6月 26th, 2007
古地図巡礼 map pilgrimage
百本杭(ひゃっぽんぐい) 現・墨田区両国一丁目・横網一丁目
「本所側の岸の川中に張り出でたるところの懐をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり」。これは明治35年に刊行された幸田露伴の『水の東京』の一節です。いつの頃か、多分大正の震災前後までには取払われたと思われる護岸杭ですが、隅田川東岸の一角で現在の総武線鉄橋の真下近辺にあたります。隅田川流れる両国は江戸東京博物館から横網町公園一帯は、江戸時代、幕府の広大な「御竹蔵」でした(左図「分間江戸大絵図完」安政6年)。
その「御竹蔵」は明治維新で接収され陸軍の施設となりますが、大正12年の関東大震災には3万8千人の焼死者をだした「陸軍被服廠跡地」として知られ(右図・1万分1地形図「日本橋」明治42年測図・陸地測量部)、公園内には現在震災慰霊堂や復興記念館の建物(設計伊東忠太)や、震災時の流言蜚語で殺された6千人の朝鮮人慰霊碑も建てられています。
後に「光線画」で知られる明治の版画家小林清親(こばやしきよちか)は、父親が幕府の役人だったためこの一角で生まれ、鳥羽伏見の戦いにも参加して後お竹蔵の引渡しに立会い、官軍の侮辱を受けたと述懐しています。その清親の作品に「東京両国百本杭暁之図」があります(左図)。
画面中央部を覆う雲の切れ間から小さな太陽が覗いています。その下隅田川の土手を一台の人力車が黒いシルエットとなって駆けて行く先には、広い川面の一角に太陽の光が反射しています。対岸は、暁とすればまだ眠りについている低い町々。手前左側には建物の一部が描かれ、中央の土手際には不揃いに立つ棒杭がみえます。局所的な太陽の光と、画面のかなりを覆う薄い紗のような影。百本杭の位置から太陽の方角からみると、この画のタイトルは甚だ疑問(むしろ日没)ですが、光と影のせめぎあう微妙な瞬刻をとらえようとした作品であることは確かでしょう。明治の初期まで、百本杭は鯉の釣り場で、芝居の様々な場面にもなり(たとえば河竹黙阿弥「十六夜清心」の心中場面)、この近辺で育った芥川龍之介のいくつかの作品に繰り返し描かれています。しかし、その百本杭は江戸切絵図にも見当たらないのです。管見のかぎりでは明治17年の参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京測量原図」(財団法人日本地図センター複製)第八号第一小測板「東京府武蔵国日本橋区浜町及本所区相生町深川区常盤町近傍」図のみがその位置をとどめています。その一部右上図上辺中央左寄、斜め「く」の字の川岸に小さな点々が描かれているのがおわかりでしょうか。左に見える両国橋は現在ではやや北に改架されています。もう一度清親の版画に目をやれば、この画のどこにも両国橋の姿は見えず、つまり画面の正面は方角としてはほとんど西ではないかと思われるのです。そうであればこれは夕景。それが暁とされたのは謎で、たしかに夕方の様としてはあまりに寂しい(人力車の行く前方に人の影)。両国橋の西詰は広小路で江戸期には最大の盛り場でした。東側は回向院門前を控え現在なお300年つづく料亭が複数存在するような賑わい場。そのすぐ近く、百本杭があったのは前述のように現総武線鉄橋の真下辺りですが、その面影を遺すものは何もありません。しかし夏の夕べの「両国の花火」は、江戸期同様大勢の男女老若を水際に誘って止まないのでした。