一昨日『トポフィリア』(トゥアン)の文庫本を探しに荻窪の古書店に立寄ったところ、それは見当らず逆に上記が目に入った。
いずれも文庫本だが、タイトルにはそれぞれ別様の懐かしさがあって手に取った。
手には取ったものの棚に戻し、昨日2冊とも図書館で読了した。

「無伴奏」とはかつて仙台にあった、伝説的クラシック喫茶の名である。
40年前の7月7日、ちょうど還暦の誕生日に亡くなった母親から、私はその名を聴いたことがある。
それが何時だったかどんな話だったのか、今となっては記憶の彼方だが、母の声は耳底にかすかに残る。
バロックどころかクラシック音楽にも疎かった母がそれを言うのも妙だが、店の所在がその勤務先(電力ビル)の裏手だったゆえか。

私が仙台の実家を離れ上京したのは1968年の2月で、新聞配達店住込み予備校生としてだった。
だから私にとってクラシック喫茶と言えば、まずは高田馬場駅の近くにあった「あらえびす」(野村胡堂)で、仙台のそれは残念なからついに足を踏み入れることはなかったのである。

1970年頃の仙台を舞台とした小説「無伴奏」は、単行本(1990)から文庫化(1994)そして映画化(2016)と、幸福な経路をたどったようだ。
著者の小池真理子は「短編の名手」と言われるほどの作家らしいが、この歳までいずれとも無縁であった。
そもそも小池真理子と林真理子という人物の区別がつかなかった。

林真理子が日本文藝家協会の理事長になったとき偶然その書いたものを読み、当該者が理事長である組織に所属するのを恥と事務局に通告して協会を退会した経緯で、林真理子という固有名詞をは私の中で識別されることになった。

もう一人のもの書き真理子さんは、今回ようやく「宮城県仙台第三女子高等学校」の3学年下に在籍し、学園闘争で「ゲバルト・ローザ」の称を得たらしいと、私の中でイメージが結ばれたのである。
仙台の県立ナンバースクールは当時第1から第3まで男女別計6校あり、私はそのうちの1校の出なのであった。
懐かしいとはそれだけであって、作者本人とは面識もなくその著作も「無伴奏」以外は知るところがない。

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片や「査問」の著者川上徹氏は私より9歳年長、「東大闘争」などでは現実に民青ゲバルト部隊の元締めをつとめた人物だが、出版人としてよく見知った間柄で、8年前の2015年1月今の私と同歳74で亡くなった。
元全学連中央執行委員長、民主青年同盟中央執行委員であり、その人生の一時期は生粋の「職業革命家」であった。

この本はその彼が1972年5月9日、日本共産党本部に呼び出されて約2週間、自殺防止の監視人付監禁状態で「査問」を受け、「自己批判」に追い込まれた事実について本人が書き記したもので、1997年に発刊された。
その本が出たことは当時から知っていたものの、読むことはなかった。
中味の見当はおおよそついたつもりでいたからである。

26年目にしてページをめくると活字を追うのが止められず、一挙に読み終えてしまった。
作品として読ませる勢いは「無伴奏」も同レベルと言ってよく、結果的に2冊を一気読みするこことになったが、一方は当方に場所のなつかしさ(トポフィリア)があるとはいえフィクション、他方はノンフィクション、質量の位相が異なる。

「無伴奏」は恋愛ものであるが推理小説仕立て(もっとも小池真理子氏は推理小説作家ということだが)で、ストーリーは映画に相応しいものかもしれない。
しかし読み手にとってはネタバレも早く、殺人の設定はリアリティが薄い。
「ソドミ」などという言葉も、今日となってはこの作品の生命を短いものにしたと言えるだろう。

「査問」のほうは、あらためて考えさせられることが多く、また大きい。
同居していた川上氏の両親は、戦前の治安維持法下に逮捕・投獄の経験をもち、根っからの「共産党シンパ」であったにもかかわらず、本人の「失踪」から12日目、党本部に呼び出された川上氏の妻の帰宅を待って電話をし「これから人権擁護委員会に電話する」と通告したという。

党派内の論理では「ブルジョア国家」の論理(人権)や機関(―委員会)に頼るとは何事か、ということになるだろうが、この電話は「効いた」のである。
30分もしないうちに党本部から幹部2人が到着して、「間もなく帰る」「党の立場を分かってほしい」と弁明これつとめ、実際川上氏もその2日後に「釈放」された。
「籠る」ことが条件だった。「消され」なかったのは幸いであった。

それでもしかし川上氏は党員でありつづけた。逡巡に逡巡を重ねたと書いているが、離党したのは「査問」から18年後の1990年の11月。
それも党中央委員会からの呼び出しに応じてその「除籍」通告を受け入れたのであって、持参した「離党届」は出さないままだったという。
律儀というべきか人が好いというべきか。

ただし、「査問」は川上氏本人も行う側であった。
第2章「査問する側される側」で披露している、「東大闘争」での「敵方のスパイ」に対する「正義」のリンチは凄惨である。

私は思いきり男の腹を蹴り上げた。
「ウッ」と言って、男は座っていた椅子から転げ落ちた。それを合図に一斉に蹴りが始まった。「顔はヤルな」。私が命じた。

深夜、ふらふらになった男を安田講堂の近くで釈放した、というが「その男」が内臓破裂していなかったとは言えない。
「東大」は1968年だが、1972年11月の早稲田大学構内における革マル派による川口大三郎君リンチ殺人とも、既視感はダブる。

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1972年1月から2月にかけて、「連合赤軍」の山岳ベースで行われた「総括」(リンチ)による死者は、20代の男女12人を数えた。
ソビエト連邦の草創期と粛清期、中華人民共和国文化大革命期の犠牲者は莫大な数にのぼり、桁数がまったく異なるけれども、ゲバルトの構造は同一である。

高校生や大学生の「運動」は、紅衛兵のようなあからさまな背後権威(毛沢東)をもたず、「全共闘」内部のゲバルトも知られなかったかも知れないが、「其処から此処まで」は一跨ぎである。

ジェルジンスキー(「革命の剣」)を英雄視するのは、誤りである。
絶対的「正義」は、疑うべきである。
正義は、相対に見出される。
民主主義とは、つまるところ相対主義である。
その苦い「価値」をこそ噛みしめるべきである。

相対主義とは、俗に言えば是々非々である。
それは権威が下達する「属人主義」の、対極に位置する「属事主義」である。
事にあたって個として物事を確かめ、受感し、判断する、一連の作用を失わない立場である。

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