12月 27th, 2017
1953年(昭和28)頃の国分寺駅周辺と東京経済大学 その7
前述の線路に沿った古い通学路は、「大倉喜八郎と東京経済大学のあゆみ」コーナーに掲げられている1枚の写真が雄弁に語っている。
アクリル板の反射光が邪魔をしているが、薄いコートを羽織った4人の姿は当時の「大学生」そのものであり、平均身長は伸びたものの子どもっぽさが抜けない今どきの学生と較べ隔世の感を禁じ得ない。
ともあれ彼らは、国分寺駅の北口を出てすぐに東に向かい(線路の北側)、開析谷の谷底に下りてガード下で中央線をくぐり、急坂を上って線路の南側に沿った細道から学校に向かっていたのである。
南北に国分寺街道が通っている。
これは府中から国分寺停車場(現在の国分寺駅北口)をつないでいる経路で、以前はそのまま国分寺崖線を直登し(その傾斜部を「池の坂」という)たが、甲武鉄道敷設以降は坂(崖)下で大きく東側に迂回し、線路下をくぐって停車場に至る、「つ」の字型経路となったのである。
甲武鉄道線はおおむね地表を走行した。しかし国分寺停車場から立川停車場の間には北西に湾曲した国分寺崖線(段丘崖)が横切っている。
国分寺崖線すなわち高低差10メートル以上ある上位段丘面(武蔵野2面)と下位段丘面(立川面)間の急斜面には、鉄道は地面の切取と盛土で対応し、傾斜を低減する。そのため、現在の国分寺駅東側から国立駅東側に至る間は基本的に切取(一部、野川源流の谷のところは盛土)部となっている。つまりかつての府中‐国分寺道の北の延長部は、線路以前に鉄道敷地の深い溝で断ち切られたのである。この「つ」の字迂回路はその分断をつなぐために造作されたのであって、段丘を上り下りする道の傾斜部は開析谷を利用した坂道とした。この坂道は私の分類で言う「第3類型・谷道坂」にあたる。
ちなみに「つ」の字以前の道の傾斜部(池の坂)は、いささか湾曲しているものの基本的には「第1類型・タテの坂」であって、府中駅から国分寺駅南口に至る路線バス(京王バス)が、ギアーをローに切り替えつつ上る道筋として今なお健在である。
「つ」の字迂回路の坂道がくぐる中央線のガードには、現在、地元の中学生(?)が書いたとおぼしきアンバランスな筆文字「殿ヶ谷戸立体」が掲げられているが、国分寺崖線の開析谷で野川の支流のひとつが横切っていた。
図の右下端の等高線はその谷の痕跡を示しているが、よく見ると墨描きの等高線の左上(北西)に薄青で描かれた旧図の深い等高線を読み取ることができる。谷の上流部を埋める、比較的小規模な地形改変が施されたのである。
前述のように、北口を出た学生は中央線の北側、「ケバ」で示されている線路の切通し土手に沿ってこのガードのところまで出(図では途中から道が消えているが、実際は人が往復する道は存在していたし、現在でも存在する)、谷底に下り立ってガード下の国分寺街道を横断し、すこし歩いた左先にある急階段を上って線路の南側に沿う細道から大学の正門を目指したのである。
写真は急階段を上がり切ったところのスナップと思われる。
駅北口から線路の北側に沿う道とは対照的に、この線路南側の急階段と線路に沿う細道はとうの昔に姿を消しており、今日では急斜面自体が大規模に削平されて駐車場とマンション敷地に変貌し、階段と線路際細道の存在は忘れられて久しい。
なお、急階段は国分寺街道を横断して西側にも存在し、そこから細い道が国分寺駅南口に通じるように描かれているが、何度も繰り返すように当時国分寺駅に南口は存在しなかったから、この南西側の道は通学路とは関わりがない。(つづく)