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江戸最古の坂 その3

『更級日記』は高等学校で古典として習うことが多く、その冒頭(「門出」)はよく知られている。
平安時代の中期、作者(菅原孝標女)後年の回想とはいえ、古代東国の記録としても貴重である。
冒頭ではないけれど、それにつづく「竹芝寺」の段は以下のようにはじまる。

今は武蔵のくにになりぬ。ことにをかしき所も見えず。浜も砂子白くなどもなく、泥(こひぢ)のやうにて、むらさき生ふときく野も、蘆荻のみたかく生ひて、馬にのりて弓もたるすゑ見えぬまで、高く生ひしげりて、中をわけゆくに、たけしばといふ寺あり。はるかに、ははさうなどいふ所の、らうの跡のいしずゑなどあり。いかなる所ぞととへば、これは、いにしへたけしばといふさか也。

上掲末尾に注目されたい。
作者の「ここはどこ」という問いに対する答えが、「竹芝という坂」である。
ネットの現代語訳を見ると「坂」でなく「所」としているのもあるが、はっきり「さか」と書きつけているのだからそれは曲説というものだろう。
それでも「さか」ではなく「さう」の誤写として荘園としたり(「荘」は旧仮名で「さう」)、「姓」(旧仮名では「さう」)と解いて竹芝を人名由来地名とする向きもあるらしい(『新編日本古典文学全集 26』p.283の頭註30)。
しかしそれは「さう」であれば解釈に都合がよいというだけの話。解釈はかぎりなく蜃気楼の迷路に彷徨する。
ともかくも、「竹芝の坂」である。

これは前回引用した聖坂標柱説明文の末尾「竹芝の坂と呼んだとする説もある」に対応する。
説明文は「『更級日記』の竹芝寺の段で「竹芝という坂」と言っているのはこの坂のことと考えられるか」と書きたいのだがそれでは長すぎるし、「説もある」とするのが無難で便利なのである。

「竹芝」の芝は、港区の前身のひとつ「芝区」の芝で、道興の『廻国雑記』に「芝の浦」として登場、中世末期には吉良氏(本拠地世田谷)の所領「芝村」でもあった(芝大神宮文書)。
『大日本地名辞書』(吉田東伍)は芝の生えた土地であったからとするが、海食崖下波食台上の砂堆の地であるからその説は肯んじ難い。まして『更級日記』言うように、蘆荻の高く生い茂った土地である。
古来爺さんは山に柴刈り、婆さんは川で洗濯、と言う。
ここは「柴」(低木類)と解して、塩屋の煙(『廻国雑記』)の燃料でなければ、海苔採取のため海中に立てるひびの「柴」が本字とみておきたい。さすれば「竹柴」の語も合点がいく。
聖坂は、その竹柴の浦を眼下に見下ろす古往還のサカであった。

標柱の年記は2004年12月でそう古いものでもないが、区の最新の刊行物(『港区史 第1巻 通史編 原始・古代・中世』2021年3月)ではこの坂を一部とするミチについて「古代の官道」の見出し(p.155)で次のように書いているのである。

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 高輪台から三田台を通り、聖坂を下り切った辺りから北上し、赤羽橋、飯倉を過ぎて虎ノ門付近に至る往還を中原道に比定する見解がある。中原道は、江戸時代に東海道が整備されるまでの東西を結ぶ主要幹線道であっただけではなく、『更級日記』の記述などから、とくに高輪台から三田台にかけては古代の官道であった可能性が指摘されている。じつはこの道筋に沿って、先述の信濃飯山藩本多家屋敷跡遺跡、港区No.123遺跡、承教寺跡・承教寺門前町屋跡遺跡、伊皿子貝塚遺跡などの古代の遺跡が数珠状に発見されているのである。なかでも信濃飯山藩本多家屋敷跡遺跡、承教寺跡・承教寺門前町屋跡遺跡で検出された、一辺が七メートルを超える竪穴建物跡は、この時期の竪穴建物跡としては大型で、これらの建物を備えた集落が官道に面して形成されていた可能性を高めている。さらに時代を遡れば、この道筋には弥生時代後期後葉から古墳時代にかけての集落が列をなし、現在の三田済海寺の隣接地には古墳と考えられる亀塚が築造されている。
 こうした考古学的事象に、三田済海寺付近が『更級日記』にみえる竹芝寺伝説の故地の一つに想定されていることを加えると、高輪台から三田台に至る尾根筋上に古来主要道が整備されていた可能性は低くないといえる。       (大西雅也・高山優)

歴史を書き換えるのは物証である。考古学の成果は著しい。
聖坂が古代にまで歴史をさかのぼり得、「江戸最古のサカ」のひとつであることは、疑いのないところと言える。
ただし、芝・高輪が「江戸」に併呑されるのは、もちろん近世以降の話である。
いずれにしても、拙著『デジタル鳥瞰 江戸の崖 東京の崖』の「コラム11 江戸最古の坂」(pp.114-115)は訂正を要するのである。 

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