(承前)
とにもかくにも、今回の笹子峠行きで瞠目すべきは、この矢立杉の根本であった。
次の写真をご覧いただきたい。

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矢立杉根本の「景観」 2018年1月16日撮影

石垣状の三段にわたる人工被覆(擁壁)によって、辛うじて維持されている「矢立杉」の根本である。施工は山梨県によるのであろう。
先に触れたようにここは新田沢左岸の攻撃斜面で、前述のとおり北から新田沢北斜面、矢立杉、甲州街道、新田沢谷底が並んでいた。しかしご覧のように、矢立杉の南側(写真の左、谷側)に存在したはずの「街道」は、影も形もない。かつては笹子峠を目指して上ってきた道の右手に見えた矢立杉は、いまや小径の左手に存在する。
川は、とりわけ山地における谷は、下方侵食(下刻)と同時に側方侵食(側刻)をたくましくする。1880年(明治13)6月19日は土曜日の昼前、長蛇の列がたしかに通り過ぎた旧甲州街道(国道)は、ここにおいて跡形もなく滅失していたのである。

前回と前々回に掲げた地形図を比較されたい。
旧国道は、新田沢左岸に沿ってまっすぐ北西に笹子峠を目指した。対して現行地形図の「徒歩道」(破線:旧道)は途中で急激に北北東へ曲折する。河川侵食の結果である。
曲折した先は、現2車線道路すなわち山梨県道212号日影笹子線に接続している。そうして、この県道212号は新田沢に愚直に沿うのではなく、ヘアピン状にうねって等高線に沿うのである。それはクルマ走行道(ミチ)の設計速度によって規定された傾斜(道路縦断勾配)に従う(「道路構造令」1970年、政令320号)からである。つまりわれわれは、河川の侵食と現行の道路法令によって、一世紀余り前のミチをそのままたどることは不可能なのである。

断っておくべきは、この侵食たくましき様相は「谷道」についてまわる現象であることである。風化侵食に耐え、原則として徒歩でしかたどることのできない「尾根道」は、100年単位の侵食にはさほど構造を変化させないからである。「谷道百年」に対して、尾根道はある限度以上の人為ないしは火山などの地殻変動が加わらないかぎり、とりあえず1万年変わらないと仮定しておこう。逆に言えば1万年単位では、尾根筋も大変わりする可能性があることになる。一方谷道は、百年どころか50年も変わらない保証はどこにもないのである。
この侵食と路の付け替えが決定的であったのはいつ頃のことであったのか、その時間的判定にはもちろん県の土木関係資料を参照するのが最善なのだが、廃棄湮滅の可能性大である当該資料のかわりに、われわれは比較的容易に、系統更新し累積されてきた官製地図資料群(紙の地図)を参照することができる。その結果はいずれこの場で示すことができるだろう。

蛇足ながら言及すれば、「矢立杉」の右手には歌手の顔を摸刻したらしい仏像もどきや「矢立の杉」(作詞作曲大地良、唄杉良太郎)の石碑、さらに「矢立の杉のゼンマイ式音声ガイド」などが設置されていたのには驚いた。
杉良太郎という人物については「すぎらたろう」ではなく「すぎりょうたろう」と言うらしいとしか知らないが、「ボランティア」という言葉が流行る以前からその趣旨を実行していた尊敬すべき人物と聞いたことがある。けれどもこの自然と旧蹟の景には異様な石像と石碑、そしてゼンマイ発電演歌放送と幾本かの幟旗まで目の前にすると、その評価は逆転するしかない。
人為は自然に対する謙譲をもって最上とすること、そしていまあるものは早晩姿形を変えあるいは失われること、を忘れないようにしたいものである。
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愚かしい矢立杉至近の景 撮影日同前

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