7月 2nd, 2008
古地図巡礼 map pilgrimage
昭和30年頃の東京
昭和レトロ地図 この図は左端に「国電」新宿駅を擁し、左上を中心に新宿区が広範囲を占めるため図名を「新宿」としていますが、国会議事堂や皇居の吹上地区を含み、千代田区や港区、渋谷区にまたがる地域で、「日本橋」図と並ぶ首都中枢域が表現されています。戦災、敗戦、そして戦後復興を経て、「神武景気」を端緒とした高度経済成長期のただなかにある東京の中心域の素顔です。
しかし、よくよく目をこらせば、その表情には現在と異にするものをみわけることができるでしょう。たとえば図の右下、桜田濠や日比谷を見下ろす台地の上、標高25メートルの等高線が通る国会議事堂に注目してみましょう。 (地図は明治42年測量、昭和31年第5回修正、同34年国土地理院発行の1万分の1地形図「新宿」。以下はその一部)
国会議事堂 上図中央右手、国会議事堂の建物は1936(昭和11)年に帝国議事堂として建設されました。その位置は霞ヶ関から延びる道の延長にあり、江戸時代の伊井掃部頭(いいかもんのかみ)屋敷の南、有馬兵部大輔、松平安芸守などの屋敷地の地割を引継いだ「三角形」の内側にあって、その頂点に正門を設けていました。
しかし、この地図発行の翌年、1960(昭和35)年の「安保条約反対闘争」の結果、その建物の敷地と周辺はに大幅に整理拡張されます。「三角形」だった土地は倍近い面積と高い柵をもつ「四角形」となり、正門前の建物群は取払われて、柵と門で囲われた二つの大きな庭園が設けられることになるのです。
その結果、地図にみえる「伊藤公銅像」などは、現在では一般に目にすることができなくなりました。新旧ふたつの地図にみえるこの区画の「かたち」の変化は、現代日本政治史上の興味深い考察対象です。
国立競技場 国立競技場は現在の正式名称を「国立霞ヶ丘競技場・陸上競技場」と言い、かつての「明治神宮外苑陸上競技場」で、1943(昭和18)年10月21日の有名な「雨の神宮外苑」の「学徒出陣式」は、この場で挙行されました。
上の図にみえるのは1958(昭和33)年5月開催の「第3回アジア競技会大会」のため、旧競技場が取り壊され、つくりなおされた姿(1958年3月30日落成)です。この競技場はさらに拡張されて、1964(昭和39)年10月の東京オリンピックのメイン会場となりました。この時期大ヒットした曲のひとつに「東京の灯よいつまでも」がありました。その歌い出しは「雨の外苑 夜霧の日比谷」(藤間哲朗作詞・佐伯としを作曲・新川二郎唄)というもので、外苑の雨は戦後もまた別の様相をもって降り続いていたのです。
「神宮球場」(正式名称明治神宮野球場。1926年10月竣工)で行われる東京六大学野球で大活躍し、南海ホークスと広島カープの誘いを断わって、長嶋茂雄が読売ジャイアンツに入団したのは1957(昭和32)年でした。
浅田次郎の短編小説集『鉄道員(ぽっぽや)』(『小説すばる』1996年9月号掲載。第117回直木賞授賞)のなかの一編「角筈にて」で、「角筈のバス停」で父親に置き去りにされることを察した主人公が、父と叔母へそれぞれ別の場面で発する「ねえ、立教の長嶋は来年ジャイアンツに入るんだって、ほんと?」というリフレインが、この時代の世相の一面を物語っています。
図の左手、今日では暗渠となった渋谷川の流れが、現在の外苑東通りに沿って南下しています。
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国会議事堂の敷地の変化が、東京地下鉄丸ノ内線が現在の国会議事堂敷地直下を通っることになった要因ですよね(^ー^)b
大事なコメントを、ありがとうございます。
確かに、仰る通りですね。
こういうことを「重ね地図」で言えれば一目瞭然なのですが。
そのプランはとっくの昔に出来ているのですが、なにぶんにも一人でほそぼそとやっていることなので、常に目の前のことしかできない。
時間とお金の問題は、常につきまといます・・・