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カミサマ

年末に女房のツテで、初期ユダヤ教研究で世界的に知られる土岐健治先生にお目にかかることができた。
先生のお宅のお庭には苗から植えたばかりのイチジクが実を付けていて、その2、3個が食卓にのぼった。
イチジクが実をつけるところはエデン(楽園)であると、先生は笑っておられた。
「知恵」を得たアダムとイブの恥部を隠したのは、聖書の創世記にはじめて植物種名が登場するイチジクである。

先生にお会いするのは躊躇があった。
私は前の会社で『死海文書の謎』などという翻訳本を出して、それなりの利益を得たものだから恥じ入るのである。
四半世紀も経たからすでに時効かもしれないが。

私の故郷は、自然主義文学の初期作品として知られる、真山青果の「南小泉」の地である。
その冒頭には、この地は卑湿のためイチジクがよく生える、とあった。
そこは別にエデンでもなかったが、いろいろな意味で心情の原景をかたちづくった場所である。
現在では、昨年末に開通した仙台市営地下鉄東西線沿線から外れた、場末に近い市街地である。
しかしそこは、私の記憶のなかでは、エデンである。
ただ、ここで言いたいのは、イチジクとその生える場所のことではなく、カミサマのことである。

「年末はサンタクロース。明ければ神様」という、いわば現代日本人の生活パターンが、「われわれ」のカミサマの原姿を映しているように思われるのである。
サンタクロースは、お父さんであり、お母さんであり、ジジババで、つまりは「人間」である。
現代の神社は、年始にそのほとんどを懸ける、地域産業のひとつである。

「カミ」(カン)とは、おそらく古墳時代には、部族国家の首長の称だったのである。
その部族国家連合の盟主は「オオクニヌシ」である。
「神無月」とは、部族国家首長会議の謂である。
それぞれのクニノミコトは、年に一度出雲に集合したのである。
そうして「カミ」とは、元来上位者の称であった。
だから「God」とは懸隔がありすぎるのである。
大陸から海路瀬戸内海を東進し、奈良盆地を中心に勢力を展開し、中央集権国家を形成するのは後発の部族である。

「god」と「カミ」を短絡してはいけない。
日本語の「カミ」は決して万能唯一の「神」ではない。

しかし日本列島上の「神=上=官」の意識構造は、今日の《「官」にブラ下がる「民」》という「ドレイ構造」の基本である。
それは「国立競技場問題」にまで貫徹しているのである。

One Response to “カミサマ”

  1. おせっかいon 06 1月 2016 at 13:14:18

    芳賀様、
    年頭論考としては、いささか不満です。
    何となく「自らの原郷に拠って古代大和政権の出自を論じ、現代まで維持されている天皇制を撃つ!」というような意気込みは窺えますが、各文のつながりが悪すぎて(詩的過ぎて?)、論旨が辿れません。
    土岐さんの「イチジク」から「カミサマ」に転じて「ドレイ構造」に結ぶ論述は、形式的に弁証法であっても内容的に三題噺にもなっていないようです。原発を論じたころのシャープさはどこに行ってしまったのでしょう。
    概念設定も、例えばGODとgod、神とカミを区別しているようですが、用法に混乱が見られます。
    天(宇宙の外!)に坐しますGODと安産・繁盛の隣りの権現様には確かに懸隔がありますが、「『god』と『カミ』を短絡してはいけない」とは必ずしも言えないのではありませんか。むしろGODとgodの関係は生身のままま唯一神化した現人神と津々浦々に遍在棲息する八百万神の関係に矮小に対応し、両者の弁証法にこそ日本のドレイ制もネトウヨレベルのナショナリズムも依拠しているものと思えます。
    また、論述の要に「『カミ』とは、元来上位者の称であった」という根拠が想定され、末尾の結語文中でもカミ(神)=上(カミ)説で補強していますが、これは全くダメです。“神は上に坐すが故にカミと言ふ”ような近世来の俗説、あるいは「神と言ひ上と言へるも一つにて神と上との法に背くな」なる処世訓もトンデモ説であることは、橋本進吉が両語のミには古代「国語」音韻では甲・乙類の違いがあることを示して明確にしています。
    神=上なる俗説は、ジクジクした地にイチ番よく育つのでイチジク、便秘を一時凌ぐにはイチジキク浣腸、さらに砂漠で移動に便なればラクダと言うがごときです。
    最後に、結論で宣言されている、神が現代まで維持されている奴隷構造の基本である、というような主張が「私(芳賀)の言いたいことのすべてである」なんて本当ですか。そんな空論は吉本や木村に任せておき、原発をめぐる環境論、東京論、地理・地図・地形論から政治・思想論に言及し、NHK会長を撃破するのが芳賀さんの自任する使命ではなかったのですか。

    かつての切れ味鋭い論説の復活を期待して、先日のテレビ断捨離論に続き、まじめにコメントします。

    追記:
    百人一首にも採られている喜撰法師の「わが庵は都のたつみしかぞ栖む世をうぢ山と人はいふなり」の一首は「宇治」と「憂し」を掛けていることが鑑賞のポイントであると高校の授業で習った記憶があるが、神と上さえ通じないのにウヂとウシで本当に掛詞なんだろうか?

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