「古地図は、その時代の〈世界観〉を反映したものである」とは、よく言われること。
なにも、古地図に限らない。
地図は、その時代の世界認識を反映したものである。
そうして、これは世界認識に限らない。
地図は、作製者の現在の状況認識を反映したものである。
またこれは、状況認識に限らない。
地図は、作製者の状況認識と作成意図を反映したものである。
さらにそれは、作製者の内部に収束するものではない。
地図は、それを見た者の、状況認識を規定・拘束する。
原発、放射能汚染、にかかわる地図は、その作製者の認識と意図を反映し、かつそれを受容する側の状況認識を拘束する。
かかるところから「風評」は発生する。
と、取敢えず。
図例は後に。
実は、3月24日には、放射性ヨウ素による「甲状腺被曝線量」をあらわす地図が、原子力安全委員会のコンピュータ試算で発表されていた。
いわゆる30キロ圏外でも、3月11日から24日まで屋外にあった仮定しての被曝総量が100ミリシーベルトを超えるところがあると。
IAEAが3月30日に警告した、飯館村の高濃度汚染(1平方メートルあたり2メガベクレル。IAEA避難基準の2倍の濃度)という事実も、この地図が正確に示していることがわかる。
このような地図は、「当局」が意図すれば、つまりつくろうとすればつくれるのだ。
すべては、この地図と、その更新図に依拠して、かんがえ、実行されるのが正しいはずだ。
ちなみに、この地図で「飯館村」は、上部の「福島」という文字のある一画にあたり、県庁所在地の「福島市」は、「川俣町」の西隣(図外)になる。
このような地図は、一度報道されただけで、以後はいつもの同心円図が相変わらずのさばっている。
人は、放射能でいまとりあえずは死ぬことはない、として、かろうじて日常を維持し、政府も「とりあえず」に依存してようやく体裁をとりつくろっている。
しかし、参照すべきは、スリーマイル島事故ではなくて、すでにチェルノブイリ原発事故の例であることは、誰の目にもあきらかになりつつある。
そうして、これらの図をみてもう一つあきらかになることは、20キロ、30キロといった同心円の図が、いかに実態にそぐわず、悪影響すらおよぼすか、ということである。
そこでは、不細工な地図の「力」が、社会に逆作用をおよぼしているのである。
2011年3月24日東京新聞(夕刊)掲載地図
ここに掲げたような地図は、被災地の、そして避難者のもっとも切実に欲している地図である。
これが正確に公表されれば、人は動くすべがある。
風評を封じることばができる。
こうした図が、なぜ日本の気象庁から公表されないのか。
花粉情報はよくて、放射線汚染情報はなぜだされないのか。
それは、通常の判断力をもってすれば、そこに隠すべきものがあるから、と推理するのが正しい。
東京新聞、2011年4月1日掲載
地点ごとの測定数値を記載した地図は、「ないよりまし」といった程度。
しかも、その表現自体、何を意味するかを示さず、ただ公表された数字のみを羅列する朝日新聞のような例と、
過去の数値を併置して、その「意味」を示す東京新聞のような例があって、限られた情報を工夫して伝えようとする意思の有無がみてとれる。
朝日新聞、2011年3月23日
東京新聞、2011年3月24日
今尾恵介さんの新刊『地図で読む戦争の時代』 -描かれた日、描かれなかった日本- (4月9日刊、白水社)は大変よい本だ。
しかし、一見してすぐに暗澹としたのは、そこに紹介されている「戦時情報統制」なみの状況が、いま、日本列島に出現していると気付いたからだ。
「地図の力」とは、一瞥すぐに概況を把握できることだ。
その「力」をもった「汚染地図」が、いま、とりわけフクシマの人々に、切実に求められているのに、国内では公表されない。
あいもかわらず、20キロ、30キロ圏の同心円地図である。
夕刊フジ、2011年3月18日掲載地図
原発を撮影した鮮明な写真画像があるのに、それを公開しない。
そのあまりにも無残な姿は、外国のネットに掲載されている。
それは、敗戦後、天皇がマッカーサーをGHQに訪れた時に撮られた、二人が並んだ写真を思い出させる。
あの衝撃的な写真は、当時の政府が「報道禁止」したが、占領軍がそれを公開させた。
原発の鮮明な写真は、冷却系も配管がずたずたに破断していて、「小康状態」どころではない有様が明白になるから、すくなくとも日本国内では報道に載せないのだ。
3月24日無人飛行機によって撮影された、福島第一原発3号機
ドイツ気象庁が日々発表している、放射能汚染地図も、日本では公の情報とはなっていない。
日本のテレビや新聞は、数字や半円(20キロ圏、30キロ圏)の図を示して、「風評被害」を再生産している。
大日本帝国陸地測量部が作成していた戦時下の地図には、「戦時改描」がなされ、また空白部の多い地図がつくられた。
けれども米軍はより精確な地図を自らつくりあげ、精密な爆撃を行っていたのである。
「戦時改描」や「空白地図」は、結局のところ「国内向け」「国民」に向けの「戦時統制」にすぎなかった。
いま、その戦時下並の情報統制が目論まれている。
おそらく、政府や東電には、「公開されない地図」「公開されない写真」がある。
つまり、秘匿されている、重大な事実、あるいはその「可能性」があるからだろう。
「記者クラブ」や「記者会見」に頼っている、あるいはそこに自己規制しているテレビや新聞はもう機能しないのだ。
人は、情報をインターネットに求めざるを得ない。
多少の希望は、「すき間」があること、人間の誠実さと理性もまたそこに見いだせることである。