1月 7th, 2018
小仏峠越
サカはミチの傾斜部である。
その傾斜部の上下分岐点をトウゲと言う。
古代にあっては、トウゲもサカであった。
トウゲ(手向け)は、室町時代以降の称と言われる。
ミチは今やヒトが歩くところではなく、自動車の走り過ぎる経路となった。
日本列島のミチもサカも、この半世紀で姿形をまったく変容させたと言っていい。
かつてヒトがあるいたミチは、車輛通行不能の旧道に辛うじて面影を残している。
東京は八王子市の高尾山(山頂標高599m)には、土日の晴れた日など山上繁華街が出現する。
その高尾山の南西、大垂水峠(標高392m)を越えるのは国道20号つまり甲州街道だが、この南迂回路は1888年(明治21)に車輛通行のため開削されたルートで、旧道は裏高尾から駒木野を経て小仏峠(標高548m)を越え、神奈川県側の小原宿(現相模原市)に下る高尾山北迂回路であった。
1880年(明治13)梅雨期の6月17日午前7時、明治天皇巡幸の鹵簿(ろぼ:行列)は八王子の行在所(あんざいしょ)を発し、昼前に甲州街道最初の難所である小仏峠を越えた。小仏峠越えは狭隘険阻、場所によっては最大傾斜角30度を超えて羊腸する上りと下りの山路である。まだ20代の青年天皇睦仁(むつひと)は、輦(れん:馬車)を下りて肩輿(けんよ)に移乗しなければならなかった。
肩輿は轅(ながえ)を複数の人間の肩によって担ぐ輿(こし)であるが、轅の下に懸垂する駕籠(かご)型と、上部に戴く神輿(みこし)型の2種類がある。
駕籠は古代の神輿型から改良された近世の普及品であった。いやむしろ実用性からは発明品と言ってよく、木材ではなくしなやかな竹材を基本とした座乗部(籠)を轅の下に位置させて重心を低くし、担ぎ要員を減数しながらより安定的な移動を可能としたのである。
しかしながら三条(実美)や岩倉(具視)などの明治国家演出者たちにしてみれば、同じ肩輿でも江戸期の大名駕籠を思わせる懸垂型は真っ先に忌避すべきものであった。近世のお蔭参りやお札降りなどに通底する「生き神信仰」と結託させるためには、不安定であっても近代天皇の座乗部は神輿型つまり4本の轅の上に位置しなければならなかったのである。
乗物の過渡的形態にも、日本近代のパラドックス(逆行)を見ることができる。もちろん近代天皇制のフィジカル部最大のパラドックスは、それまで通例の火葬を土葬(陵墓葬)に切り替えたことではあったのだ。
さてしかし、輿を担ぐ側はなかなかに大変である。急傾斜部では前側と後側でその姿勢はまったく異なる。一方は上げ、他方は低くしたままで坂道を移動しなければならない。それでも水平を維持するのは難しい。外からは見えないがたとえ内部に吊り手ないし背もたれの工夫があったとしても、乗っている本人が姿勢を保つには努力を要する。もちろん山道ばかりではなかった。しかし交代要員不在、たびたびのひと月、時には2ヶ月を超える「出張」は疲労累積するものがあったろう。
長期出張すなわち小仏峠越を含む「六大巡幸」は、当人満19の初夏から32歳の盛夏までの、「男盛り」時期に集中した。だから演出側にも本人にも、そして行在所となった地方名望家の側にも、それぞれの思惑から通例「慰安」が用意されたと推測しても荒唐無稽ではないだろう。公娼や妾そして側室はあたりまえ、また男女それぞれの側そして地方ごとの古い性習俗もまだ現役、「電灯以前」の時代でまたご当人はと言えば、実のところ結構な酒好きでもあったのである。ただしそうした「夜の史実」は、その片鱗も記録からは排除され、闇に葬られたであろう。
一方、昼間の華麗な行列演出の泣きどころは、平地部においては舶来の大型馬匹の尻から予告なく落下する大量の糞尿であり、傾斜部においてはとりわけ下り坂での馬車制動(ブレーキ)の不十分さにあっただろう。なにせゴムタイヤ以前の話である(明治神宮宝物殿の「六頭曳儀装車」の写真を見ると、車輪の接地面は空気入りタイヤ以前のいわゆるソリッドゴム式である。ただしこの馬車は明治末期のものと思われる)。
しかしさらに険しい甲州街道最大の泣きどころは、2012年12月に9人の死者を出したトンネル天井板落下事故でいまだ記憶に新しい、笹子峠(標高1096m)であった。