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『武蔵野』の古地図 その14

さて、万葉歌No.3378にちなんだ土屋文明の「入間道の大家が原の古へを尋ね来て武蔵野の秋にあへるかも」に関してであるが、この歌は『土屋文明歌集』(岩波文庫、1984年)の「武蔵野」4首に該当なく、またその武蔵野4首が採歌された元本の『往還集』(1930年)の「武蔵野」10首(1926年)にも見あたらない。
ただし『現代短歌分類辞典』(新装版第55巻)p.277に「新萬葉集八」として10首挙げたうちの3首目がこの歌なのであるから二次的ながら出典は『新萬葉集』(巻8、1938年)で、つまりこの歌は1926年から12年以内に詠まれたものと推測できる。

一方、土屋は1941年(昭和16)9月から翌年8月まで雑誌『短歌研究』に「万葉紀行」を連載しており、それは単行本『万葉紀行』としてまとめられた。本は1943年(昭和18)改造社初版、1946年養徳社版、1969年白玉書房版、1983年筑摩叢書版の4種がある(以上、筑摩叢書版の「序」による)。
その『万葉紀行』は「豊前鏡山」からはじまって「防人と豆」まで26節が並び、そのなかほどに「万葉集武蔵国歌」としてとくに「武蔵野」以下8項が、また「武蔵国歌続稿」として「いはゐづら」以下6項が設けられていたのである。ただし土屋の「入間道」の歌は、この本にその片鱗もあらわすことはない。

『万葉紀行』の「万葉集武蔵国歌」第2項では、独立して「おおやが原」が論じられている。
そこでは冒頭にNo.3378「入間道」の歌を掲げつつ、「大家が原」を川越街道の大井村かとする契沖(『萬葉代匠記』六)などの旧来の説に疑問を投げかけ、「川越街道の大井村は江戸、川越が発達し、両者を結ぶ街道の通じた室町時代以後のものとみるべきである」といい、「第一あのあたりでは耕して食うべき田がない。粟麦を食うとしても全く水田のない所には古い村は発達すまい」と主張する。
つまり太田資清・資長親子の名こそあげてはいないが、川越と江戸および川越街道は彼らの存在以降のモノダネとし、また水利を得ない段丘面に古村の存在しえなかった理の当然を説くのである。
そうして「いはゐづら」は「蓴菜などではないか」と推論し、さらに次のように私見を披瀝する。

「じつをいうと私は入間川町の北、高萩村(高萩は鎌倉、府中、上野邑楽、新田を結ぶ街道上の一部落として鎌倉時代にもあらわれている)の南に下大谷沢(しもおおやさわ)、大谷沢などの部落のあるのを、ひそかに「おおや」に擬せんとしているのである。そしてその附近にいくつもいくつも散在している池沼を、ひそかに蓴菜すなわち「いはゐかづら」の産地ではないかと心頼みにしているのである」。

上掲のパーレン内注記に「鎌倉」という文字が2ヶ所に出現するため鎌倉街道のような誤解を与えやすいが、この文は実は今言う「東山道武蔵路」つまり古代官道を示唆していて、群馬県邑楽(おうら)は足利郡衙方面、新田(にった)は新田郡衙方面と、武蔵路の東山道Y字接続肢につながるのである。

土屋の「ひそかな大家が原」のある高萩村は現在の埼玉県日高市の大字で、JR川越線には1940年(昭和15)開設の武蔵高萩駅が営業中、駅南方2キロほどは大字大谷沢で、そこは越辺(おっぺ)川支流の小畔(こあぜ)川左岸、開析谷が入り込むエリア。
そうして、東山道と武蔵国衙(府中)を結んでいた「武蔵路」は、この大谷沢の東方約1里(4キロ)で入間川を渡河しつつほぼ南北に通じていたと推定されているのである(『地図でみる 東日本の古代』2012年。下掲。p.137。基図は5万分の1地形図「川越」1907年測図。赤破線は推定古代官道)。

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80年以上前、すでに土屋によって以上のような不羈独立の考究がなされていたことは発見であった。
さらに土屋は文献歌読みだけの人ではなかった。
「埼玉県入間郡高萩附近の池沼に、現在、蓴菜が自生しているか否かを、尋ねようとして出かけた。地図で見るとこのあたりには小さい池が多く、想像が働いてくると、まだ見ぬうちからそこらの池は蓴菜で充満しているようにさえ幻覚される。」(『万葉紀行』「武蔵国歌続稿」いはゐづら)

この場合の「地図」とは、参謀本部陸地測量部「誉の五万」つまり5万分の1地形図「川越」の1939年(昭和14)版と思われる。出掛けたのは戦時下も1942年(昭和17)9月26日。
土屋の「入間道の大家が原の古へを」の歌の成立を1938年以前とすると、この時は再訪の「秋」だったことになるが、さて。

ともかくも、下車したのは高萩よりひとつ川越寄りの笠幡駅。地図に見える池を目指し、また土地人に蓴菜を尋ねいくつかの池を目指すが「今日は運悪く私は蓴菜の生えているようすを実地に見ることはできなかったが、ノト池にしても仙女が池にしても、条件は明らかに蓴菜の生ずるに適している」ことを確認し、さらに「実地について知り得たことは、大谷沢附近はいわゆる谷田が非常に発達して、思いがけぬ所にひろびろした水田が稔っていたことであった」と言う。
ただし上掲図に見られる池は、すべて開析谷の谷頭を堰き止めてつくられた水田灌漑用の溜池で、「谷田」(やた、たにた、たにだ、やつだ、読み不詳)も今は「谷戸田」(やとだ)と言うのが一般的である。しかしこの図の範囲だけでも「隠ヶ谷戸」「猿ヶ谷戸」「戸ヶ谷戸」「半澤」「下大谷澤」「大谷澤」と、水にちなむ地名は6を数えるのである。
そうして後日、土屋は土地の青年が大谷沢附近で採取した蓴菜の標本を手にすることになる。

「しかし「いはゐづら」が蓴菜である積極的な証拠は、依然として私の手に入らない」とはこの項末尾に置かれた文章で、土屋文明はどこまでも探求の人だったようだ。ただし日高市大谷沢は引かばぬるぬる「大家が原」の歌碑が建立されて然るべき条件は十分に備えていて、JAいるま野高萩南農村研修センター直売所駐車場の碑がそれである。上掲旧版地形図の左下、「大野澤」の文字の付近にあたる。

もっともこの一帯はすでに入間川を越えて西、その支流越辺川のさらに支流小畔川も貫流し、丘陵めいた地形には小規模ながらたくさんの谷戸田が開かれ、平坦高燥な乏水地帯「武蔵野」とはあきらかに別ものなのであった。

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