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『武蔵野』の古地図 その13

万葉歌No.3378「入間道」を解釈するには、「入間郡」そのものの概要をおさえておく必要がある。
『新編武蔵風土記稿』の「入間郡之一」冒頭は「入間郡は國の中央にて江戸より西北の方七里許にあり」とし、ややあって以下のように記す。

「又当郡古は多磨郡に通じて茫々たる原野なり、都て是を武蔵野と号し、後世分ちて入間野と記せしもあり(東鑑に於入間野有追鳥狩と記せし類なり)、又三芳野の鴈(伊勢物語に見ゆ)、堀兼ノ井(枕草子及千載集俊成卿歌の類)、の如き、郡中の地名縉紳家の歌枕にも入しゆへにや、郡名も自づから世にいちじるし、後世に至りて郡中の曠野多くは開墾して悉く田畝となり、人家も従て出来にければ古とは大にことなり、又中古より郡中を二分して入東・入西の唱あり、これ多磨を多東・多西と別ちしに同じ」。

武蔵国22郡を図にしてみると、右下にずり落ちた罅割(ひびわれ)鏡餅の態、入間郡はまさにその重心に位置する。

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それに接する餅の底部は多摩郡である。重要なのはその多摩郡の東偏に国衙(府中)が置かれ、上野国を東西する東山道にT字(精確にはY字)型に接続する、縦(南北)の官道(支道)が国衙を目指し、入間郡を貫いてまっすぐに通っていたことである。
現在の発掘文化財用語で「東山道武蔵路」と称するルートである。
武蔵国はその後(宝亀2・771年)東海道に転属となり、この道は中世には廃絶する。

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万葉集の成立は759年から780年頃までと見られているため、「入間道」と言えばまずはこの「東山道武蔵路」そのもの、あるいはその入間郡を通る部分を指すと考えるのが順当であろう。
それでも歌碑が各所散在するのは、「入間道」が「武蔵路」のさらに枝道とする見方、あるいは「入間道」と言って入間郡全域を指した可能性も否定できないからである。

しかし根幹である「東山道武蔵路」そのものは、現代の地図にはもちろんのこと、江戸時代の道にも痕跡を残さない。
つまり、江戸時代に現役であった道とそれに結ばれた村落をたよりに古代の歌枕を追ったのでは、初手から誤ることになるのである。

また古代における高麗郡と新羅(新座)郡の新設および中世における高麗郡の東方進出により、入間郡域は近世までに大きく変容した。『新編武蔵風土記稿』の入間郡2図、すなわち正保年中改定図および元禄年中改定図も、ともに極端にくびれた形で、国立公文書館が公開しているデジタルアーカイブズの天保国絵図のうち「武蔵国」図でもそのことは容易に確認できる。
言われるところの入間郡「入東・入西」(にっとう・にっさい)の別と、多摩郡「多東・多西」の別とは様相が異なるのである。

上掲上図は『武蔵国分寺のはなし』(国分寺市教育委員会、2002年改訂)による古代武蔵国郡の概要で、入間郡はまだふっくらとしていて「入東・入西」以前である。
下の図は、国分寺市・坂戸市合同企画展パンフレット「東山道武蔵路を探る ――路でつながる古代の国分寺と坂戸」(2015年)の一部だが、こちらの入間郡は高麗郡にその中央部を大きく侵食されているから、「入東・入西」以後の様相である。

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