古地図の話のはずが、登場するのは最近の図ばかり、というご不満もあるでしょうから、この辺で「最古の江戸図」をいくつか参照することにしましょう。

まずは『別本慶長江戸図』と呼ばれるもの。
江戸草創の頃の簡単なスケッチのような地図で、弘化2(1845)年の写図ですが、考証者によって慶長7年頃の様子を示すとされています。
つまり家康が江戸入りして12年後、征夷大将軍となって江戸幕府を開く1年前。五街道の制もなく、日本橋が架けられる以前の江戸城周辺(内濠一円)の概観で、この図のもっとも特徴とするところは、「日比谷入江」が明瞭に図示されていることなのです。どんな江戸古地図といえども、このような図はほかにありません。
古地図は現代図と照合しやすいように、ほぼ北を上にしています。

「別本慶長江戸図」
「別本慶長江戸図」

これで本題の「神保町」周辺をさぐってみましょう。
そうするとなんとなくお判りかも知れませんが、左上の川筋でゆるく囲まれた凸部が、現在の北の丸公園にあたる地域で、つまり凸部の先端が「田安門」ですから、その内側は現在の「日本武道館」があるところです。このあたりは、緑色に着色され「竹やぶ」と記入があります。

「別本慶長江戸図」部分(北半)
「別本慶長江戸図」部分図

その右手、内濠をかねた川筋の外には「登り坂四つや道」と書かれています。
この「登り坂」が現在の「九段坂」とかんがえられますから、神保町はこの坂下に位置することになります。
そうすると濠の内側に「士衆住居」とあるあたりが「パレスサイドビル」(毎日新聞社ビル)。まだ「一ツ橋」はなく、そのさらに右手の橋(「柴崎口ト云」とある)が神田橋に相当。
そうして、先ほどの「士衆住居」の下辺に「平河ト云フ所」と「竹やぶ」の間にある橋が、現在の平川門でしょう。
日比谷入江は、慶長7年の時点で大分埋め立てが進んでいたのではないかと思われる節があります。残されている海面は、日比谷-有楽町辺でしかないのです。

「別本慶長江戸図」部分(南半)
「別本慶長江戸図」部分

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