前回の〈「ハケ」は、「ガケ」ではない。まして「崖線」ではない〉(2016・11・20、collegio.jp/?=819)および〈水の場所〉(2016・9・22、collegio.jp/?=813)は、拙著『江戸の崖 東京の崖』の訂正補遺であるが、ことのついでに訂正3として標記についていささか述べておきたい。

国分寺崖線の定義については、松田磐余先生が『季刊Collegio』(No.62、2016年夏号)について述べているのがもっとも妥当すると思われるので、以下長くなるが引用しておきたい(数字表記を改変)。

 〈武蔵野台地を多摩川沿いの地域で説明する時の必須の術語が国分寺崖線で、大岡昇平の『武蔵野夫人』(雑誌『群像』、1950年)で使われた「はけ」と一対で出てくることが多い。筆者もそうであったが、地理学専攻者でも、命名者を知らずに、国分寺崖線という術語を使ってきた。『武蔵野夫人』が発行された2年後の1952(昭和27)年に、国分寺崖線という術語が福田理と羽鳥謙三両氏によって定義されたことを世に知らしめたのは本誌を発行している芳賀啓さんである。その経緯は日本地図センター発行の『地図中心』2012年3月、4月号に掲載されている。両氏の定義を簡略化すると、国分寺崖線は、武蔵野段丘と立川段丘とを境する段丘崖で、北多摩郡砂川村九番付近から世田谷区成城付近に至る、となる。砂川村九番(現立川市幸町)から段丘崖が明瞭になるし、世田谷区成城の約100m下流で立川段丘は沖積面下に埋没していく(交差する)ので、この間を国分寺崖線と呼んだと推測できる。
 鈴木隆介氏は『建設技術者のための地形図読図入門 第3巻 段丘・丘陵・山地』(古今書院、2000年)の中で、段丘面が2段以上あるときに、一つの段丘面の後面(高い方)の崖を後面段丘崖、前面(低い方)の崖を前面段丘崖と呼ぶことを提唱している。扇状地などの氾濫平野は、離水後、ほぼ同時に前面段丘崖が形成されて段丘面となる。国分寺崖線を地形学的に定義すると、武蔵野段丘の前面段丘崖、もしくは立川段丘の後面段丘崖となる。どちらの定義でも、国分寺崖線は成城付近で終わらなくなる。前者の定義を採用すると、国分寺崖線は武蔵野段丘が続く限り、下流部に延長でき、田園調布台まで続く。また、現在では、武蔵野段丘はM1、2、3面の3面に区分されているので、形成年代の異なる段丘面の前面段丘崖の連続となる。後者の定義を採用すると、立川段丘が沖積面と交差しても、段丘崖は沖積面下に下部が埋まって、上部が沖積低地から顔を出すことになる。多摩川低地の下流部は縄文海進時に埋積されているので、多摩川低地と武蔵野台地間の段丘崖は国分寺崖線となる。崖線という術語は「はけ」と同様に地形学用語ではないので、混乱をさけるためには、国分寺崖線は福田・羽鳥両氏の定義を使用して位置を確定し、より下流部の段丘崖は、その延長部もしくはほぼ同時期に形成された段丘崖としておけば無難であろう。〉

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鈴木隆介『建設技術者のための地形図読図入門 3 段丘・丘陵・山地』560ページの図11.1.3(段丘模式図)から、段丘面、段丘崖、開析谷および前面・後面段丘崖の関係

引用文末の「崖線という術語は「はけ」と同様に地形学用語ではない」とあるところに注意されたい。
1981年に刊行された『地形学辞典』にも「崖線」という用語は見当たらない。一般の辞典にも同様であることは既に拙著に触れておいた(『江戸の崖 東京の崖』17ページ)。何故か。

鈴木隆介著『建設技術者のための地形図読図入門 1 読図の基礎』(1997)の139ページ、「地形面の定義」の項に地形面のもつ6種の性質の説明があって、それにつづいて
 〈これらに対して、段丘崖、谷壁斜面、地すべり地形、山地・丘陵の斜面などのような急斜面で構成される地形種は地形面とはよばれない。なぜならば、これらの地形種も上記の①~④において等質性をもつ部分に細分されるが、その等質性をもつ部分は一般に小面積であり、かつ地形変化速度が緩傾斜ないし平坦な地形面に比べてはるかに大きく、その形成時代を特定しがたいからである。〉
と記す。
要は、地形学上、急斜面(崖)は本質的存在とはなり難い、ということである。

