音楽の発生は「音の律動」にあり、詩歌の根源には「ことば(音)の律動」がある。
律動とはリズムであり、リズムとは音の長短、高低と強弱(アクセント)を含む同音ないし類似音の繰り返しである。

個の魂の震えが先であったか、共同性の効用ないしは必要(婚姻や狩猟、祭祀や戦いなど)に発したかは措くとして、「うた」はまずもって「音」であり、その律動であった。

日本語詩歌における律動の基本は音数律(正確には音節数律)であり、漢詩および欧米詩におけるそれは押韻律である。
いずれにおいても「定型詩」とは、この律動の伝統的な形式に沿ったものを言う。
しかしながら、定型詩における音数律と押韻律の違いはどこに起因するか。

三好達治は次のように言っている(「マチネ・ポエテイクの試作に就て」『三好達治全集』第四巻、1965年、pp.130-141から。初出は『世界文學』1958年4月号)。

「(日本語の)押韻そのものの、聲韻的價値が、ヴァルールが、甚だしく貧弱にすぎるからだと見たい。由來日本語の聲韻的性質が、さういふ目的のためには困つた代もので、單語の一語一語に就て見ても、母音が常に小刻みに、語の到るところに、まんべんなく散在してゐて、常に均等の一子音一母音の組合せで、フィルムの一コマ一コマのやうに正しく寸法がきまつて、それが無限に單調に連續する、――かういふ語の聲韻上の性質を、言語學の方ではどう呼ぶか、とにかくその點、徹底的に平板に出來てゐる。子音の重責集約が語を息づまらせるといふ障碍作用もなければ、母音の重疊纍加が語の發聲をその部分で支配的に力づけるといふ特色もない。」

簡単に言えば、日本語の母音は5つしかなく、音節の基本はその数少ない母音によって成り立っていていわば母音が遍在するため、韻を踏もうにもその効果がなく、詩歌にそれを用いるのは適さないとする。

さらに日本語の構造の面から、日本語詩脚韻の試みに対し、次のようにたたみかける。

「問題は措辭法に関聯する。邦語に於ける措辭法は、主語客語の後に、命題の末尾に到つて動詞を以て修束する。これを語法の通則とするが、通則は散文韻文を通じて原則と見なしていい。措辭の轉置はもとより許されるにしても、これは例外で、本來雅正でなく、奇警膚淺の弊があつて、特に連用を忌む。これ位のことは誰しも承知のこととして、さて、命題の末尾(原則として脚韻の位置)を占める動詞の数は、中國語や歐羅波の場合當然その位置を占めるべき名詞の數に比して、比較にもならぬ位その語彙は少數だ。しかもその上いけないことに、その少數の動詞中、極めて少數の數箇のものは、排他的に、壓倒的の頻度をもって必ず常に顔を出す。邦語における語尾(文章語口語を通じて)の單調は凡そ筆をとるほどのものの常になやまされているところで、我々はその點でほとんど鈍磨した神經を以て平素文章を草してゐるといつてもいい位だ。/この語法を以て詩に於ける脚韻を押さうとするのは、無理だ。一言にいつて、元来が無謀だ。/私は詩に於ける押韻、――脚韻を踏まうとする試みの前途をはばむ障碍として、過去にも現在にも、また未來にも、この點を最大の難關と考へる。この宿命は致命的だ。改革の餘地がなく、工夫の餘地がない。」

日本語の基本センテンスの末尾は外国語に比べて類の少ない動詞や形容詞・形容動詞となるが、それは脚韻を踏むには致命的な構造である。したがって日本語の詩歌に押韻を試みるのは無謀であると言うのである。

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