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笹子峠 その1

『明治天皇紀』全13巻は1968(昭和43)年から77年(同52)にわたって刊行された(版元は吉川弘文館)。
歴史研究の基本資料とされるが、1914年(大正3)から1933年(昭和8)におかれた臨時帝室編修局がまとめあげた本紀250巻はもとより、公刊明治天皇御紀編修委員会(1934年宮内省に設置)が数年をかけて作成した公刊用稿本も一般の目に触れることはない。
現在の『明治天皇紀』は、戦後に宮内庁が本紀250巻本をもとに「校訂」したものとされる。しかしこの公刊本の記述を子細にたどれば、ところどころに興味深い記録の断片を目にすることができる。

峠は分水嶺の鞍部である。
稜線のたわみの底である。
たわみは谷を発生させる。
逆に言えば、谷筋は常にたわみつまり峠に向けて尻尾を延ばしていることになる。
「谷川に沿って上れば、自然に低い所を越えることになる」(柳田国男「峠に関する二三の考察」『定本柳田国男集』第二巻、227ページ)。
峠越の小径が谷ミチとならざるを得ない所以である。
主谷左岸右岸いずれかの斜面の中ほどを、トラバースするミチである。
明治天皇甲州街道巡幸の二つの峠越、すなわち小仏峠も笹子峠も、この谷ミチを上りそして下ったのである。

十八日 午前四時後起床したまふ、神奈川縣令野村靖・同書記官參候せるを以て謁を賜ひ、上野原を発したまふ.宿雨歇(や)まず、前路峻坂あるを以て肩輿に御す、野田尻を過ぎて犬目に到りたまふ頃雨歇む、鳥澤を經、宮谷坂を越えて桂川に沿ひて進みたまふこと數町、崕巖の峭立して相對するあり、高さ百餘尺、長さ數十間、其の最も窄き所に橋を架す、長さ十七間、幅二間、碧流盤渦して橋下を奔る、是れ即ち猿橋なり、渡りて馬車に移乘したまふ、

1880年(明治13)6月18日は金曜日であった。
前17日は八王子の行在所を発して小仏峠を越え、相模(神奈川県)に入って相模川沿いの道をたどり、支流の境川を越えて甲斐(山梨県)の上野原に着いた。境川を越えると相模川は桂川と名を変える。
小仏から上野原間の行路はすべて肩輿によった。上野原から猿橋までも、輿である。
しかし猿橋から大橋までは輦(馬車)である。
大橋を過ぎて花咲まで、今の大月付近はまた輿乗となり、花咲と黒野田(笹子宿)間で輦に復す。
大月を過ぎれば桂川は南下し、道下の川は笹子川となる。

殿上・駒橋二村以西の村戸皆神酒・鏡餅等を机上に供して拜禮す、大橋より再び肩輿に御して急坂を下りたまへば、笹子川と桂川と相会する所に橋あり、大月橋と名づく、花咲に到りて馬車に復したまふ、該驛少女等甲斐絹を織りて天覽に供す、少時蹕(ひつ・さきばらい)を駐めて天覧、金三円を賜ふ、初狩を過ぎて午後五時十分笹子に著御、行在所(天野昇平の家)に入りたまふ、屋舎朽壞して狭隘なりと雖も、寒村にして他に適当の家なきを以て、修理して行在所に充つ、

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輯製二十万分一「甲府」(1894年:明治27脩正製版)の一部 輦路は赤、肩輿路を黄、河川を青に着色

最大の難所である笹子峠を越えるには、どうしてもその前に黒野田(笹子)の「寒村」で一泊しておかなければならなかった。
しかし、「屋舎朽壞して狭隘」「他に適当の家なき」と記録に名が残るのは、名誉であるか迷惑であるのか。

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