さらにつづけて、
 〈重要な地形面には固有名を付ける。東京付近では、下末吉面、武蔵野面、立川面などが著名な地形面である。地形面の命名法については国際的な規約はないが、地層名の命名法と同様に、慣習的には次のように命名される。/①その地形面の最も代表的な地区に成立している地域や都市、集落の地名を付ける。その際、分布範囲の広い地域面については、それにふさわしい広域的な地名を付ける。/②地名+地形種名の形で命名することもある。/③狭い地域に、同じ地形種で、しかも新旧の地形面がいくつもある場合(例:段丘面群)には、その地形場にしたがって上位面、中位面、下位面とか、形成順序で古期面、新期面あるいは数字を付ける(略)。/④人名や研究機関名は付けない(地形は人類共有の自然である!)〉
と、地形面の命名法に触れているが、「国分寺崖線」については、同『建設技術者のための地形図読図入門 3 段丘・丘陵・山地』(2000)の615ページ、「侵食扇状地起源の広い岩石段丘」の項において〈立川面の後面段丘崖は延長が長いので、とくに国分寺崖線と命名されている〉として、例外的な命名であることに注意を促しているのである。

「国分寺崖線」とは、例外的に許容された地形名である。
つまり〈××崖線〉などというネーミングを勝手に乱発してはいけないのである。
拙著の「日暮里崖線」という言葉は取り消さなければならない(p.6,18,19,25,26)。
まして、命名法にまったく無知で、その原則に違背している「南北崖線」などという呼名においてをや(〈《南北崖線》という「ネーミング」について-『き・まま』4号に寄せて〉2015・4・25、collegio.jp/?=737参照)。

One Response to “国分寺崖線の定義と「崖線」という言葉について”

  1. 古典パンon 27 11月 2016 at 11:01:15

    恒例の高齢の信州人です。
    我が郷土には誇るべき国歌「信濃の国」があり、その中に「松本・伊那・佐久・善光寺、四つの平は肥沃の地、云々」というフレーズがあります。解同隆盛たりしころ、「四つ」ゆえに禁歌になりかけたとき「四つはヨッツでヨツに非ず、全然チャウで!」という我が国人の発音常識が関西人には通用しなかったのも今は昔となりました。
    さてその4ッつ、長野県地形図を思い浮かべられるほどの人であればすぐに?と思うでしょう。木曽は、諏訪は、大町は、さらに飯山は、上田は、……人であれば片手落ち、獣であれば両手落ちならずや、となりますが、ここはたかが歌の文句と目をつむります。気になるのは平(タイラ)です。これって、学術用語ですか? 高校入試までは信州教育の虚栄を担う信濃教育会が牛耳っていたので「善光寺平」が正解でしたが、高校に入ってアカと言われている先生は「長野盆地」がスターリンの如く唯一絶対で阿片宗教的「善光寺」も封建的「平」も不可と教えられ、以後そのように洗脳されたままでいます。私的唯ブツブツ論は離れて現状をつらつら眺めるに、佐久「平」だけは生きています(佐久「高原」というのもあります)が、他は松本「盆地」、長野「盆地」、伊那「谷」、ハブにされた木曽は木曽「路」等々として観光登録されているようです。
    佐久はいったい盆地なのか、平原なのか、高原なのか、地学地理学地質学等の自然学では統一規定が是非必要でしょうが人文学としては異称にこそ意味があるのです。
    学者輩が定義する崖・崖線、段丘崖から派生する崖頂線・崖麓線、特に関東考古学界から湧出した国分寺崖線等々と、古来生活者のとらえた「ハケ」は別次元のカテゴリーですが、町興しフェスなら崖線にハケとルビっても一向に差し支えないでしょう。町と街が本来まったく別物であっても、観光ポスターのキャッチは「森の町、仙台」でも「杜の街、仙台」でも何でもアリなのと同じでしょう。
    ガケとハケを同語同祖とみるなんてことは信じられない学者の勇み足で、かつて本居宣長が「神は上に居ませばカミなり」とやってしまって、橋本進吉が『古代国語音韻に就いて』で神のミと上のミは背反する音で転化することは無いと断じたのは快哉、宣長翁面目丸つぶれを想起させますが、今回の補訂と自己批判は倫理的にリッパだと思います。
    橋本本は岩波文庫の名著だったのが今は青空文庫に入っているんですね。
    あと、国分寺崖線のほとりの「恋ヶ窪」にロマンチックなデートをするカップルの大いなる誤解については柳田國男がエッセイで述べていますが、あいにく彼の定本は長野の実家にあり、出典を詳らかにしません。
    (追記)ハケはガケというのが誤りであることは明白なことですが、そこに至る諸論点は専門好事的過ぎてよく分かりません。

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