collegio
10月 6th, 2016
10月 6th, 2016
評林・白泉抄
僭越乍ら今号より暫し本欄にてお目汚し参らせたく存じ候。兄姉如何なればと問ふなかれ。
現今吾等往方に形なく色なく而しておほいなる陥穽待ち構へをるにあらざるか。
其の無形強ひて名付くれば「日本」ないし「日本的なるもの」なるべし。
世々日々圧力を増す袋の如き壁の如き存在是にて、彼の内部にありて将来にわたり正気を保つこと中々に易からざるものありと存じ候。
「空気」変容相伴い増長するは無知と無理或いは野蛮と畸形、総じて日本ないしその「文化」より還元さる「矮小」なるべし。
吾等が自然なるもの人間なるもの普遍なるものは居処(きょしょ)を狭くし或はそを失はんとす。
日米開戦の報に接し一回転せし高村光太郎の脳髄その典型と認めて然るべし。「異様」を異様(ことざま)と認むる眼こそ欲し、また貴く存じ候。
我列島内外幾百万の飢餓屍を延べしかの戦の折、いささかの「正気」を保ち、そを表しえた渡邊白泉(1913・3・24‐1969・1・30)の稀有なる俳業をこそいま見るべきと存じ拙文起こし候。
「戦争が廊下の奥に立ってゐた」
こは彼(か)の代表句にして、現代日本語短詩(俳句)最大遺産のひとつと存じ候。
己を取巻く「空気」をして斯く如く凝縮具現せしめたはその「正気」ならずや。此処に加へ、敢へて『渡邊白泉句集・拾遺』(1975)収録句の末尾より
「桃色の足を合はせて鼠死す」
を掲げたし。昭和32年頃(1957)と注記あれば沼津高校教師時代毒団子鼠見ての作ならむ。
季語の有無何せむ、ヒューマン否、己もまた生けるものてふ悲哀失わざるこそ貴ければ。(青崖・続く)
【「ナベサン句会報」第7期9号、2016・9・15掲載】
彼の脳中の意図はかりがたき唐突の文章なれど、視点を表記のみに置きても、
戦争が廊下の奥に立「っ」てゐた
将たまた末尾の一文
己もまた生けるものてふ悲哀失「わ」ざるこそ貴〔と〕ければ
なぞことばを失「ふ」のみ!
然れば隣る国の首、朴某の如く、発表前に旧来の知遇に内示して校を求むこそ勝手なれとぞ