8月 7th, 2023
地図の定義をめぐって
拙稿連載中の『武蔵野樹林』誌が先月末発行された。
ただし巻号なく、メインは現在角川武蔵野ミュージアムで展示中の「体験型古代エジプト展 ツタンカーメンの青春」紹介の別冊図録なのだが、拙稿「武蔵野地図学序説 その9」はそのまま掲載された。
このところ早稲田大学エクステンションセンター夏期講座の準備に時間をとられているため詳細は省き、以下全5ページのうちの最初の1ページを画像とし、また標記の1節のみを掲げる。
地図の定義をめぐって
しかし一般の地図の定義は、「地表の形状を一定の約束に従って一定の面上に図形等で表示した画像」(日本国際地図学会『地図学用語辞典 増補改訂版』1998年)とされ、Wikipediaの同項でも、『ブリタニカ百科事典』を引用して「地球表面の一部または全部を縮小あるいは変形し、記号・文字などを用いて表した図」と記す。つまりあくまでも、リアル世界の「画像」とするのである。
「画像」であるから、砂絵でも紙に印刷されたものでも、液晶画面のそれでもよい。この定義にとくに問題はないように思えるが、実はそうではない。「画像でない地図」もあり得るからである。それは前述(イマジナリー・マップ)に示唆したように、画像を媒介としない地図は、場所の認知のありようがただちにその生死を左右したであろう、ホモサピエンスの出アフリカ以前からの長い歴史において、画像の地図よりも桁外れに奥深い歴史をもつと考えられるからである。
また一方で、地図が伝える情報は地球表面に関するものとは限らない。2019年1月、中国の無人宇宙船が月の裏側にはじめて着陸して話題となったが、月の地図もつくられれば火星の地図も存在し、「銀河系の地図」という表現も、何の違和感を生じさせない。「地」「図」という文字に捉われた「地図」の定義では、すでに不十分なのである。
地図の定義をつきつめれば、「空間の認知と記憶から伝達にわたるメディア」となる(拙稿「想像地図」『地図の事典』2021年、p.134)。「紙の地図」や「液晶地図」などと言うとき、我々は地図が我々自身の身体および精神の拡張としての認知から伝達にわたる技術、すなわちメディアであることを、すでに承認済みなのである。この定義において「空間」とは、リアル、イマジナリーのいずれか一方ではなく、両界にわたるのである。
言葉もメディアであれば、「言葉の地図」が存在する。その始原の姿は、オーストラリア先住民(アボリジナル)の「ソングライン」(歌の線)に垣間見ることができるだろう。「紀行文学の最高傑作」とされるブルース・チャトウィンの『ソングライン』(邦訳1994年)では、それは次のように言い表された。
「オーストラリア全土に延びる迷路のような目に見えない道」「ヨーロッパ人はそれを〝夢の道〟あるいは〝ソングライン〟と呼んだ」
「歌が地図であり、方向探知機であった」「歌を知っていれば、いつでも道を見つけ出すことができた」
「少なくとも理論上は、オーストラリア全土を楽譜として読み取ることができた。この国では歌に歌うことのできない、あるいは歌われることのなかった岩や小川はほとんどないのだ」「それはあちこちに曲がりくねり、あらゆる〝エピソード〟が地理学用語で表現可能だった」
言及されているのは、文明すなわち都市や国家発生以前の「地図」の姿で、現在の静止固定された認知パターンとは次元が異なり、経路移動(時間)を本質とし、視覚ではなく聴覚すなわち音と律動(リズム、または拍)によって媒介される地図なのである。言い換えれば、それは「歌による場所の記憶と伝達の技術」だが、「空間の認知と記憶から伝達にわたるメディア」であることに変わりはない。
本連載前々回の指摘「採集や狩猟を専らとした移動社会の地図は無形の「口承地図」であるのが一般的で、そこでは地名とは地形に即した地点地名が主体であった」(『武蔵野樹林』vol.11,p.73)をここで繰り返しておくことも、無駄ではないだろう。しかし国家や都市出現以前の「地図」の姿あるいはその「技術」は今日では我々の意識に上らない、もしくは想像し難い領域に退いてしまったのである。