発電=原発はもちろん、火力発電所もない)、燃料電池バスや水素燃料自動車が運行されているらしい。
また、「常備軍」を保有せず、「タラ戦争」(第一次~第三次)でイギリス軍と戦ったのは沿岸警備隊だった(アイスランドが勝利)。
米軍基地も撤収することで合意ができており、実際に米国空軍基地が閉鎖されたという。
こうなると、政治的にも日本とは、賢愚ほぼ真逆の国がアイスランドということになる。
日本のような、中途半端なスケールと、旧「帝国」の神話が、崖っぷちの危険度をますます大きくしているようだ。
政治的にも、経済的にも、「分節」すること。
日本列島上に人間が生きのこる知恵は、おそらくそこにしかないのである。
そうして、「分節」こそが、「民主主義」の本質なのだ。
テレビと新聞・雑誌は、この何ヶ月か、極力見ないようにしてきた。
その予感はあたっていた。
「選挙」の結果である。
自民党の大勝、猪瀬の圧勝、「改憲」の現実化という結果である。
「民主主義」というものは、日本においてはかくも愚かな結果を現出する。
ペットが弱腰の主人を侮り、専制的な「飼い主」を崇める構図によく似ている。
この場合の「ペット」とは、もっとはっきりした言い方をすれば「奴隷」である。
民主党は、「オタオタした素人政治」で、閉塞のイメージしか残すことができなかったのだ。
国家官僚を中核とする、「利権共同体」の高笑いが聞こえてきそうだ。
巨大な金のもとに、とりわけテレビの裏側で、電通や博報堂が暗躍した結果でもあろう。
かつての魯迅と竹内好の指摘は、現在の日本にも、そして中国の現在にも、
それぞれ異なったニュアンスはあれ、もちろん有効なのだ。
ゆめゆめ、「あの国とはちがう」なとど言うことなかれ。
(cf.竹内好「中国の近代と日本の近代」『日本とアジア』所収)
これで「日本」の「国家」的体裁は一見強固となるだろうが、実は長い目でみれば
亀裂と解体、そして動乱のはじまりであったことが、明らかとなるだろう。
地下の、見えない活断層のズレが、一段と大きく成長したのである。