「経済 vs 生命」の場合の「生命」は本来「人間」で、また「経済」も「利潤」ないし「資本」とするのが正確だが、理解し易いように上掲とした。

2020トーキョーオリンピックを念頭に、アベ某とその一派は新型コロナウィルス検査不作為をもっぱらとし平静を装ってきたが、世界情勢はそれを許さず、ついにオリンピックは1年先延ばしとされた。しかしその「来年」があるとは誰も確言できず、むしろ中止となる可能性が高い。
さてアベらがこだわったのは、結局のところオリンピックは「経済」だったからである。

ついで「緊急事態宣言」に至るわけだが、海外の評は「すでに(ジャパンは)手遅れ」が圧倒的である。
その「宣言」に踏み切るにあたって、アベの盟友アソーは「経済がガタガタになる」として最後まで牽制した。アベも本来見識(らしきものはもともとないが)はアソーと同然であった。
そのことは、トーキョー知事で野心家パフォーマンサー、知事再選を狙うカイロ大学卒業論文疑惑のコイケ某との「自粛要請」をめぐる攻防に端的にあらわれている。
すなわち「経済か、危機管理か」の2項対立である。
アベvsコイケの対立にかぎって言えば、決して「経済か、人の命か」ではないのである。

「経済」は資本主義勃興期の三角貿易すなわち奴隷交易を典型として文字通りヒトを喰いものにしてきた(’Amazing Grace’ !)し、近年では「貧困(者)と人間の命」こそがグローバル経済の好餌と見做されている。
それは「医療保険」であり、「水道法改正」であり、コロナどさくさ紛れに提出された「種苗法改正案」であり・・・と、直近の実例も限りない。
「経済」という、無限成長怪獣が地表においてヒトの命を喰いあらしている、というイメージが浮上するとしたら、それは正解である。

「社会距離」(Social Distance)に関連して『かくれた次元』(E・T・ホール)を読み返し、あらためてその確信を強くした。
ただしそこで言われている「社会距離」とは、「その限界をこすと動物があきらかに不安をはじめる心理的な距離のこと」で、現在の使用法とはベクトルが逆なのである。
つまり、その「間」をを維持しなければ社会そのものが崩壊する可能性のある距離、というふうに意味が逆転したといえる。
これは都市生活を基本とする文明社会史においては巨大な逆転だろう。

ホールはおもにヒトの住環境にかかわる「文化」を強調したが、文化というよりはさらに切迫した生物種としての生存条件と言い換えた方が適切であったろう。
「経済」はこの生存条件を餌として、さらに世界を呑み尽さんとしている。
極限まで縮められ、侵食されるのは「時間」と「距離」そしてヒトである。
ホールが著書の冒頭でレミング(の死の行進)の例を挙げているのは象徴的で、予言的である。
現在の世界お籠り状態は、「経済」による距離と時間そしてヒト侵食の一時的停止とみることができるだろう。
◆ ◆ ◆
quarantine(クアランティン、検疫)がラテン語の「40」に由来するとはよく言われる話である。
すなわち中世アドリア海交易における伝染病対策、つまり入港後40日間の離島隔離の意である。
武漢のロックダウンは、その倍の約2ヶ月半を必要とした。しかしわれわれの感染のピークはむしろこれからである。実質quarantine状態がこの先何週間、何か月間つづくか誰もわからない。
ただ市中感染が衰え隔離が一段落したとき、アメリカに重心をおいた世界のgeo-politicsの様相が、それまでとはまったく異ったものとなっていることだけは確かなのである。

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