毛沢東が「法」を嫌っていた、というのは有名な話です。
「成文法」は専制者の「恣意」を掣肘するから、専制者はそれを本能的に排除するか、骨抜きにしようとする。
専制者にとって必要なのは、自らの「意志」ないし「欲望」を現実化する手段とそのプロセスだけなのです。
したがって専制国家には、万民の「共通理解」としての「法」は存在の余地がなく、「令」のみが横溢する。

専制に対する「民主主義」とは、統治者ないし権力者(日本においてはこれらをまとめて「官」という。以下、「官」とする)に対して、一般庶民(以下「民」とする)が「法」を介してコントロールできるシステムを言い、だから「法にもとづく国家」ないし「法治国家」などと言われるのですが、これは基本的に、権力の座にあるものは、放置しておけば野放図に「恣意」や「欲望」を発動するから、それは「法」システムによってチェックされるべきだ、という理解が存在するのです。
権力性悪説と言ってもいい。
これに対して、家父長国家あるいは家族国家観を強調する者は、権力性善説に立つことになるでしょう。
いずれが、リアルな認識であるか、言うまでもないこと。
権力の座にあるものは、権力を手中にしているがゆえに、常に恣意と野放図の誘惑に傾き、あるいは毛(文革)や旧日本軍部のように、暴走する。

官僚と政権が秘匿したいと思った、あるいは後からでも都合が悪いと思った、一般には知られない情報を手に入れたり、公表したりすれば、それは罪に科するという、日本列島における「法」は、法本来のありかたから倒立しているのです。

つまり「法」が権力の不正〈=恣意〉や暴走を制御する、あるいは「民」の権利を守る、もしくは「企業」や「役所」側と「民」側の利害を調整する緩衝装置でもなくて、単に権力の恣意に奉仕するための道具(「令」)になり下がっている、というほかない。

「秘密」の範囲を法によって明確に規定することもなく、すべてに「その他」事項を付帯させ、秘密であるかどうかの最終判断は政権に委ねるとする「法」は「法」ではあり得ない。

「法の自殺」と言ったひとがいるのかどうか知りませんが、こうした法にあらざる法が成立するような事態をみれば、日本における「近代国家」とは「飾り衣装」にすぎなかった、と判断せざるを得ない。

私たちが、中学校以降で習う「三権分立」(モンテスキュー『法の精神』)とは、裁判所が行政府に対して独立しなければならない、ということだけではなくて、当然ながら「法」そのものが、行政者の「恣意」(「裁量」)から独立したものでなければならないのです。

その「独立」が保障されない国家においては、行政に従事する者(役人)は、「事」に即して判断せず、「人」すなわち「上位者の意」に即して判断する。
だから役人は、その目を上にばかり向けている「ヒラメ」とならざるを得ない。
日本の「裁判所」は、肝要なところでは「法」ではなくて、「上位」(最高裁事務当局)がコントロールするようなシステムになっている。
そうして、それは結局のところ、行政府がコントロールする。
最近の「日銀総裁」の人事が物語るように、現政権は形だけでも存在していた「分立」を突き崩した。
そうして、「教育」については、「上位下達」であった戦前のシステムへの回帰が急のようです。

先の戦争で、この「国」はわざわざ海外に出かけて行ったわけですが、その結果国内の主要都市は焦土と化し、「英霊」の多くは「餓え死に」をし、挙句の果ては「ポツダム宣言受諾」という「降伏」に終わったのです。
それが何故か、を学ばず、「負けた」ことすら学ばず、逆に「降伏」に至ったルートを「取り戻そう」とする現状は、「原発事故」が単なる自然災害であったとして、そのことに学ばない構造と軌を一にしています。

「原発事故」の悲劇(喜劇)とは、罰せられるべき「下手人」と、起訴すべき「検事」ないし「裁判官」が、同類項に属していて、いまだなにごともなかったように平然としていることにある。それは、「未分化」の悲・喜劇にほかならないのです。

現状が「愚者」の確固たる構図にほかならないことは、拙著『江戸の崖 東京の崖』最終章、タロットカードの図柄として示した通りです。
首相という役職にあるらしい、アベなんとかの顔は、タロットカードの愚者の絵そのもの。

「力をもったもの」、あるいは「上位者」がオールマイティで、すべてを意のままにできるようなシステムは、ロクな結果にならない、という教訓が忘れ去られようとしています。
役人世界で発生した「事」にあたっては、担当者がその事に即して是非を判断するのではなく、「上意」を忖度するしかないから、個は蜥蜴のしっぽ切りの意味で軽度の「責任」をとらされるだけで、実際の「無責任無限連鎖システム」は無傷で残り、「事」は虚構で固められる。
これが、日本における「逆」フェイル・セーフシステム。
「原発事故」もそのひとつ。

要は、稚(おさな)いのです。
日本列島上の、「官」も、「民」も。
「三権分立」は、まだ教科書のうえだけの理解。
「官」も「民」も、「官」「民」といった構図自体がナンセンスであることを悟り、実際に権力の「分化」が必要だと納得するまでは、この先100年か200年か、まだいくつかの大きな「災厄」の洗礼を受けなければならないようです。

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