本連載「その10」で触れた、神田一ツ橋中学校遺跡から出土した、「牡蠣殻付きかすがい」について、昭和51年12月18日の読売新聞夕刊のコラム「話の港」記事を入手しましたので、下に掲げます。
付着していたのは、小さな牡蠣の赤ちゃん。
といっても立派な幼生ですが、魚屋さんで売っているような、生食用殻付オイスターではない。
大人の指先くらいの牡蠣殻。
けれども、これが「発見」なのですね。

読売新聞 1976年12月18日夕刊のコラム
読売新聞 1976年12月18日夕刊のコラム

つまり、この一帯が汐入の低湿地だった時分、宅地造成を意図してまずは水道(木樋)が敷設された。
そうして、土砂が投入され地面が築(つ)きたてられるまでの、ほんの短い時間、汐入の湿地に放置されていた木樋の鉄材(かすがい)の部分に、汐間を泳いできた牡蠣の幼生が付着した。
付着してから生育が止まるまでいったいどのくらいの時間が経過していたかは、この小さな牡蠣殻を見せて、専門家に判断してもらわなければならない事柄です。
けれどもとにかくも、そのうちに土砂が運ばれ、地下に埋もれて再び日光にさらされたときには既に4世紀近い「時」が経過していたのでした。

この小さな牡蠣殻を都市史研究者たちが重要視しているのは、宅地造成の前提として、まず水道が敷設されていたという、「常識」や「予想」をくつがえす事実が明らかになったからです。
そのような重要な「証拠物件」であるにもかかわらず、付着した牡蠣殻はかすがいからそぎ落とされ、この遺物は単なる「上水樋資料」として展示されたのち、どこかへ仕舞いこまれたとは後日の話。

けれども都市形成・都市計画のプロセス云々以前に、ここでは、ひとつのモノが「現在」に浮上し、私たちの貧しい想像力をさえ、時の彼方の「その場」へ誘う、そのモノ自体の力に瞠目しておくべきでしょう。
そうして、この地は低湿地というよりも潮干満の「入江」であったと、はっきり書かれているのです。

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