「臣民」ということばがある。

「王」以外の存在を、引っ括って言ったものだが、騙されてはいけない。
「臣」と「民」の間には、目も眩む落差、つまり崖がある。

白川静を持ち出すまでもない。
ちょっとした漢字辞典を参照すれば書いてあることだが、「臣」も「民」も“視覚”を焦点化した文字である。
あからさまに言えば、それぞれの文字の中心にあるのは「目」なのだ。

「臣」の場合は、大きくみひらいた、明晰な「目」であり、専制者に助言する、有能な配下を意味する。
方や「民」は、本来は征服された部族民の意で、その「目」の一方は征服された証に鍼(はり)で刺突され、片目となったことを示す象形文字である。

「民」は、「王」や「臣」を直視する身体機能、あるいは武具を操作する距離感覚を、物理的に剥奪された存在なのである。
江戸期の身分上の呼称である、「お目見え」という制度は、なにも江戸時代にのみ存在したのではなく、アジア専制制度の根幹をなすものの一端であった。

アジア専制制度は、現在なお政治の中枢原理として機能していて、東アジアの大陸とその周辺において、そのことを物語るエピソードには事欠かない。

拙著『古地図で読み解く 江戸東京地形の謎』の巻末で「江戸図最大の謎」として指摘した、江戸図が世界に類例のない「人名都市図」であった、という事実もこの「臣民」にかかわる事柄である。

江戸図に屋敷名として登場する「人名」は、すべて将軍家にとっての「臣」なのである。
「お目見」以上が明らかにされているのが「城下町絵図」(江戸図は「総城下町絵図」)であった。

「お目見」以下は「徒歩(かち)」である。つまり、原則として「馬」に乗る資格がない。
だから、森鷗外が樋口一葉の「野辺送り」に際して、「騎馬で付き添う」ことを申し出た(それは結局遺族(妹)によって退けられたが)のは、自分をあくまでも「臣」の側において、「民の天才」の「保護者」として演出したかっただけの話である。

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