collegio

江戸最古の坂 その1

上のような標題に反応するのは、ごく一部のマニアだろう。
いわゆるサカズキ(坂好:盃)のなかには勉強家もいて、それは「九段坂」とすぐに返答するかも知れない。

なぜ九段坂かと言えば「信頼できる最古の江戸図」とされる「別本慶長江戸図」のその場所に、「登り坂 四つや道」と書きこみがあるからである(下掲図左上)。
しかしそれを「江戸最古の坂」と言ってしまっていいものかどうかは、甚だ疑問である。

zuzu1.jpg

「日本最古の坂」は「黄泉津比良坂」でそれは『古事記』に登場するから、というのも同然だが、安直断定の見本のようなものである。そもそも「別本慶長江戸図」は、記録物(document)としてはこれも甚だ疑問な存在なのである(拙著『新版 古地図で読み解く 江戸東京地形の謎』p.19)。

坂は、道の傾斜部である。
しかも固有名詞のある傾斜部である。
個々の経路に名付けることなく、その傾斜部要所に称を認めるのは列島特異の習俗と言っていい。
往古時間を遡ればサカは峠の謂いで、魔物ないしは土地神のしろしめすところであった。
しかし江戸の歴史はせいぜい千年と言ってよいから、峠や神については坂考証から捨象してよい。
江戸最古のサカと最古のミチとは、同一体の部分と全体の関係である。

江戸のミチと言えば、東海道を第一とする五街道の制がすぐ念頭に浮かぶだろう。
五街道も江戸府内はおよそ平坦地を通ったとは言え、傾斜部は存在した。
四つや道つまり九段坂は五街道の一部でもなく、江戸城西側に配置された旗本屋敷に通じる道であって、江戸初期の都市開発に掛かる道筋と考えてよい。つまり江戸最古の坂ではない。

江戸最古の坂として念頭に浮かぶのは、古くは奥州に通じる岩槻道で、五街道のひとつ中山道が通る今の本郷通り(日光御成道と共通部分)の「見送り坂」「見返り坂」であろう。
この二つの坂の境界性と構造については以前に推論したことがあるからここであらためて繰り返すことはしない(前出拙著pp.213-216)が、命名由来に太田道灌伝説をもつ江戸時代以前の坂である。
ならばこれが江戸最古の坂と考えてよいかと言うと、決してそうではない。
道灌伝説のかぎりでは、中世どまりである。

古代においては当然ながら江戸の地は武蔵国の一部で、近世江戸府内と呼ばれたエリアは、豊島郡、荏原郡の一画にあたる。
ヒトもしくは情報とその到達時間が、状況を制するのは何も今日に限った話ではない。中央集権国家の常として、古代官道は「馬乗り継ぎ」のため一定距離ごとに駅家(うまや)を配し、それぞれを短時間で連絡するため可能なかぎり直線状に結んでいたのであるから、点を特定し、それを結んだ線の傾斜部を詮索するのが「最古の坂」に至る近道である。

これも以前に書いたことである(「道の権力論」『東京人』2013年8月号)が、帝国およびそれを真似たミニ帝国の特徴のひとつは直線ミチを造営することにある。
それはもちろん列島に大陸文化が及び、文字記録が残されるようになって以後のことだが、二つの時期つまり古代と現在(近・現代)にしか存在しなかった。
また直線ミチとは言っても、古代のそれは測量技術上も造営力学上も限界があった。ためにそれはところにより地形に沿うおおまかな直線ミチとならざるを得なかった。

武蔵国ははじめ東山道に属し、幹道からYの字状に分岐した支路が国府(府中)に向って武蔵野を真っ直ぐに南下していた(東山道武蔵路)。それはミヤコからみれば長い盲腸状の往復ミチであった。そのミチも国府も内陸の経路(山道)にあって、「江戸」(海の入江)にかかわるものではなかったのである。
しかし『延喜式』段階になると、武蔵国を通る古代官道のメインルートは店屋(まちや)、小高、大井、豊島の四駅名が登場する経路(古東海道)にシフトするようになる。
店屋駅は現町田市鶴間町谷、小高駅は川崎市高津区末長小高谷、大井駅は品川区大井、豊島駅は北区西ヶ原にそれぞれ比定されている。したがって後世江戸府内の「最古の坂」を考える場合、大井と西ヶ原を結ぶ線を吟味するのが王道となる。
『延喜式』段階では武蔵国府に対して店屋ないし小高から連絡支路が通じていたであろうから、その経路(盲腸支路)は武蔵野を経由するルートより大幅に短縮されたのである。しかしその経路も、もちろん「江戸」を通るものではなかった。

20210426083620_00001.jpg

上掲図は『港区史』(第1巻 通史編 原始・古代・中世、2021年3月)p.160から。

Comments RSS

Leave a Reply