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二枚橋 その8

さて舞台は小金井の二枚橋にもどって、その一帯を前回紹介したと同様の大縮尺図で見てみることにしよう。
「三千分一東京西部十二号ノ一 多磨墓地東部」(薄藍:1942年6月空中写真測量、大日本帝国陸地測量部、都市計画東京地方委員会。墨:1953年3月測量、東京都建設局)の一部である。

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前出の図とくらべ容易に見て取れるのは、人家がほとんど存在しないことである。
図中央下寄りの二枚橋直下に等高線の標高数値44が見える。その数値の両側に2点鎖線がぶら下がるように描かれているが、この線は町村界として用いられており、二枚橋に南東で凸型に接するのが調布町(1955年市制施行)、「西武鉄道」の「道」という文字に掛かる2点鎖線の西側(左手)に広がるのが多磨村(1954年、府中町と西府村と合併、府中市となる)である。
図の右手「南梶野」という縦文字の左側の3点鎖線より東側(右手)が三鷹市(1950年市制施行)で、上辺中央に横書きされている「小金井町」(1958年市制施行)と併せ、4市町村の境界領域が複雑に入り組んでいる。
そのなかで二枚橋は境界そのもので、かつ境界を象徴した存在であることがわかる。

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