11月 21st, 2009
NAVIとMAP (地図原論 見えないもの・その6)
地図にまったく無縁の人々がこの世に存在すると言えば、人は疑問に思うかも知れませんね。
どんなかたちにしろ「地図のようなもの」は人間の能力に備わっているのではないか、と。
書名は忘れてしまいましたが、昔読んだ地図史の本に、壺だか洞窟だかに地図のような表現がみられたとか、地図は文字よりも古い人間の表現形式だというようなことが書いてありましたが、果してそうでしょうか。
図も絵も同じようなものだから、洞窟絵画があるなら似たような時代に地図(的絵)もあって然るべきだろうというような、「ぬるい」憶測がそこにはあるように思えます。
それが所与のものとして社会に流通している今日では、とりわけ難しい表現だとは思われないかも知れませんが、地図は結構高度な認識構造であって、文字などと同じく人類史の末期に出現した人工メディアのひとつといっていいのではないでしょうか。
むしろ、地図的認識(=地表に対する上空からの垂直視線)は、そのメディアの普及と学習の結果、後天的に備わったイメージの一形式と思われるのです。
ためしに、通常地表面を生活圏とする生き物としての私たちが、紙や布あるいは液晶画面などに再現された「地図」を持たないで移動する場合の、一般的なプロセスを思い浮かべてみましょう。
「××の店の先を右折」して、それから「2本目の角を左折して・・・」というように伝達や記憶をたどり、常に前進しつつ、そのルートのポイントごとに行動をシフトしていくのが普通ですね。
カーナビがその典型で、画面の方位は進行方向に従って変化し、音声が右だ左だとシフト点を瞬時に提示してくれますから、それに従って常に前方を見ていればよい私たちの世界像(イメージ)は一本の流れ(ルート)のように認識されます。カーナビの本質は、「面」と「一覧性」をもった地図ではなく、時間に沿って途切れなく連続する楽譜に近いのです。
地図は平面つまり二次元に描画展開していますが、それをつくり、また見る(利用する)には上から見下ろす視線を前提としています。つまり地図認識の骨格は三次元になっているのです。
それに反して、地表面に接して導かれるナビゲーションは、左に曲ろうと右しようと、それをたどって行く側の認識としては二次元ですらなく、一次元(直線)構造で済んでしまう。「地図」が常にそれを前提としている「想像の視座を空中に翔け上がらせる」必要は、まったくない。カーナビやケータイナビの要諦を地図的視点から堅苦しく言い表せば、「認識のディメンション・ダウンによる直接性」ということになるでしょう。
かつてグラフィック・デザイナーの杉浦康平さんによって試みられた一連の実験的作品がありました。「犬地図」と名付けられたそれは一部の人々の間で反響を呼びましたが、杉浦氏自身は失敗作であると語って完成まで続けることを断念されたようです。
そこで表現されていたのは、「地図」というよりも一種のルート表であって、単純化すれば一本の線のところどころに結節点を設け、臭いや音、曲折(右折、左折など)その他の情報を記載したリボン状のもので、それは「面」という広がりのなかに事物の位置関係を配置したMapではなく、むしろNavigation Graphというべきものでした。
「犬地図」は地図ではなかったのです。
犬と人間を一緒にする、と言って怒られるかもしれませんが、すくなくとも人間の狩猟採集経済社会においてはナビゲーション伝達が専らであって、地図はとくべつ必要なかったと考えていいのです。
「地図らしい地図」の発生は、領域国家の出現と軌を一にしていたことでしょう。強力な地方管理とその登記を必要とする「上からの視線」が、地図の誕生に決定的な役割を果たしたでしょう。つきつめてみれば、地図の視座は心的視座でもあったのです。領域を所有したり、統治したり、配置したり、攻め込んだり、爆撃したり・・・といった視座に縁遠い、「地図を読めない人」がいるのは当然の理でした。「とりあえず今日を生きる」身であれば、「領域世界を一覧し、策謀する」必要はどこにもないのです。