陸軍軍人にして貴族院議員、子爵鳥尾小弥太についてwikibediaには「弘化4年12月5日(1848年1月10日) - 明治38年(1905年)4月13日」とあるから享年は57であった。
wikipediaは鳥尾小弥太の「エピソード」の2項目に以下のように書いている(2018年10月15日閲覧)。

「現在の東京都文京区関口付近に本邸を構えていた鳥尾は、西側の鉄砲坂があまりに急坂で通行人の難渋する様子を実見し、私財を投じて坂道を開いた。感謝した地元の人々によって鳥尾坂と名づけられ、坂下には坂名を刻んだ石柱(文京区関口3丁目9と11の間)が残っている」

上掲のうち「西側の鉄砲坂」は「説明板」の文を鵜呑みにしただけの間違いであることは先に述べたが、この文章が問題なのは、小弥太に思い入れした挙句、たしかめもせずに見てきたような美談をつくりあげてしまったところにある。

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上に掲げた地図は1909年(明治42)測図1万分1地形図「早稲田」の一部であるが、「鳥尾坂」はまだ開かれていない。「蓮光寺」の「光」の文字の左側の道は「独逸協会」(現在の独協学園)前の道へは連絡しておらず、斜面を少しだけ上ったと思うとすぐほぼ直角に曲がり、そのまま北にトラバースして鳥尾家の邸宅に至る。つまりこの道は鳥尾家専用のものだったのである。この構造は、前回の1886年の地図に見るものと基本的に同一である。
1909年図は小弥太が亡くなり、嗣子の光が小石川鳥尾邸の主人となっていた当時の記録である。

つまり鳥尾家が坂を開削したかも知れないが、それはすくなくとも小弥太の代ではない。
こういった類の無根拠言説、「実見」などと架空の尾鰭をつけた虚構は、wikipediaをはじめとして、インターネットには充満している。

継続して改版された1万分の1地形図を順に追っていくと、鳥尾坂は1929年(昭和4)図にすら確認できず、それがようやくにして姿を現すのは1956年(昭和31)の第5回修正測量図(「池袋」)においてなのである。
つまり鳥尾小弥太どころか光の代もパスして、鳥尾坂が開削されたのは孫の敬光が当主だった時の可能性が大きい。

しかし、敬光夫人鳥尾鶴代についてwikipediaには「1937年から1940年、鳥尾家後見人の事業失敗によって東京市小石川区(現在の東京都文京区)の屋敷やその他の地所を失い、世田谷区深沢に転居」とあるから、そうだとすれば地図から判断するに鳥尾家による鳥尾坂の開削時期は1930年代前半以外の可能性はないと思われる。あるいは鳥尾坂と鳥尾家の関係は、よくある坂名伝説の類と疑うことすら可能である。

伝説であるとすれば、その形成因子として想定されるストーリーは、破産の末の不動産整理売却にあたって、私道である坂道の一部だけは地元に無償譲渡した、という成り行きであろう。そうであるとすれば鳥尾坂は鳥尾家が開削したのではなく、鳥尾家への道が今日の鳥尾坂の発端になっただけである。「貴種流離」(「貴」と言っても子爵、たかが3代100年未満にすぎないが)は美談に直結する。無償でなく市場価格の半額であったとしても、伝説は成立する。さらに疑えば、「無償」や「半額」といった経緯も存在せず、実際は昔の鳥尾家専用道の一部を利用して、新たに坂道が切り開かれたということにすぎないかも知れない。石柱の存在理由はどちらのケースにもあてはまる。

極東アジアの列島弧においては、水戸黄門や西郷隆盛等々多くの例を挙げるまでもなく、ほとんどのテレビ時代ドラマにおいて美談は虚実織り交ぜ、水平ではなく垂直に、それも降下構造に流れる。大岡裁きを讃える床屋政談は意識的あるいはとりわけネット上で意図的に増幅され、無意識に拡散する。鳥尾坂は、その些細な一例であろう。

「教育委員会」の説明板も地元有力者あるいは古老の言説を優先させて、文書などによる面倒な「裏取り」を省略する場合もあり得るだろう。

以上はひとつの手がかりないし仮説であって、マダム鳥尾こと鶴代夫人の回想録ないし彼女についてかかれたいくつかの本を参照する作業がまず必要だが、それは次の折に。

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