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中央線を挟んで、北側が新中央工業国分寺工場、南側が東京経済大学のキャンパスである。既述のように、「中央本線」の「本」と「線」の文字の間に線路を横切る道が存在した。戦時中は、この踏切をあるいて、銃工場の工員たちが工場と宿舎・青年学校の間を往復していたのである。
土日や私生活というものがほとんど存在せず、社会全体が軍隊か収容所の様相を呈する、現在のどこぞの国に似た様相が想像できるかもしれない。もっともそうしたことは、地図ではなく文字記録が伝えるものであるのだが。
よく見ると、薄青で示された旧図の道の線は工場の塀に沿ってその外側をめぐり、とんでもない大回りで西側、今の早実正門を過ぎたところにあった工場正門に向かっている。もうひとつ裏門か小さな出入口を付ければいいものをそうはせず、工場は警戒厳重をきわめたようだ。

薄青の旗竿(だんだら模様)で示されているのが、旧中央工業のコンクリート塀である。しかしそこには何か所か小さな×印が墨で付けられている。つまり戦後にはこの塀が取り払われ、その外側を広くめぐる新たな塀が建設されたのである。この戦後における大規模な「拡張」は、朝鮮戦争の直接的な影響による、と仮説を立てることも可能であろう。
しかし中央線の南側はいまや銃器工場とはまったく切り離された「大学」である。
ところが、戦後にできた塀の出入り口や屈曲部、そして東経大の北門を見るていると、かの踏切道は墨で明確に記入されてはいないものの、戦後もしばらくはそのまま存在していたのではないかと思えてくる。

その一方で地図の「中央本線」の「中」の文字の左(西)側を見ると、線路の南側に沿って一条の小径が墨の実線で描かれている。現在の東経大正門に向かう坂上通学路につづく道である。(つづく)

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