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二枚橋 その7

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都立殿ヶ谷戸庭園の中央付近に立っている「馬頭観音」の石塔。表面に「百万遍成就 馬頭観世音」とある。
後ろの説明板の記載は以下の通りである。

「馬頭観音の石碑/建立年代 文政七年(一八二四)七月二十三日/施主 国分寺村 本多氏/ 石柱 福島県産 八目石(やめいし)/市内に現存する馬頭観音十一基の内の一つ 当時の国分寺村は、戸数六十六、男一五七人 女一四九人、馬が二十二頭という状況でした。/これは、江戸幕府が同程度の村に期待した馬の飼育数十五頭を大きく超えています。/馬は農村の大切な担い手でしたが、その他にも、農耕の合い間に江戸へ薪炭、野菜などを運ぶ賃稼ぎにも馬は欠かせないものでした。/国分寺村が府中宿への助郷(すけごう)として馬の供給を負担していたことも、この村に馬が多かった理由のひとつでしょう。/そうした国分寺村の路傍に、/この石碑はひっそりと建っていました。」

記載責任の記名がないが、数字をしっかり挙げているから、国分寺市の文化財課などが起稿したものかもしれない。この文章中「市内(現国分寺市)」Aと「当時の国分寺村」Bとは、A⊇Bの関係つまりBはAの部分集合である。10の村が合併してできたエリアに、石塔が11基すなわち馬捨場が11箇所所在した、というのも理にかなう。
問題は「路傍」である。
住吉𣳾男著『殿ヶ谷戸庭園』(東京公園文庫47、2007年)は「園内の馬頭観音は、庭園の南西のはずれに馬を捨てる場所があったことが由来で、文政七年(一八二四)に村人が建立したもので、明治の初めまであったようである。岩崎家が園内に祀っていたもの」と書いている。
元来石塔は現在の位置になかったということである。
しからばそれは現殿ヶ谷戸庭園の南西隅にあったのかというと、そうではない。
馬捨場の位置は、村境であり地形の変換点であり、かつ「路傍」でなければならない。
前回述べたように、旧岩崎邸の塀は「池の坂」に接していたのである。
つまり「庭園の南西はずれ」とは、現在の殿ヶ谷戸庭園のそれではなく、戦後切り売りする以前の別邸敷地の南西隅か、あるいはその「外れ」すなわち敷地外に隣接した場所を指したかのいずれかである。
馬体の処理という物理的条件および他所馬捨場の例を併せ考えると限りなく坂下であったろうから、後者の可能性が大きい。

都は三菱の岩崎彦弥太家別荘を1979年に買い上げて庭園としたのだが、そもそもは江口定條(えぐちさだえ。元南満州鉄道副総裁、貴族院議員)が1913年から2年がかりで設けた別邸で、庭園は著名な庭師仙石荘太郎が手掛けたという。
池の坂の傍らにそれこそ捨てられていた石塔を、庭園石としてその中心に据えたのは仙石であったかも知れない。

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「三千分一東京西部十八号ノ三 国分寺」の一部。
この図は1933年空中写真測量による「大日本陸地測量部 都市計画東京地方委員会」発行図を薄藍で印刷し、その上からあらたに墨のインキングで製図し直された東京都建設局の都市計画用原図である。この図には作成年の記載がないが、他図の例から1953年3月に写真測量で作成されたものと思われる。
この大縮尺図からは、さまざまな興味深いことがらが読み取れるが、とりあえず本題に限って言えば、図左側にみえる当時の岩崎別邸の範囲が明白になることである。それは、細い二重線の間に斜線の入った1940年式「石、混凝土、煉瓦壁」の記号から読み取れる。
馬頭観音の石塔は現都立庭園と位置が同じとすると、「岩崎別邸」の「邸」の文字の右側の本館の南南東でギリシャ文字のΨ(プサイ)状に4本の小径が交叉するところに、それは存在したはずである。

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