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江戸最古の坂 その2

古代武蔵国の『延喜式』段階における4駅家のうち、大井駅と豊島駅2駅のおおまかな位置を直線で結んだのが下の図である(タブレットアプリ「スーパー地形」から。それぞれ図をクリックすると拡大、鮮明化する)。

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その一部、品川から高輪、三田に至る経路を拡大すると次のように、海食崖と古川および目黒川の谷で狭められた高輪台地の南北延長にほぼ沿うのが確認できる。
この図で2本の赤い道、すなわち国道15号(第一京浜=旧国道1号=東海道)と国道1号(桜田通り)が細長い高輪台地を挟むように走っているのに注意されたい。

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さらに拡大すれば、台地の尾根筋を辿るミチとサカが浮かび上がってくる。
古東海道としての中原道(中原街道)の一部、二本榎通りと「聖坂」である。
中原道は、ここでは現在の2本の国道を眼下に、台地のほぼ中央すなわち尾根筋を通っているのである。

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港区立三田中学校正門前の標柱の側面には「ひじりざか 古代中世の交通路で、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所もあったためという。竹芝の坂と呼んだとする説もある。」と書いてある。

古代からのミチなのであるから、中世に出現した高野聖がこのミチを開くわけはない。古いサカの傾斜を緩めるための勧進(募金)行為くらいは行なった可能性はもちろんあるだろう。
高野聖は最下層の僧であり、そのための専用の宿というも牽強付会に思われる。
坂をのぼりきって1200メートル先の高輪二本榎には現在高野山東京別院が存在するが、これは近世の開創と移転にかかるものでここで言われる宿所とは無関係である。

しかし標柱から坂上数十メートルのところに鎮座する亀塚稲荷の猫の額ほどの境内には、5基の小さな板碑があつめられていて手に触れることもできる。
それらは港区の文化財で、境内には説明板も立っているが、狭い場所に後ろ向きでもあり気付くひとは少ないようだ。
その説明によれば、5基のうち刻文が判読できる3基の造立年は文永3年(1266)12月、正和2年(1313)8月、延文6年(1361)で、文永3年のものは港区最古の板碑であるという。文永3年は鎌倉時代中期、延文6年は室町時代のはじめにあたる(しかし2021年3月刊行の『港区史』(通史編1 原始・古代中世)では、文永3年といわれた板碑はむしろ14世紀中ごろのものという)。
この5基の板碑は、以前は当神社付近にあったものとも、上大崎付近にあったものともいわれている、と付け加える。それでも、このサカが中世に遡る歴史をもつ物証のひとつと言うことはできるだろう。
しかし「竹芝の坂」という別称が示唆するのは、時代の奥行きのさらに先なのである。

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